本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。茅ヶ崎の海辺からコカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

「人間失格ー太宰治と3人の女の子ー」「ジョーカー」

 

どうもこんばんは。

 

ここのところ、書く頻度がめっきり減ってしまった。毎日は書けずとも、週に3日くらいは書きたい。週に3回、1時間くらい書くということは、週に3回、3時間くらい一つのものを思考するということだ。それを理想に深くものを考えたいが、それが出来ていない今の生活のもどかしさ。

人間はなんせ寝なくてはいけない。1日5時間くらいは寝なくてはいけない。気持ちが追いつかないと12時間だって寝なくてはいけない。睡眠は体力の回復ではなく、精神の回復のためにあるのだろう。

 

最近、立て続けに2本映画を観た。

人間失格太宰治と3人の女ー」と「ジョーカー」の二本。

 

太宰治好きを公言しているだけに周りから「人間失格」の感想を求められる。一人一人に答えるのは億劫なので、ツイッターに書いてしまったが、それが字数を理由にかこつけて乱暴なので、もう少し丁寧に考えてみる。

 

観る前に気にかけていたのは、太宰治が書きたいのか、酒と女と薬に溺れる廃人が書きたいのか。後者の代表として太宰さんが選ばれたなら、そんな不名誉なことはない。太宰作品をいくつか真剣読めば分かるが、太宰さんはそんな人ではないからだ。

そんな懸念は杞憂に終わる。ちゃんと太宰治が書かれていたし、この映画はちゃんと太宰でなくてはいけなかった。

日頃、写真を生業としている人らしい、ワンカットワンカットの美しさに拘った映像だった。ただ、その映像がただ美しさを追求したものなのか、もしくは、そのシーンの捨象された感情を撮しているものなのか、これは映画における映像の役割としてはかなり重要なものだと思う。

その点でいうと、その美しさはどんな感情を表現したいのか、不明瞭なところがあった。

面白い映画の要素に、その前半で提示され、後半のクライマックスで効いてくる記号というものあるのではないかと思っている。これは伏線–回収とは違うもので、 この記号自体がストーリーを展開させることはない。でも、そのシーンでは台詞にされていない想いが言葉の形を変えて、観るものに訴えていたり、その変化を知らせていたりする。そんなものを伏線とは呼ばずに「記号」と呼んでいる。細部までこだわる映像にそんな記号がなかったことに、映画としての奥行きの物足りなさを少し思ったりもした。

 

役者陣の演技が始めから終わりまでずっと光っていた。あの演技を見るための映画だと言っても過言じゃない。特に最後、玉川上水に飛ぶこむことをためらう太宰をじっと見つめ、今死にたいと迫る二階堂ふみさんの表情。画面の迫力を超えて真にっ迫ってくる。あらかたの人間死ぬときは、きっと笑うのだろう。心中は時も場所も死に方も選べる幸せな死に方だ。死に対する希望が溢れていた。一方の太宰はその笑顔に押されるも諦めきれない表情を見せる。それがまたいい。暗がりなのがなおいい。

それから、帰らない太宰に憤りでも悲しみでもない感情をインクに滲ませて、子供と共に体や顔に塗りたくる宮沢えりさんもすばらしかった。感情を言葉に変換できない時、人間は自分の見た目を変えるものなのかもしれない。花火の灯りに浮かぶ旦那の浮気現場。現実を乗り越えることなどとうに諦めて、自分が自分じゃなくなる形になるものかしら。宮沢さんの迫真の演技は必至の逃亡とそれが叶わぬ絶望とが滾っていた。

とにかく、役者陣がすばらしい。

 

ラブシーンの撮り方が下品なのがもったいなかった。

私は小栗旬さんと3人の女優陣のセックスが見たいわけじゃない。太宰が3人を抱く時、また3人が太宰に抱かれる時、それぞれが持つ愛、太宰が3人に愛情を持っていたかは不確かだし、その微妙な違いを出して欲しかった。

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というのが、一太宰ファンの感想でござんした。

 

それから、話題作の「ジョーカー」

存在がないも同然の社会的弱者が街全体を脅かすサイコパスな悪魔になるまでの物語。

個人の精神が歪んでいくことの責任を社会はどこまで負うのだろうか。アーサーが地下鉄でエリート証券マンを銃殺したことをキッカケに勃発する弱者によるピエロのお面のデモがいかにもアメリカらしく、貧富の差が歴然となる。

後半30分、アーサーによる怒涛の殺人。アーサーのアイデンティティーのシンボルとしての母親を殺し、社会的弱者のシンボルとして同僚の道化師を殺し、コメディアンのシンボルとしてのマレーを殺すことは、失うものが何もないジョーカーの誕生を大きく印象つける。

なんせジョーカーの恐ろしさは、自分の死すらも喪失だとして厭わない「失うもののない」存在だということだ。

 

さいご、暴漢たちにパトカーから救われたジョーカーが車の上で踏むステップの軽さは、これから彼が起こす恐ろしいテロ、彼がいうところの「面白いジョーク」に対して軽さが見られる。燃える街をバックに踊る彼は気持ちよさすら伺える。それは街が、社会がやっと彼の存在を認めたのだ。自分の存在を認めるものが自分以外にも生まれたのだ。 自分の存在の認知を枯渇していた彼にしてみれば、どんな形でも構わないのだろう。それがサイコパスを生んだのだ。

 

ホアキンのジョーカーっぷりが素晴らしかった。踏みにじられて当たり前のような存在でも優しく生きようとする人間味が溢れている。その人間味が、冒頭の道化師として仕事中のアーサーが襲われるシーンから奪われていく過程と、奪われていくことへの怒り、やるせなさが表情だけでなく、体から溢れている。それでも、最後、しっかり狂気に満ち溢れている。

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ということでござんした。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。