八月二十一日、東海道線遅延
どうもこんにちは。
今日は何について書こうかな…
仕事帰りのこと。つまり、夕方に向かって太陽が重い腰を上げた昼下がりの3時過ぎ。
東海道線の乗り合わせた車内で50代に差しかかろうというくらいの男性が三人分の席を使って横になっていた。意識があるかどうかも怪しく、嘔吐の跡がある。
車内に医者や看護師を呼ぶアナウンスが響くと私の乗る三号車に2人の看護師を自称する30代半ばの女性が2人やって来て、強い口調で駅員に指示を出していた。まるで飛行機でCAが「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」ってコントみたいだ。
看護師と駅員で男性を運んでいる一部始終を見ながら、私はとても勝手なことを考えていた。
あの看護師が私が好きになった人じゃなくてよかった
別に今、お付き合いしている人はいないし、過去にお付き合いした人の中にも看護師や医療志望の人がいたわけではない。言ってみれば、私には全く無縁の人たちなのだ。
なのに、どうしてそんなことを考えたのか全くわからない。
気付いたら、頭の中でそんなことを思っていた。
もちろん、看護師の方々がやっていたことはすごく立派なことで、あの行為によって男性は死を免れたかもしれない。
それに、これだけ暑いんだ。私が熱中症やなんかでもってああなっていたかもしれない。
目の前の人に起こることは私に起きても不思議なことではないことなのだから。
そういうことを考えてもやっぱり私が好きになった人には看護師にならないでほしい。
どうしてこうも頑なにこんなわがままを思うのだろうか。
私は死ぬのどうかも分からない男性を前に目を背けることしか出来なかった。
赤の他人だから関係ないなんて非情なことを思ったわけでも、逆に生死を行き来する男性に過剰な同情をしたわけでもない。
ただ、ちょっとした薄気味の悪さというか、背筋がゾッとする感じを覚えた。
私は人の死の予感を前に正常でいられるほど強い人間ではないのだ。
何も人間の強さというものが死を前にした時に試されるものではないのだろうが、それでも、死を目にしたときの精神というのは強さと結びつく気がする。
そして、私の根源の知れぬわがままはこの強さにあるのかも知れない。
すると、私が好きでいる人には弱くあって欲しいのだろうか。
それこそとんだわがままな気もするが、そういうことだと思える。
そんなことを考えてたら、電車は15分ほど遅れて茅ヶ崎駅に着く。
別に帰宅するしか予定がないから、来た電車に乗っただけの私には遅延なんか関係ない。
電車から降りたところで、私のとんだわがままに関する思考も、次いつ再開されるか分からないまま止まる。
あれから一時間が経とうかという一七時過ぎ、遅れていた電車のダイヤは平常通りを取り戻している。
そんなことはすぐにわかるのに、私の目の前で死にそうになっていた男性のその後は分からない。
では、こりゃまた失礼いたしました。