現代アートに向いた牙が突き刺さる 〜のん「女の子は牙をむく」〜
どうもこんちは。
一昨日は結構な雨の中、渋谷に行って来ました。
お目当は「創作あーちすと」のんさんの個展「女の子は牙をむく」でした。
まあ、渋谷の人の多さはびっくりだね。
一年前に茅ヶ崎に出て来るまでは都内をメインに行動してたので、それが当たり前だと思っていたけど、いったん離れてみると、なんで自分があんなところにいれたのか、歩く導線を自然と見つけていたことに驚く。
さて、ロフトの辺りを彷徨いながら、フラフラしながら坂の途中になんとか見つけた「GALLERY X BY PARCO」へ。
早速、中に入っておみくじ付き入場券を買う。裏のおみくじにはこんなことが。
牙凶
身から出た牙に気をつけよ
うーん、特に上手いことを言おうとしているようではないけど、諺に掛けてみようという意図だけが感じ取れるなんとも言えないお言葉。
中はそんなに広くないものの四方はもちろん、床や天井までのんさんの作品で埋め尽くされていた。
思っていたよりも分かりやすい絵が多く、モチーフが感じやすいものが多かったのは、ちょっと驚きました。
のんさんの絵を中心に、天井には彼女のデザインのワンピース。床には「止まれない」と記された横断歩道を模した作品。
カラフルでモフモフのハムスター。
とにかく、「女の子」と「牙」をモチーフに何かを表現しようという意欲はすごく感じました。そのエネルギーのようなものは会場中に溢れていて、作品に迸り、流れて、作品とその間の空間を繋げていたように思います。
つまり、個々の作品を鑑賞するのと、同時に、あのハコの空間そのものを一つの作品のように感じることで違う印象を感じ取れたのです。
現代アートについて考えるとき、私は、作品そのものよりもそれが置かれる、展示される空間の方が大切なのではないかと考えています。
人によっては、現代アートの役割を作品が与えるファーストインプレッションにのみ重きをおく考え方の人もいます。マンネリし、行き詰まった芸術界に新しい風を吹き込めば役割は終わりだという考えです。
しかし、それに反発する考え方を、何年か前に森ビルでアンディ・ウォーホールの展覧会を観に行った時に感じた図説で見ていたのでは感じなかった印象を抱いた時に持つようになりました。それは写真と実物という物質的な関係性を超えて、衝撃的なものでした。
絵だけでなく、立体物も含め、アートの定義の終わりのない裾野の拡大を感じたんです。
それをのんさんの個展でも感じました。
特に、個々の作品単体よりも空間的な意味を強く感じたのは、抽象的で捉えどころのない立体物の作品を実際にのんさんが身につけ、映像として残すことで、作品の捨象されたものを丁寧に拾い上げ、具現化した映像を見た時です。
会場の一番奥のモニターには、今さっきその目で見てきた作品を実際に身につけているのんさんが映し出せれています。その映像を見てから、作品の実物に戻ると、のんさんが身につけていた時のイメージが隣の作品と重なり、物理的な作品間の空間にも繋がり生まれます。
個々の作品の印象よりも、複数のそれらがある、空間に創作あーちすととしてのんさんの弾けっぷりが伝わって来るんです。
女の子が内包する牙をその可愛さをもって十二分に表現していたのんさん。
その「牙」は何かを意味する記号なのか、それはどこに向いているのか。
個々の作品からの自由奔放さ、そして、それらをくくった空間が持つ衝撃。
とても面白い空間でした。
ではこりゃまた失礼いたしました。