本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

KERA MAP#009「キネマと恋人」@世田谷パブリックシアター

 

どうもこんにちは。

 

木曜から金曜にかけての話。

 

麻痺して感覚のなくなった睡魔と疲労とを連れだって金曜昼間の八王子から三軒茶屋へ。

木曜の深夜、江ノ島の職場から終電で八王子へ。コンビニを経営する同級生を訪ねて、朝までカラオケ。立ち食いそばを食べてから、殺伐とした街中の殺伐としたビルの中の出来合いみたいなスーパー銭湯へ。くだらないことから、互いの未来のことを語る。はたから見ればくだらないことが当人たちには最もらしいことだったりする。

金曜の八王子の朝は、私たちと違う意識の中で生きる人たちが意識のない曇り空の下を歩いていた。

 

京王線の下高井戸から世田谷線へ。

車窓から見える東京人の暮らし。すぐそこの手の届きそうな無愛想な紫陽花。手入れされてない感じがいかにも東京だった。同じく人の生活の中を織り行く江ノ電の紫陽花はそうは行かない。観光客のために三つ指をついて咲いている。

そんなことを思っていると、読もうと思ってカバンから出していた本を開く間も無く終点三軒茶屋に着く。

 

三軒茶屋世田谷パブリックシアターKERA・MAP#009「キネマと恋人」を観劇。

木曜の昼間に電話して、なんとか当日券を取った席。補助席といえ一階席の一番後ろの席。立ち見が多い中で、座れただけでも儲けもんだ。

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3年ぶりの再演。キャストが初演と同じメンバー。箱が少し大きくなる。

そんなことはどうでもいい。

 

架空の方言がこだまする架空の地方の島。映画に恋するヒロインが映画の中から飛び出す侍とその侍を演ずる役者との間の恋心に揺れる物語。現実には存在しない侍。華やかな東京で暮らす高嶺の花的役者。人格は全く違うのに、並んだ顔は全く同じ。

映画への愛、恐慌の荒んだ世相、時代を思わせるロクでもない亭主との愛のない生活、怒られてばかりのレストランの給仕、田舎町特有の閑散とした変わり映えのしない未来。細かいことが隅々まで書かれて、演じられている。ヒロインにとって映画は面白くない現実から逃避するための桃源郷なのだ。

舞台に現れたスクリーンと生身の人間の芝居との見事な融合。CGを使わずに目の前で起こる素敵な奇跡に私たちは終始ワクワクする。スクリーンの中の役者がスクリーンの外の生身の役者を目で追う時まできっちりと演出されていて、本当に2つの異次元が1つになった不思議な舞台上。

映画が起こす奇跡に翻弄され、映画に狂わされるも、やっぱり映画に救われるヒロインのその純情さがなによりも美しかった。どんな時も映画を思う気持ちだけが前向きに彼女を突き動かす。

 

映画も芝居も実生活には要らない。なくては死んでしまう人間などいない。

でも、なくてはいけない。誰かの人生にはなくてはいけない。

タバコが吸われるように、酒が飲まれるように、音楽をイヤホンで聞き歩くように、束の間にコーヒーを飲むように、何かの折に映画を、芝居を観に行く。

そんなことで、生活の憂さが解決することはない。観たことで仕事ができるようになるわけでも、銀行預金が増えるわけでも、嫌いなネギが食べれるようになるわけでもない。観劇中の3時間のワクワクとその感動の余韻が数日残るだけだ。

でも、生活において、大切なことは生産性があることだけではない。

何も残らなくても、意味のあることはある。

 

ラストシーン、取り残されたヒロインが暗い顔で入る映画館。スクリーンを見上げているといつのまにか笑顔になっている。妹と一緒に声を上げて笑っている。

きっと、映画館を一歩出れば、映画俳優に取り残された切なさや、やるせない旦那との生活が戻ってくる。それはスクリーンの中では演じられない生活だ。

それらを忘れるほんの些細な時間はヒロインにも、私たちにも大切なはずだ。

キネマと恋人

キネマと恋人

 

 

では、こりゃまた失礼いたしました。