本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

怠惰な休日、「MIU404」と「アンナチュラル」、爆笑問題カーボーイ

 

どうもこんばんは。

今日は一旦、京都の旅行記はお休みします。なんせ、1日のぶらり旅を長々と4回にも分けて書いてるもんで。

 

たまにはなんでもないことをいつも通りだらだら書いてみたいもんだと。

かといって、何か書きたいことがあるだろうか。

 

休みの日に起きて、動こうという気持ちとベッドから離れない体。

あれやって、これやって、ここにも行きたい、あれも読みたい、これも観たい、と思うものが消費できずに積もっていく。

消費しないのに新しい情報は入ってくるのだから、強まるばかりの動こうという気持ち。なんでか動かない体。

時間は過ぎていく。過ぎていくことに嫌気がさして、もういいやと時間を投げやる。投げやらた時間は不貞寝だったり、スーパー銭湯行ったり、と不毛に使う。

夜になって、今日一日何やってんだかなぁ…と目を瞑る。朝が来る。仕事だ。

 

ちょっと前に終わったドラマ「MIU404」

面白かったなんてことは今更私がいうまでもない評判だ。コロナで放送開始が遅れたものの厳しい条件下を一切感じさせない、最後まで面白かった。

このドラマそのものも十分に面白いのだが、脚本が野木亜紀子さんの作品だということを思えば、ことさらに面白い。

特に2018年の「アンナチュラル」の系譜を汲んでいるように見えてくる。

震災の触れ方、見えないものを見つける救い、という2つを二作品に通じるテーマを見た。特に最終回のシンクロ感がすごい。改めて「アンナチュラル」を見返して、共通点から“脚本家 野木亜紀子”について考えたいなと思いながら、「アンナチュラル」を8話まで見る。この後で「MIU 404」も見返そう。

 

爆笑問題の田中さんこと、ウーチャカのコロナ感染で、火曜の深夜は恐ろしいことになった。

1日の放送にアンガールズのお二人、8日の放送に伊集院光さん、15日の放送に劇団ひとりさん。

どの放送も太田さんの楽しそうなことこの上ない。そのテンションの高さに困っちゃうような楽しんでいるような代打の方々。そして、ひと段落すると、みんな口を揃えて「田中さんはすごい」と嘆く。

終始、笑え声が絶えない2時間だった。タイムフリーで何度も聞いた。

 

何を書こうということでもないのだが、いかせん、今雨が降っていて、ちょっと本読むくらいのつもりで入った喫茶店から出られないので、思いついたことを書いてみた。中身のなさはいつにも増して。何書いてんだろうな。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第四部

 

どうもこんばんは。

さて、今回も思いつきの無計画で断行した京都旅の続きです。長々と書き連ねて、もう4回目。何を勝手に連載してるんだ、とも思うが、初回のタイトルに思いっきり「第一部」と書いているところを見ると、どうも確信犯らしいからたちが悪い。

 

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第一部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第二部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅ー京都編ー 第三部 - AM1:00-3:00

続きものになりますので、ぜひ順番にお読みください。読後には、だからなんだという虚しさで満ち溢れることでしょう。

 

さて、朝食も済ました頃にもなると、到着時分にはまだ涼しげだった京都もすっかり夏の装いだ。

神奈川を上回る暑さと湿度。聞きしに勝る京都の夏。

 

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1100円という1日乗りますには破格すぎるレンタル自転車を借りて、いざ旅を始める。

ちなみに、京都の観光地を回るバスと地下鉄の一日乗車券が900円。自転車はいくらか高いが、公共の交通機関だとダイヤの中で動かなければならないので、時間軸を外部に委譲せねばならない不自由が気にかかり、自転車での行動にすることに。

 

まずは、鴨川沿いに出て、清水寺を目指すことに。

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水面に写る空が夏の暑さを和らげる…ように写真では見えるが、現実は異なり。

いくら自転車を走らせても、いくら風を切っても、不快の中を突き進むだけ。不快の先はまた不快。なんせ暑いのだ。どこまで行っても気温と日差しが離してくれない。

 

ついで、五条大橋で鴨川を渡って五条通へ。

京都と言ったらやっぱり古の都のイメージがあるもんだが、五条通に出るとその車の多さに驚く。三車線を絶え間なく走り抜けていく車たち。なんだか、情緒ある旅を、なんて思っていたのに浸透し切った文明の色濃さに拍子抜けした。

