思考をしないこの頃の私
どうもこんにちは。
突き刺さるような暑さが和らいですっかり夏も大人しくなった。
いま、25歳で、80歳まで生きるとして、私にはもう夏が55回しか来ない。倍以上もあると思えば、多いような気もするが、もう25回も消費したことを思えば、倍以上あるとは言え、55回という数字は少ない気がする。
残りの55回を私はどうやって過ごしているのだろう。
秋にかけて、新しい企画を立ち上げようと思っています。
私の周りで面白いことを考える人、興味を持つ人を集めて、共通の作品を鑑賞して、考察して、持ち寄る読書会を開きたいなと。
作品は順番に決めることにして、ジャンル等は問わない。知識をひけらかす会ではないので、何も関連書を読み漁ったりする必要もない。作品を鑑賞すると、言葉にならない感情が胸の中と言わず、身体中にあふれて、言語化するまでまとわりつく。どう消化したらいいものかと、考えるとこれはやっぱり文殊の知恵に頼るしかない。この際、3人と言わず、もっと好奇心に満ち満ちているが寄れば面白かろうと、そんな企画です。
会員の了承が得られれば、録音して書き起こして、ここにあげたり、新しいブログを開設して、会員以外の人でも同じ興味のある人に読んでいただいて、新しい発見や見解があればお聞きしたいなと持っています。
まあ、今のところはまだ私の頭の中にあるだけのことです。この世になんらかの形が与えられなければ、ないのと一緒ですね。
下書きの中には今月初めまでやっていたボルタンスキー展を契機に考え出した「不在」という存在についてだったり、塩田千春さんの展覧会のこととか書いてるんですけど、形になりきらない。
つまり、これらもないのと一緒ですね。不在だ。
芝居も観に行ったし、映画も観たし、書く題材はいくらもあるんですけどね、いかんせん、思考しない。
思考しなくなった私は働くだけの血肉の塊だ。ゾンビが生産性を得たようなものだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。