美味しいが言えない想像力
どうもこんばんは。
いきなりだが、私は後輩として可愛くないのだろうと思う。
自分でも、後輩と言うよりは先輩気質であるなと思っている。
目上の人にご飯をご馳走になる。出てきた料理を一口食べて、「美味しい」と言えば後輩として可愛いものを、素直にそれが言えない。美味しいとも思わないものを美味しなどと嘘は言うまいなんて信念めいたもののために言えないのではない。心から美味しいと思いつつも美味しいと言えないのだ。天邪鬼とも違う。
出てきた料理を見ると、頭の中でどんな食材を使い、どんな調理をしているのか観察する。その観察から大体の味が想像できるものである。そしてそれを一口食べると「なるほど、やっぱりこれは美味しい」と感想を漏らす。美味しいが言えるではないかと思う。しかし、先輩が求める美味しいとこれは違う。
つまり、私の美味しいは「納得」の美味しいなのだ。その料理の絶対的な美味しさに言う美味しいではなく、自分の中の想像と相対的に見たときの美味しいなのだ。
一方、先輩が求める美味しいとは、「感動」の美味しいなのだ。純粋に自分がご馳走している料理の美味しさに対して、驚いて感動して、それでもってその先にある美味しいを求められる。
同じ美味しいでも、これは違う。
それに料理を提供する店側に対しても、「美味しくて当たり前」といういささか偉そうな前提を持っている。身銭を切る切らないに限らず、美味しいものを提供するのは飲食店として当たり前ではないだろうか。その上でのセービスに関して、神様扱いしろとは言わないが、飲食店が美味しもの提供することを求めるのは、傲った姿勢ではないと思う。
閑話休題。
つまり、人に連れてきてもらった飲食店で出てきたものなんだから、ある程度は美味しくて当然だと思っている。その前提としてある美味しさに驚きや感動を求められても困る。なんせ、それが前提なんだから。私からは納得の美味しいしか出てこない。
これは私の想像力が豊かすぎるのがいけないな、なんて思ってる。見た目からある程度の味を想像できてしまうことが原因なのだ。意外なことから美味しいと想像力の関係性を導き出す。
豊かな想像力も困りものだ、なんて随分と調子にのる。調子に乗りながら、コーラを飲む。これがとんでもなく美味しい。
あれ、おかしい。何万回となくコーラを飲んでいるはずなのに、私は美味しいと驚き感動する。何万回と飲んだコーラの記憶はどこに行ったのか。こうなると、美味しいと記憶も何か言われがありそうだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。