2020年 年頭言
どうもこんばんは。
2020年も始まって2週間が経とうとしているが、今更ながらに、明けましておめでとうございます。
今年も気まぐれで綴る駄文にお付き合い願っておきます。
いくら自分の文章を卑下しても、こんなところで世間様に垂れ流すんだから、やっぱり読んでいただきたいという、見え透いた欲があるのだ。どうしようもない。人様に見せるんだから、それなりのものを書きたいはずなのに、そのためにすべきことはしていない。つまり、内容の良し悪しを度外視した練習量、コンスタンスに書くことだ。
未完成を100作書くよりも、完成作を1作書くほうがよっぽど神経を使う。今年はその一作のために、時間と体力と、精神を使いたい。
それでも、やっぱりくだらないことに時間を割いてしまうのか…。完成させないのか…。
今年は26歳になります。
世間で偉いとされている人たちが26歳の時に何しいていたのか、覗いてみたが、大したものはなかった。せいぜいアインシュタインが「相対性理論」を発表したとか、長谷川町子の「サザエさん」が連載スタートとかくらいで、そんなに目を惹くものがない。
なるほど、大抵の偉い人たちは26歳の頃には、もうすでになにかを成し遂げているわけだ。どうりで、そんなにたくさんないわけだ。今から私が偉くなろうと思っても、過去の偉い人たちを見るに手をくれなわけだ。
そもそも、偉い人ってなんだ?私はそんなのになりたいんだっけか?
バイトの大学生たちになんだかモヤモヤする。
2週間のホームステイを堂々と『留学』と言えてしまう浅はかさ。その浅はかさを「若さ」というのか。
これからなにをかしようとする分岐点にいる彼らと、いつのまにかその分岐点を過ぎてしまったらしい私と。なんだが物悲しい。もう一度、分岐点にたちたい。いや、常に面白い選択肢を目の前に並べて、分岐点にいたい。
そのために自分がどうあったらいいのか。もっと興味の幅を広げて、何かに固執せずに、常に捨てれるようにいたい。
つまり、捨てれないものを持つとどんどんつまらなくなる。捨てないでいることが、選択肢を狭める。いつでも捨てれる自分でいたい。生活の安泰が一番の敵なのか…?
最後に手帳の走り書きの詩のようなものを。
すっとんきょうな夢のつづきを見よう
それとも現実になじんで
もうそっちの人間になったのか?
そっちの人間の方がえらいなんちゃ
思ってねぇよな?
夢がみれないことが弱さだって
そっちの人間はいつも忘れるんだ
だから、強くいこうぜ
そう、すっとんきょうな夢のつづきをみよう
1月11日。
この日、高校の部活の仲間と新年会をした。
高校時代と変わらないところと変わってしまったところと。変わってないところが懐かしいからこそ、変わってっしまったところが寂しい。帰りの電車で書いたものだ。
これを見て思うのは、一つ。もう少し丁寧に字が書けるようになろう…。
今年もお付き合いのほど、どうぞ願っておきます。
では、こりゃまた失礼いたしました。