しかし、考えてみると勝手なもんだと思う。

京都には京都の人の生活が当然あって、それは茅ヶ崎にある私の生活と変わらない訳だ。私は自分の生活にある程度の便利や快適さを求めている。ならば、京都の生活だってそれが求められているに違いない、という簡単なことを見失ってしまう愚かしい想像力の欠如。なぜ、京都の人間は観光客のために生活までかけなければならないのか、ちょっと考えればわかりそうなものである。

 

そんなことを考えながら、自転車は清水寺の手前、六波羅蜜寺へ。

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ここも好きなお寺の一つ。お寺の建物や境内にはそんな思いれはないのだが、まず立地がいい。狭い住宅街の路地をうねらせながら進むと、住宅地の風景の一部に現れるのがこのお寺。生活と密着したようなこんなところに国宝があるなんざ、お釈迦さまでも気がつくまい。まあ、実際はお釈迦さまがそこにいるんだけど。

 

ここで一番見たいのはやっぱり重要文化財の「空也上人像」

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浄土宗を身分に関係なく、庶民にも広めた功績が現代でも結構有名。彼が「南無阿弥陀仏」と唱えると、その声の一文字一文字が小さな御仏になったという伝説を彼の口先が表現したもの。

ちなみに初めてこれを見た私は、おそらく小学生の社会の教科書でだったと思うが、スポ根野球まんがを思い出した。

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そう、この一番左のやつ。そもそもこの漫画は全世代じゃないので、なんせこの漫画は1972年から81年連載だもの、一回も読んだことはないのだが、それでも絵面は知っていたのだろう、これを連想した。世代じゃない私だって連想するんだから、ドンピシャ世代はどうなのだろう。

あとは四天王像なども実に素晴らしい。四天王像はいろんなところにあるが、場所によって体つき、表情、さらには踏み付けている邪鬼の表情なんかまで全然違うので、見比べたりなんかするのも面白い。

 

で、また暑い住宅街を走らすことに。と思ったがどうにも暑くて仕方ないので、近くでコーヒーでも飲めないかしらとキョロキョロしてみる。

店先に瀬戸物を並べた古民家を発見。六波羅蜜寺からすぐのカフェ「sagan」

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一息ついて、アイスコーヒーで喉を潤し、抹茶のマフィンを食べながら、お供の「明け方の若者たち」を紐解く。

中盤に差し掛かっている。主人公とその思い出の人との隠されていた秘密に急に胸が苦しくなる。衝撃的な思いを揺さぶられて、ページをめくる指に鈍痛が走るような気がする。一旦、本を置いて、窓の外、陽光に眩しい京都の住宅街に目をやるが、このページを読む前の景色には見えないかもしない。同じ景色は見れない気がした。アイスコーヒーの味も違わないか?これ以上主人公に感情を添わせると、思い出さなくていい私の記憶に繋がってしまいそうで、必死に彼を突き放す。

 

気持ちを楽しい一人旅に連れ帰る。

ちょっとのつもりの寄り道がかなりの濃い時間になってしまった。

私たちは、と勝手に読者も巻き込んでしまっているが、そろそろ清水寺に行きたい。が、しかし、今日のところはお時間がいっぱい。

 

さて、次回は本当に清水寺に着きます。あわよくば、お昼を食べています。

本当かよ?という声が聞こえなくもないですね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

弾丸0泊深夜バス旅ー京都編ー 第三部

 

どうもこんばんは。

丁度一週間前、思いつきの深夜バスで行った京都旅の続きです。

3回目だというのに、やっとバスから降りたところです。なかなか進まない旅だこと。

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第一部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第二部 - AM1:00-3:00

よければ、こちらの過去の記事からどうぞ。

 

26日6時半。薄暗いバスの中で調べた京都駅近くのサウナ、サウナベルデクラブへ。

サウナ・仮眠施設・公衆浴場が京都駅からなんと徒歩1分

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調べていたサイトの明るさとは打って変わって、恐ろしく古いビルの中にあった。とにかく古い。

エレベーターに乗り込む。ジーっというモーター音がイヤホンのサカナクション越しに聞こえてくる。明け方のサカナクションとモーター音がうねらす不協和音。これが京都なのか、という不安がどことなく漂う。フロントの眠たげなおじさんにお金を払って、ロッカールームへ。

エレベーターのモーター音に続いて、ロッカールームに響き渡る流水音。音の多い建物だこと。天井の壁が剥がされて、剥き出しになった排水管。その排水管から漏れる水がロッカーの上のバケツに注がれる。いや、漏れるとか滴るとかいうレベルではない。もう注がれている音量だ。バケツの容量はあれで大丈夫だろうか?

