本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

「ナナメの夕暮れ」「南瓜とマヨネーズ」

 

どうもこんばんは。

 

今週はやっと本を読み終わったり、DVDを観たり。

まずはその感想から。

 

ナナメの夕暮れ若林正恭

オドーリーの若林さん。そう、ツッコミの方。夕暮れが「ナナメ」というのがなんとも彼らしい。

M-1の覇者復活で決勝に駆け上がってきた時から、オードリーは一瞬でテレビスターになった気がした。人見知りを武器にしながらも、ゲストを斬りつつ場を回す司会者、若林さんと野生民族とのロケに始まり、東大受験、 フィンスイミング、ボディビル、一体どこに向かうのか分からない春日さん。それに今年で10年目にラジオのフリートークから垣間見れる仲の良さは聞いてるこっちも旧知の仲間に入ったようで嬉しい。リトルトゥースでよかった。

 

若林さんの性格のややこしさはなかなかのものだ。どうして、そうまでしてひねくれて考えるのだろうか。不思議だ。そのひねくれに共感できたり、分からなかったり。

しかし、そんなひねくれがひねくれていることを自覚して、一生懸命に社会の型にはまろうとひねくれ矯正をする。変わりつつあったんだね。ひねくれを矯正することが大人になるということだろうか?テレビに出て、あの世界に揉まれることは会社でサラーリーもらって働くのとはちょっと違う。その世界でああいうひねくれが認められないのだろうか?

 

太宰の言葉にこんなのがある。

大人とは裏切られた青年の姿である

ひねくれを自覚し、矯正していくことはまさにひねくれていては世間ではやっていけないということをまざまざと見せしめた裏切りだ。テレビに出るようになり、いろんな人に会っていくうちにひねくれた青年は裏切られ、大人になる。キューバやモンゴルで。

しかし、ことによると、テレビに出始めて裏切られたということは、そのきっかけになったM-1のあの漫才はひねくれることに真剣だった青年が魅せた漫才だったいうことではないか。その漫才は今も変わらない。

ひねくれを矯正しようと司会業に励んでいる若林さんだが、あのオードリーの漫才だけはひねくれた頃の裏切られる前の青年の姿かもしれない。あの漫才が見れるなら、ひねくれていることも悪くない。裏切られずに青年であることに遜色ないんじゃないだろうか。

 

それから最近観た映画が「南瓜とマヨネーズ

売れないバンドマンどそれを金銭的に支える彼女。

雰囲気で感じ合う終わりの空気。二人の間に漂う空気が変わっていく。それを見ないふりしている二人。

バンドマンは音楽を作ることを辞めてしまい、どうしてもバンドマンを支えたい彼女はお金を作るために水商売を始める。

そのうちにバンドマンは売れ始めた昔のメンバーから復帰の誘いがあるが、今のレコード会社に染まっているような彼らの音楽が好きになれない。一方の彼女は昔、心底好きだった男に再会する。

一度変わってしまった空気感は、元には戻らない。いくら懐かしくとも、いくら後悔しようとも戻らない。意を決して二人は新しい一歩を踏み出してみる。

 

どうして、こういう映画を観るのだろうか。

人の別れは切ないし、それを踏ん張って前を向く二人は希望になる。過去の自分の経験と重なりそうなところを探して、ちょっと形を変えて重ねてみる。まるで、映画の中の登場人物になったようで、より感傷に浸れる。

観終わると映画の中の彼ら彼女と同じ希望が胸に芽生えている。不思議なもんだ。

間接的な経験のはずだったのが、いつのまにか自分の実際の経験の追憶となる。

 

気が向いたら、ご一読にご鑑賞を。

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 
南瓜とマヨネーズ

南瓜とマヨネーズ

 

 

ちなみに引用した太宰は「津軽 (新潮文庫)

津軽 (新潮文庫)

津軽 (新潮文庫)

 

 

では、こりゃまた失礼いたしました。