理不尽の握り
どうもこんにちは。
最近、やりたくないこととどう向き合うのか。それが私の中で大きな課題になっている。
人生はやりたいことがアホほどある。それにしてもこの量はアホだ。
しかし、それと同じくらいやらねばならないこともある。こちらもアホほどある。アホとアホとがせめぎ合う。こりゃ、新喜劇だ。ドリルすんのかい。
やらねばならないことの半分くらいはやりたくないことだ。やりたくないのにやらねばならない。やりたくないことをなんとかやっても、もうすぐ目の前には次のやりたくないことが構えている。仕方がないと、それに取り掛かっているうちに脇をやりたいことが何食わぬ顔で通り過ぎていく。やりたくないことを片付けた時には時すでにお寿司、いや遅し、何食わぬ顔で私の脇を行くやりたいことは背中すら見えない。見えるのは前からズシンズシンとやってくる次のやりたくないことだ。
言い間違いのついでにお寿司の思い出。
昔、家族で回転寿司に行くと、私はまずかけうどんを食べることから始めるのだ。寿司屋に行ってうどんが食べたいわけがない。それでも、両親は食べ盛りの私がいきなり寿司を食べるよりも、うどんをお腹に入れてからの方が経済的だと言うのだろう。食べたくもないうどんを食べさせられる私。うどんを食べる私の脇を流れるカンパチ、鰹のタタキ、赤身のマグロの握りたち。目の前の食べたくないうどん。
まさに今、私の目の前に列をなすやりたくないこと、脇を流れるやりたいことと同じじゃないか。
なるほど、あの時の両親は回転寿司を通して、不条理なやりたくないことに満ち満ちた大人の生き方を訓化していたわけだ。ありがたいうどんよ。
いやいや、んなわけあるか。本当に私のことを思うなら、うどんを食べずに空の胃袋に一皿目の寿司を入れる方法を教えて欲しかった。
私が今模索しているものはそれだ。
目の前のうどんは要らない。欲しいのは寿司だ。
しかし、社会というこんなに狭苦しいところで生きていると器が空になったと思ったそばから、うどんが追加される。そばからうどんだ。ややこしい。一応「、」入れたけど。
この問題、何がおっくうだって、99%はやりたくないし、煩わしいし、顔も見たくないというネガティブな感情なのだが、たった1%の愛着が湧いてしまっているのだ。こうなってしまうと、やりたくないことが振り切れない。
仕事なんか今すぐやめたい。もう明日から行かない。これからはずっと家にいる。なんてことは可能不可能で言えば、実は可能なんだけど、これが不可能なわけだ。職場でお世話になった人への感謝とか、慕ってくれるアルバイトたち、このたったの1%が可能を不可能にする。
不可能を可能にする1%はエジソンの努力、可能を不可能にする1%は私の愛着。
しかし、この振り切れない愛着って、響きがいいようだけど、周りを敵にしたくないと言う自分可愛さからきているものでしょ。振り切ろうとすれば、愛着が短刀に突然に変わる。私は必ず傷付く。でも、ストレスを抱えて、脇を流れるやりたいことに目をつぶることだって自傷していることと相違ない。とくとくと血が垂れている。
そう、どちらにしても、私は必ず傷付く。血は見るのだ。
これには抗えない。では、私はどうするのだ。
会社の人手不足という都合で、やりたかった調理を離れ、接客をさせられる。圧倒的に増える就業時間。脇を流れるやりたいことは前よりもその速度を速めていく。回転寿司なら遠心力で寿司はすっ飛んでいる。
仕事で埋まっていくスケジュール。気付くと終わっている行きたかった芝居。
要するに私は疲れている。
これ以上、流れる血がないよ。
では、こりゃまた失礼いたしました。