まるで歌舞伎町の雑貨ビルの一角。抗争に敗れた任侠の事務所。いや、歌舞伎町に対する大きな偏見で、行ったこともないんだが。まさに想像するあれだった。

 

全裸になって階段を上がって浴場へ。

大きなお風呂と小さいお風呂、それに水風呂というシンプルな作り。シャワーのヘッドがなかったり、鏡にヒビが入っていたりとエレベーターからの期待を裏切らないオンボロな洗い場が並んでいる。どの洗い場にも必ず欠陥があるのではないかと思われる。ちなみに私が使ったのは、シャワーからお湯を出しているのに蛇口からも1/3くらいのお湯が流れているという種類の欠陥だった。シャワーの水圧2/3という強さは6時間深夜バスに揺られた私にはちょど良かった。

体も洗ったところで、まずは肩までお湯に浸かりたいと、大きなお風呂へ右足を入れた瞬間、その熱さは脳まで届かず、脊髄で反射した。そのお湯が熱いのなんの。ちょっと熱いなんてもんじゃない。どんなに頑張っても、我慢しても入れる温度じゃない。あれが京都のはんなり温度なのかい?とんでもない洗礼を受けた気がした。

恐る恐る小さいお風呂に足を入れてみる。こちらも熱いが、先程の大きい熱さに比べれば、頑張れば入れる温度だ。腰まで浸かってみる。肩までもうちょい、頑張れ、と気持ちを震わせてみるが、いや、お風呂って頑張るもんじゃねぇな、と気づいてしまいすぐ上がる。温度を確認しようにも、どこにもお湯の温度を知らせる温度計がない。

 

お風呂に入ることは諦めて、本題のサウナへ。

気持ちを切り替える。サウナに入りにきたんですからね、肝心なのはサウナですよ、エレベーターやロッカールーム、お風呂なんざどうでも良いんですよ、と落語「うなぎの幇間」の鰻屋で騙される太鼓持ちの心持ちだ。

肝心のサウナは温度と湿度が丁度良かった。これだこれだ、と気持ちを落ちつける。分厚いガラスの向こうのテレビでは朝のワイドショーが便利家電の特集をしている。好みのゆで卵がスイッチ一つでできてしまう家電に、アナウンサーはじめ、出演者が驚いている。卵なんかタンパク質の凝固温度60から65℃の温度で加減すれば、いくらでもできるだろ、なんて悪態をついていると、体から汗が滲んでくる。サウナというところは時間の軸が歪むようで、12分で1時間が巡る。なぜだか必ず12分計がどこにでもある。それがいくら探してみてもここにはない。12分計のないサウナは初めてだった。仕方がないのでさっき悪態をついた家電特集の左上を目安に時間を測ることに。

およそ12分経ったところで、水風呂へ。この水風呂が良かった。最高に良かった。

ここまでいかにここが古いかということにかなりの比重を置いて、目につく短所ばかりを書いてきたが、ここにきてその負債を返しても十分にお釣りが来るくらい素晴らしい水風呂だった。何が素晴らしいってその深さだ。立った時に水かさがへそ下5センチくらいの深さまである。こんなに深い水風呂は初めてだった。千鳥の大悟さんは「ブリは薄けりゃ薄いほど美味い」という名言を残したが、それに倣った「水風呂は深けりゃ深いほど整う」というものがある。本当にあるのか知らんが、少なくてもこの水風呂に入った時に私が作った。

 

サウナと最高の水風呂を繰り返すこと3往復。気持ちよく整う。正確にはこれが整おうというのなら、整ったという感じだ。

さっぱりしたまま休憩室へ。ここもまた、ホコリくさく、蛍光灯のいくつかが切れて点滅し、無造作に並べられた随分昔の漫画。この感じが、なぜだか落ちつく。ガタガタ揺れるソファで朝食が食べれる喫茶店を探す。8時半に受付で下駄箱の鍵を受け取り、モーター音が轟くエレベーターでビルを下る。

 

8時半ごろ。すっかり気温は夏の様をしている。

サウナベルデクラブから歩いて、10分くらいのところに見つけた喫茶店「MIWAKU」へ。

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昔ながらの雑多な喫茶店という店構えから好印象。気ままな一人旅のまったりした朝にはこれだよ、これこれと、一人旅の勝手な設定に浸りながら、お店へ。

