落語の話に流れ着いた噺
どうもこんばんは。
急にめっきり寒くなって何事かと思う。
ほんの数日前まで暖かかったのが嘘のように寒い。
寒いなぁと思ったところで何も変わるわけではないけどね。
一気に年末ムードを漂わせた街はなんとなく歩きづらい。
「平成最期の」に踊らされたくない思いからか、例年以上にイベント事を避けてきた。とことんな天邪鬼だ。これから先もクリスマスに向けて特に何かしようとは思っていないかな。
最近、千早茜さんと尾崎世界観さんの共著「犬も食わない」を読んでて思うのは、当分、現代人の若者の恋愛ものはいいかな、ということ。別にこの本が面白くないわけでも、中身がないわけでもない。なんとなく共感でいる部分とどこかで反発してしまう部分と混在する。今までは、高いリアリティの分だけフィクションがメタ化してるような錯覚が心地よかったんだけど、最近はそれが物語の没入感を変に深くしすぎるような気がしてならない。どこか起きてるようで起きていない物語であって欲しいのに、自己体験とフィクションが近い分だけ起きてしまっている既視感がつきまとう。
それでいうと、落語というのは起きているようで起きていない物語で成り立つ。噺と自己体験が遠いところの物語なので没入感は浅くて済む。むしろ、没入感が浅いからこそ演者によって全く違う噺に色を付くようになるとも言える。しかし、自己体験とリンクするところがあるので、共感は強い。
落語を聞いたことない人によく私が口説き文句でいうのが、YouTubeにある落語をどれでもいいから10席聞いてみて欲しい。うち9席は人ごとでつまらないかもしれないけど、1席だけ、しかもどこか一件だけ、「あれ?これあの時の私と同じじゃん」と自己体験とリンクするところがある。これが見つかれば、落語への興味がどんどん湧く。江戸時代の架空の誰かさんと私が重なる瞬間を楽しむのは落語特有の追体験に他ならない。こんなに楽しいことはない。
現代の落語史に名を残す噺家、立川談志は「落語は業の肯定」と定義する。私たちの体験とリンクする落語が業の肯定ならば、私たちの生活も「業」そのものだということになる。そんな気がする。それを笑えるのだとすれば、落語というのは実に面白いものではないか。
そして、それらが進化した形になるのが新作落語だ。
現代を舞台にした新作落語は自己体験との距離感がぐっと縮まる。しかし、落語という形式のおかげで、没入感が浅い。つまり、先の小説で見たような既視感を感じることなく、自己体験とリンクさせることになる。
新作落語で私が一番好きなのが柳家喬太郎作「ハンバーグが出来るまで」と立川志の輔作「みどりの窓口」って作品。
[라쿠고]야나기야 쿄타로(柳家喬太郎)-함바그가 만들어지기까지(ハンバーグができるまで) - YouTube
どちらも現代の作品なのに私たちの体験と近く過ぎず、つまり、落語というフィルターの中でリアリティを欠いているから、没入感の深さに邪魔されず、自己体験とのリンクが楽しめる。
こんなこと言うつもりではなかったのに、いつのまにか落語を解析するようなことをしてしまった。
実は、大学時代は落研で全国大会にも出たことがあるくらい落語が好きな私。
戦前の名人から現代の売れこっまでいろんな音源を聞いてきたし、持ちネタも2、30はある。自分で新作を作ったこともあるくらい落語好き。最近、急にその熱が再燃し始めちゃっている。そのうち、落語のことももっと書こうかしらね。
で、本当に書こうと思ったことは、普遍的な古典を読み返そうかなってことだったんだけど、急に「落語」ってワードが飛び出たせいで、話の方向を自分でも見失っちゃったね。
というわけで、これ以上何も見失わないうちにね。
では、こりゃまた失礼いたしました。