本に積まれて、関所を通して
どうもこんばんは。
最近、わたしが買った本を収支計算アプリで確認してみると、こんなラインナップ。
「ガラパゴスの箱舟 (ハヤカワ文庫SF)」(カート・ヴォネガット)
「パパの電話を待ちながら (講談社文庫)」(ジョン二・ロダーリ)
「赤いワインに涙が…―短編集」(サガン)
「三三七拍子 (幻冬舎文庫)」(太田光)
「進化した猿たち (3) (新潮文庫)」(星新一)
「これでおあいこ―ウディ・アレン短篇集 (1981年)」(ウディ・アレン)
と、かなりの冊数だ。
で、この中で読み終わったものは…0冊。しかも、この中で、数ページでも読まれたものは6冊しかない。とんでもない無駄な買い物…のように見えるが、実はそんなことない。
これだけ買っておいて、読み始めたものが半分にも満たないなんて。無駄にしか見えない。
しかし、今数ページ読んで辞めてしまっても、いつか違う時に読んでみると、その時には面白かったりする。その時になってやっとここで買った意味が出てくる。
わたしにとって本を買うとは「本と出会う機会を買う」ということに等しい。そして、買った機会を家の本棚や机、枕元に積んでおく。そして、その時その時のわたしの気分や状態がその本と出会わす。何度、本屋の棚で見かけて気になっている本でも実際にわたしの部屋に来ないと、わたしとは出会えない。
では、本屋に行くわたしはどういう本と出会う機会を買うのだろうか。それはやはり、その時のわたしの気分や状態に左右される。わたしが本と出会うには二度も気分屋のわたしの関門をスルーしなければならない。これはなかなか大変だ。
こうして、難関をくぐり抜けた最近の本は、三谷幸喜さんの20年以上前のエッセイ「オンリー・ミー―私だけを (幻冬舎文庫)」だ。
あれだけ面白い脚本を書く人なんだから、どんな面白い生活をしているのだろうと思ったのに、見事に期待を裏切られる。なんというか生活そのものはなんてことないのだ。普通の人と違うことといえば、常に締め切りに追われていることぐらいだろう。
ただ、そんな誰にでもある普通の生活や、仕事に対してのちょっとした怠けも三谷幸喜が斜めにみるとなんと面白おかしいことか。誰でもちょっと思いつきそうなことを妙に面白く広げる。こりゃ、難関を通して正解だった。
さて、次に難関を通りそうな本はどれだろう。
なんせ本屋に並ぶ無限に近い数の本の中から、わたしと出会う機会は買われたわけである。それだけでも確率としてはかなりのものだ。それだけの確立を通った本だから次の関門を通るのは意外と容易いかもしれない。
さっきからわたしはなんと偉そうな言い様を。本好きな皆さん、ごめんなさい。
ただ、わたしも本が大好きだからこそなんです。
では、こりゃまた失礼いたしました。