案内された窓側の席へ。ブレンドコーヒーとホットドッグのセットを注文。

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サンダルをつっかけて新聞を片手に店員さんと世間話をしている常連のおじさん。真新しそうなスーツを着て、手帳に何やら書き込んでいる男性。地元に愛されてる感じが伝わってくる。

カップに半分残ったコーヒーをすすりながら、お供の本を開く。カツセマサヒコさんの「明け方の若者たち (幻冬舎単行本)」だ。主人公とその思い出の人との眩しい時間にジンとする。

さて、区切りのいいところで本にしおりをは挟んで、先ほど立てた予定を軽く確認する。京都駅付近でレンタル自転車があるらしいのでそれを借りることに決めて、貸し出し場所に向かって会計をする。

 

と、その前にこの日は給料日の翌日。

家賃やら生命保険やらの引き落としがあるので、引き落とし用の口座への入金を済ませなければならない。こんな日でも二つの銀行を行き来せねばならないのだ。茅ヶ崎ならば行き慣れた二銀行間も初めての地では右往左往。イレギュラーな1日に水を差すかのように日常が差し込まれる。

そんな雑務をすまして、自転車を借りたところでやっと弾丸京都観光が始まる。

 

10時を回った頃には太陽がギンギンに照らす。

これからさらに暑くなるという京都の街に自転車を走らす。

 

やっと京都旅らしい話になるのだが、随分と長く書いたので今日のところはここまで。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第二部

 

どうもこんばんは。

今回も前回の続きの弾丸京都旅の旅行記です。

前回の読み返して驚いた。何がって、あれだけ書いてまだ深夜バスが出発したばかりだ。今日は京都には着くでしょう。お昼ご飯は…食べれたら食べたいね。

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第一部 - AM1:00-3:00

まだお読みで無い方は、こちらからどうぞ。

 

さて、深夜バスは出発した。

真っ暗な車内で、私の耳に流れるアルピーの会話。ウトウトし始める。

気がつくと、バスは海老名のSAにて小休憩。夜の空気を大きく吸うと、身体中に溜まった車内の空気が入れ替わって気持ちがいい。体が少し軽くなる。少しムッとする暑さと湿度が全身にまとわりつく。新しい土地に降り立ち、新しい空気を吸い込んで、新鮮な私を見つける。

ちょっと情緒的に書いてみたが、まだ新横浜から海老名までしか来ていない。先を急ごう。

 

再度バスが走り出す。火曜の深夜といえば、「爆笑問題カーボーイ」だ。今回は田中さんが、奥さんで、新型コロナに感染した山口もえさんの濃厚接触者として自粛中のため、太田さんとウエストランドの3人で始まる。いや、ウエストランドって誰だよって方が多いでしょう。その辺のイレギュラーな感じも日常からイレギュラーを求めた旅には持ってこいだ。

それでも、考えてみれば、この日は朝から働いているのだ。睡魔には勝てない。アイマスクの中でしっかり目を閉じて、意識はうつらうつらとしてくる。

 

次に意識が戻ったのは、ちょうどカーボーイのエンディングの時だった。海老名から2時間ほど走ったバスは森町のSAにて小休憩。

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財布とお供の本、カツセマサヒコ氏の「明け方の若者たち (幻冬舎単行本)」を持って外に出る。バスから一歩外へ出ると深まった夜の空気が肌をかすめる。海老名よりも密度が小さく軽い空気が、海老名よりも冷めていて、気持ちいい。

なんの意味があるのか、画面に映し出された自販機の抽出中のコーヒー中継を眺めながら、コーヒーが入るのを待つ。あの画面の動画は本当に毎回違うものなのだろうか。

入ったコーヒーをすでに店仕舞いを済ませたイートインのベンチに腰掛け、コーヒーを飲みながら、読書の続きを紐解く。今時の本は紐に結わわれていないだろう。

社会人となった主人公の仕事に対する希望が薄れてくる描写に共感する。その落胆こそが今、私をここに連れてきたのではないか。落胆したからこそ、私はここにきてしまったのだ。出発時間間際にバスに乗り込み、冷めかけたコーヒーを一気に飲み干す。コーヒーの刺激はアイマスクの下では意味もなく、すぐ眠りにつく。

 

