流されない竿を情に刺す
どうもこんにちは。
まだ読み終わってないけど、最近読んでる本の話。
内田樹さんの「知に働けば蔵が建つ」を読みながら、私が常に考えることがいよいよ正しいんじゃないかと思うようになってきた。
今の社会において、個人が思考することがいかに重要かということだ。
特にコンピューターが発達してから人間は「知ってること」より「考えること」の方が重要になってきているのに、そのことに対する認知が低いように思う。
内田さんはこのことについて、序章の「はじめにー知性と時間ー」という教養と雑学の違いを時間を交えて説明している章でわかりやすく話している。
知っていること、つまり雑学の記憶量ではコンピューターの右に出る人間はいない。
しかし、何かを知覚するとき、人間は知覚できている一部のことから全体を把握することができる。その全体の把握には別人の人格を思わせるくらいにいろんなプロセスを介している。
そのように私たちが知覚する以前に、言い換えれば、知覚していることが表層化される前に行われている、まだ知覚されぬ知覚(閾下知覚)を経て知覚が知覚されるのには時間がかかる。
その時間のかかるプロセスを行えるのが人間なのだ。
内田さんの本を読んでると目からウロコなことばっかり。
言ってることがごもっとも過ぎて、現代社会を生きるのが嫌にってくるくらいよ。
あれだけの濃厚な内容を全ては書けないので、一番印象的な章を一つ。
戦後、侵略が進んだ個人主義は、バリバリに働く江角マキコみたいなキャリアウーマンを生み出し、渡鬼の世界の人間のように家族や世間に縛れる私たちを解放してくれた。
さて、その後だ。
私はこうありたい、私はこんなことに縛られたくない、と個人を強く前に押し出した結果どうなっただろうか。
端的に言えば、家族という最小の共同体は解体され、学校での教育や公共的な支援活動は見直しを迫られている。
すなわち、共同体のない無防備な私たちに、無防備であることを自覚させ、その中で生き残るために我々は自分に内包されていると信じてやまない希望を捨てることを迫れているのである。自分は特別だという過大な夢を持つことが邪魔なのである。「オレ様化」した子供は夢が破れた途端に無防備な社会で生きることに嫌気がさしてしまう。
「みなさんがおっしゃったので、『こういうこと』になったわけである。誰を恨んでも始まらない。」と内田さんはいう。
そして、最後に内田さんが出した「将来的に『希望』をつなぐことのできる唯一たしかな道」でこの章の筆を置いている。
考えることは案外面倒なことで、思考したからといって誰に褒められでも、喜ばれるでもない。そもそも誰も求められてすらいないのかもしれない。
それでも、哲学者と呼ばれる人たちは考え、書いて、発表している。
生産性がないと言えば、物理的な生産はほとんどない。
なぜだろうか。
キリストの「人はパンのみにて生くるにあらず」じゃないが、物理的にものを生み出すことが全てではない。
人が考えたものを読む度に自分も何か考えるように迫られる。
それにしても、タイトルの付け方がいつもセンスがないね。
では、こりゃまた失礼いたしました。