次に目が覚めた時には、外がうっすらと白んでいた。バスは土山のSAに停車していた。

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特に疲れているでも、買い物があるわけでもないのだが、一応バスから降りておく。外のベンチで本の続きを読む。主人公とその彼女、それから友人が高円寺の明け方の空の下を歩いている場面。彼らと同じ空気を吸っているような気がしてくる。仕事に不満がありながら、それを共有して、笑い飛ばして、飲み明かす彼女と仲間がいる。きっと数年後に振り返れば、彼らにとって、とんでもなく眩しい時間じゃなかろうかと、少し羨ましく思いながら、ページをめくる。

 

もうバスが走り出しても、眠気は襲ってこない。だからといって、明かりをつけて本を読むわけにはいかない。周りは就寝中だ。

ラジコを起動して、TBSラジオを聴こうと思うも、再生しない。そうか、ここは関西。東京のラジオはエリア外なのだ。月額払っているので、エリアフリーで東京のラジオも聞けるには聞けるが、せっかくだからと適当な京都のご当地番組を聞いてみる。思ったよりも関西の言葉でないことにがっかりし、聞き流す。

 

京都駅に着いたらどうしよう。そういえば、今の今までこの後の予定を考えていなかった。予定を立ててみよう。

まずはお風呂だ、サウナだ。京都駅近くのサウナを検索する。それから、喫茶店をいくらか検索する。朝ご飯を決めて、巡る寺を決めよう。行きたい寺をピックアップする。

醍醐寺。一本木造りの十一面観音立像が見事で、私の大好きな仏像の一つだ。どうせなら、これは見たい。ただ、これは京都駅から少し遠い。今回は断念しよう。

浄瑠璃寺。これは九体の大日如来が鎮座している面白い寺院。なんで九体なのかってところが実に面白いのだが、ここでは割愛しよう。ここは京都駅から2時間近くかかる。これも今回は無理だなぁ…。

一旦、寺探しをやめて、ジャズ喫茶を調べてみる。さすがは京都だ。昔ながらの街並みに、モダンなジャズ文化がうまい具合浸透しているようで、私も聞いたことあるような老舗がいくつかある。

営業時間の都合の良いお店をピックアップし、その周りで寺院を調べてみる。そんなんで大体の移動経路の検討をつけておく。まぁ、こんなもの脱線すればするほど、後から振り返る充足感は大きかったりする。

 

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26日の6時過ぎ。バスはいよいよ今日の駅八条口に到着。

バスから降りるなり蒸し暑さに包まれる。太陽はすっかり1日を始め、京都の暑さを親切にも予告してくれる。バスの下から大型のキャリーを受け取ろうと列をなす人々。みんなこれから数泊して、京都を満喫するのだろう。13時間後にはとんぼ返りする私には関係ない大きさの荷物を求める人を尻目に、私はまっすぐ調べたサウナに向かう。ようやく京都に着いて旅の本題が始まる。

 

まだまだこの旅は続いていくのだが、一旦今日はこの辺で。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第一部

 

どうもこんばんは。

8月26日に弾丸0泊京都旅に行ってきました。それをちょっとまとめようかと。

 

25日。いつものようにお昼のピークは暑さと忙しにやり込められて、息をつく間もない。時計を見ると、もう14時を回っている。最後に水分補給したのが2時間以上前だったことになる。

お昼の忙しさをさばきながら、明日の休みについて考える。入っていた予定はキャンセル、丸一日空いた。いつものようにカフェやら本屋やらで過ごすのも悪くはないが、何かいつもと違うことがしたいな、なんて想いに駆られる。

ふと、出かけようという気になる。

ちょっと前のお出かけは下北沢でぶらぶらして、復活して間もない老舗のジャズ喫茶でコーヒーを飲み、ヴィレヴァンで人生初の漫画の大人買いをし、本多劇場で芝居を観てきた。次、出かけるとしたら、どこかしら。

 

脳内に「My Favorite Things」がかかる。ーそうだ、京都に行こう。

 

休憩時間に横浜ー京都を繋ぐ深夜バスを探す。新横浜を24時発の京都行きを見つけ、即決。この時点でバス出発まで、8時間と数十分。京都旅を思い立ってから、30分経っていない。我ながら、仕事が早い。

 

最後のお客さんを見送ってから、急いで閉店作業を進める。手を動かしながら出発までの段取りを組む。余裕を持って23時30分に新横浜に着くとしよう。茅ヶ崎を22分33分の電車に乗る必要がある。現在、20時10分。このペースなら、25分にはお店を出れる。急いで134号線を江ノ島から茅ヶ崎へ。21時には帰宅しているだろう。帰ったら、まず洗濯機を回す。イヤホン、タブレット、モバイルバッテリーを充電器に。その間にシャワーを浴びる。ちょっとばかし軽食を食べて、旅支度。脱水の終わった洗濯物を干して、22時15分にはうちを出よう。

仕事をしながらにしては、我ながらいい段取り。出発前の軽食には予備に買ってあったちょっといいカップラーメンがあったはずだ。シャワーを浴びる前にティファールを沸かそう。

首尾よく、お店に鍵をかけたのは20時半前。いつもより自転車のギアを一つばかし軽くして、真っ暗な134号線を駆け抜けた。

 

うちについてからの段取りは、帰宅中の爆速自転車でシミュレーション済みだ。

家の鍵を開けるなり、頭の中で繰り返した手順をなぞるように一つ一つこなしていく。洗濯機が回り出して、ティファールが湯沸かしを始める。リビングでは電気を蓄えるイヤホンたち。疲れているからベッドに横になりたい気もするが、倒れては最後、この旅がオジャンになってしまう。急いでお風呂へ。シャワーから出ると、当たり前の顔をして、私の入れた水道水をお湯に早変わりさせたティファール。その恩恵をカップ麺に湯を注ぎ、蓋をし、洗濯機を覗く。濯ぎをしているところだ。いいペース。なぜだか、一時間ほど前の仕事よりも動きに無駄がなく、手際がいい。

カップ麺が出来るのを待ちながら、旅支度を始める。いつものトートバックからあれやこれやを取り出して、代わりにクローゼットから持ってきたコカコーラの真っ赤なリュックに移していく。お供の本は何にしよう。エコバックはいるかしら。いろんな取捨選択をして、なるべく身軽にしよう。

4冊の中から一冊絞るのに時間を要した。おそらく、5分以上経ってしまった。ラーメンが伸びる。どんなにいいラーメンも伸びては終わりだ。急いですする。熱い。ティファールの完璧な仕事は、ときに私の予定を狂わせる。舌の火傷をコーラで冷やしながら、時計を見ると21時45分。あと30分だ。洗濯物に取り掛かる。

なんとか予定の時刻にうちを出る。茅ヶ崎駅にもなんのトラブルなく到着。時間ぴったりだ。

 

定刻の東海道線で横浜へ。その間に仕事関連の連絡を全部回しておく。旅先でまでシフトの相談などされたら堪らない。横浜駅東海道線から横浜線に乗り換える。23時を回った横浜駅のホーム。八王子行きの電車を待つ人たちは皆、仕事に疲れたサラリーマン。ホームの自販機で買ったレッドブルーを飲んでいる。帰りの電車に乗る体力もおぼろげなのだろうか。明日もきっと今日をなぞるように仕事に向かうのだろう、と嘆かわしく同情すればするほど、これから始まる私の旅への期待は膨張する。耳からは先日神田伯山氏がゲスト出演した土曜の昼のTBSラジオ。手にはラーメンを伸ばすほどの熟考の末に選ばれた旅のお供、カツセマサヒコさんの「明け方の若者たち (幻冬舎単行本)」だった。最初の飲み会のシーン、2人の出会い方からグッと引き込まれる。良旅に良書は付き物だ。

ところで、良旅とはなんて読むのか教えて欲しい。

 

新横浜に着くと、目当ての改札よりも先に新幹線専用の改札が見える。もちろん、この時間に走る車両などなく、改札は真っ暗だ。この非文化的時間に旅が始まっていることも余計にワクワクさせる。

 

新横浜のバスターミナルにはすでに、キャリーバックを持ったカップルやスーツ姿のサラリーマンが並んでいた。

茅ヶ崎で浮かないビーサンジーンズ、コーラのリュックという出立は、すでに同じ県内の横浜にて、かかとくらいは浮いている。京都に着くころには、バスの天井に頭をぶつけるくらいに浮いているかもしれない。

 

すでにバスタ新宿にて、人を乗せてきている夜行バスにはそこそこの人が乗っている。乗車前に銃口を突きつけられるように検温され、アルコール除菌を求められる。いつも思うが、アルコールで消毒してください、の次には、塩を塗り込んでください、クリームを塗ってください、アクセサリーを取って下さい、と次々に多い注文が続き、高慢ちきな狩人の二の舞にならないか、ヒヤッとする。蛇足でいえば、この心配が奏する功はまだない。

 

バスの出発と同時にイヤホンをタイムフリーからリアルタイムに切り替える。アルコ&ピースのラジオを聴き始める。

思ったよりも揺れるバス。薄暗い車内。持ってきていたアイマスクをつけて、2人の会話に集中する。

良旅には良談笑も不可欠だ。だから、良旅ってどう読むんだよ。

 

こうして、忙しい仕事中に思いついてから、数時間で私の弾丸0泊京都旅は始まった。

 

続きはまた後日。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

渋谷のクラスターフェスから派生して

 

どうもこんばんは。

 

朝起きて、コーヒーを淹れながら、今日は何をしようか予定を組む。もちろん、週の5日は仕事なので、仕事帰りに習作を書くか、勉強するか、何かインプットするか、どれもこれもやりたいのは山々だが、全部ができるわけではないので、どれかに絞る。それを手帳のウィークリーページに書いて、簡易的なto doリストにしておく。洗濯とか掃除機がけとか、そんな些細な家事まで書き込んでおく。

 

普段、やりたいことがto doリストに加えられない抑圧から、休みにはあれもこれもと書き出してしまう。

この暑さ。日の出ている時間に動けるわけがない。夕涼みがてら、海まで散歩して、帰って、コーヒー飲んで、その後からでどれだけの時間が残っているだろうか。リストに上げてもチェックの付かない空欄が多いと、なんだか1日を無駄にしたようで、嫌になってしまう。

そんな気持ちで布団に入り、目を開けば、また仕事の日々が始まる。なんと鬱蒼たる日々だろうか。

 

ちょっと前のこと。渋谷でコロナ対策に対抗する騒動が持ち上がったのは、皆さんご存知でしょう。

https://matome.naver.jp/odai/2159694517633412101

 

これに対して、方々にいろんな意見が発せられました。

大半が抗議の意を示すものでしたが、中には賛同するものもありました。ただ、私は抗議をする声の中に、少し過激ではないかというものを見つけました。

概要は、こんな人に迷惑しかかけない馬鹿はどうにか排除してしまおう、というものでした。また、このコロナは普段は現れないそういった馬鹿をふるいにかけるのに丁度いい、という旨のことを言うのです。

確かに、マスクもせず、蜜になって集まられては困るし、手っ取り早いのはそういった足並みを揃えられない人たちを収監して、社会から排除してしまうことです。

ただ、これが根本の問題解決になっているのか、甚だ疑問ですし、この考えは危うささえ感じてしまいます。

 

私が感じる危うさの原因は二つあります。

一つには、この考えは身体的な障がいを抱えている方や高齢者や幼児など、にも適用されかねないと言うことです。

思慮が足りずに他人に迷惑をかけてしまうことと、身体的に不自由が生じているが故に周りに迷惑をかけてしまうことに大差はありません。我々は福祉という観点から、不自由な人や高齢者を手助けすることを「迷惑とかけられている」と考えず、それが当たり前の社会を築こうとしているわけです。
思慮が足りない人間の排除は、このことを根本から否定していることになりかねません。

 

もう一つには、自分が排除される側に回る日が来るという前提が省略されているということです。

仮に、社会に対して迷惑をかける人間を排除したとしましょう。それで、社会は収まりがつくのでしょうか?迷惑をかける人間はいなくなりましたが、次に社会に利益を還元できない人間が排除の対象になりかねないと思うのです。となると、次はその還元利益の低い人間、とこの排除の連鎖は終わりません。その連鎖の中に必ず私がいます。遅かれ早かれ全員が排除されることになるのです。

 

まあ、私がこんなことを考えたからといって、何がどうなることもないのですがね。

こんなことを考えながら、社会が生産性だけを求めていくと、それに見合わない対象は排除されることになるのは当然だな、と悲しくなります。じゃあ、生産性なんか求めなければいい。これが私の行き着いた結論です。

私には自分を満足させること以上のことが過分に求められすぎている世の中の気がしてなりません。自分を満足させること蔑ろにして、社会に生産性を献上しなければならない社会に見えてならないのです。

 

自分を満足させることが第一義になる社会。どうやって作ったらいいでしょうか。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

だから、考えることが面白い〜経済学必要不要合戦〜

 

どうもこんばんは。

 

今日は長くなりそうなので、本題から。

とにかく、私はやっぱり馬鹿なりにも、無駄であっても、ものを考えながら生きていきたい、と思った話です。

 

さかのぼれば、約一年前。

職場に新しい経済学部の学生が入って来た。休憩が被った私はほぼ初対面の彼にとんでもない質問を吹っかけた。

経済学部って何を勉強してるの?私さ、経済学って一番無意味な学問だと思ってるんだよね

というものだった。

不躾にも程がある。ほとんど会話もしたことない学生にこんなことを言ったのだ。

 

続けて、私は彼に経済学が不必要だと思う理由を述べた。

一つには、人間が日夜構築し過ぎて、複雑なシステムとなった経済。この複雑なシステムを解明しようとすることには意味がないだろう。なんせ人間が構築したシステムなのだ。それを他でもない構築した人間が解明するのだとしたら、意味がないじゃないか、というもの。

もう一つ。今でさえ、我々のような素人ではとてもじゃないが手に負えなくなってしまった、専門家の独占領域になってしまった経済システムをさらに構築していく学問なのだとしたら、それはそれで不要ではないか、と思うのだ。貧富の均衡を均すためのシステムが知識の有無で格差を拡大していくのでは、元も子もないではないか、と私は考えていたのだ。

 

いきなり、初めて喋る人間にこんなことを言われて、普通は引くだろうが、彼は何かを言おうといろんなを試論を繰り出した。もちろん、彼のいうことは試「論」と言えるほど立派なものではなかったが、それでも何かを言おうと思索しているその情熱は立派に試論と言ってよかった。結局、その日は回答が出ないままになった。

 

これをきっかけに私と彼は時々ご飯に行き、くだらないことに互いの脳味噌を稼働させて、思索を深め合った。意見の一致が見られる時も不一致の時も、互いの反駁を解決しようと、語らった。

 

今日も私と彼はだからなんだってことを語らっていた。片瀬江ノ島から鵠沼海岸までの一駅。海岸沿いから住宅街に一本入った道を歩きながら、喋った。夜道の街灯と潮風特有のベタつきが夏の夜を気持ちよく演出する。彼の車好きについて、その好きのあり方や起源について掘り下げたりしていた。

私も最近読み始めた筑摩の「世界哲学」シリーズについて、話したりしていた。

 

どんな流れだったか、重商主義からアダムスミスによるその批判、その結果として、アダムスミスが「経済学の父」と呼ばれている今までの史実に関して、疑問視する説があるという話の流れから、科学と経済学の共通点に話が及んだ。

科学の発展は、生活の中で「現象」が先立ち、それを対象として、「研究」がなされる。経済学も社会「科学」と言われるだけあって、同じ流れだということを感じているのだという。貧富のバランスを取るために、日々、試行錯誤されていく経済システム。いろいろ試す中で、ある時、なんとなくうまくいっている気がするというものを見つける。これが科学でいうところの「現象」である。ただ、それがなぜうまくいっているのかわからない。そもそも本当にうまくいっているのか。刹那的なものなのか、長期的なものなのか。社会のあり方が変われば、またうまいこと機能しなくなるのではないか。

たまたま見つけただけのシステムなのだから、それは未知のもので、浮かぶ「?」は山積みである。

その「?」を研究していくのが経済学の仕事なのだ。経済学も現象が先立ち、それに研究の必要性が伴っているのだ。

経済学は未知のものへの挑戦の学問だったのだ。


これは私が一年前に彼にした質問への見事な回答だった。

私は人間が意図して、経済システムの複雑化を続けて来たと思っていたのだが、どうやら、その前提が私の不勉強だったようである。今ある経済システムの複雑さは、偶然の賜物の塊だったのだ。その偶然を必然にするべく、経済学は日夜、果敢に挑んでいたのだ。

 

気持ちよかった。この話を聞きながら、ホウ!ホウ!ホウ!とワクワクが止まらなかった。脳味噌の全体が揺すぶられて、刺激が走る。これが気持ちいい。

彼は、1年間、ふとすると私の質問について考えていたそうだ。

一つの問題について、1年間飽きることなく、思索を続けた彼の見事な答えだった。その答えはもちろん、その姿勢にすら、惚れ惚れする。強い憧れを抱いてしまった。

 

鵠沼海岸から藤沢に向かう車中、頭の中で彼の発言をリフレインし、手帳に書き留める。ため息のように深い息を吐く。

 

物事を考えるって面白いことだ。その過程も、結果もワクワクさせてくれる。

彼の華麗な答えに敬意を込めて、改めて、私は馬鹿なりにも、無駄であっても、物事を考えていきたい、と思った。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。