本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

「面倒くさい」からしか始まらない

 

どうもこんばんは。

 

今期のドラマは好きな脚本家の書き下ろし、シリーズ物と面白そうなラインナップだったにも関わらず、今なお世界を翻弄をし続ける目に見えない弊害に阻まれて、撮影や放送が遅れてしまったために、8月の今頃になって、ようやくドラマが全体の中盤の佳境に差し掛かってきた。それを見るのはもちろんの楽しみからでもあるのだが、いつかドラマを映画や演劇のようにしっかりと一つの批評の対象として、論じてみたいなどと南町奉行大岡越前もお恐れながらなことを考えている私にとっては、台詞、アングル、表情、セット、衣装も気にかかる。

 

そんなところに注目をしていて、面白い経験をした。

火曜日に TBSで放送している「私の家政婦ナギサさん」の中でワンカット。

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これは主人公の多部未華子さんが家族との食事のシーンで着ていたシャツのデザイン。

なんだか、見覚えのある字体だな、と記憶を遡らせてみる。その時、見つけたのが友人の「かもめだ」というSNSの書き込み。私は、そうかチェーホフだ、ロシア語だったか、と合点して、なんでカモメなんだろうな、別にニーナを思わせるようなシーンでも無いしな、と関係ないことに考えを伸ばしていた。

普段なら面倒くさくてそんなことしないのだが、「チェーホフだね」とSNS上で返すと、友人からは「テレシコワさんの発言だ」という返事をもらった。

誰だ、それは?チェーホフの「かもめ」にそんな人出てこないよな、と本棚から日本語訳を引っ張り出してきて確認しても、やっぱりいない。検索をかけてみると、ソ連時代の女性初の宇宙飛行士の方の発言だったらしい。知らなかった。

かもめ号に乗船したテレシコワさんは、業務連絡で地球に送った「こちらかもめ」と名乗る声が地上に届いた第一声となったので、そのまま名言として残されたらしい。なにも「かもめのように空飛んでいるわ」的なロマンチックな比喩発言ではない。よりに寄って業務連絡がそっくりそのまま残るなんて。

 

どうでもいいっちゃどうでもいいが、これでまた一つ面白いことを知った。そして、それがいつ来るとも知れないが、何かを考えるときの足がかりになる。

 

そして、何よりもこのことで私が思い出したのは、やっぱり面白いことは「面倒くさい」の先にあるということだ。

自分で勝手にチェーホフに落ち着いて、チェーホフを知っていた自分の博識で悦に入っていれば、その先のテレシコワさんを調べて、出会うことはなかったのだ。自宅のチェーホフの作品集に手をかけることも、上演が中止になったケラリーノサンドロヴィッチ版「桜の園」に向けて、読み返していた戯曲が途中だったことも思い出さなかっただろう。

それをちょっとした面倒くさいを乗り越えて、友人に返事を送ったことから、いろんなことが芋づる式につながった。やはり、毎日をただ浪費せずに、ちょっとの「面倒くさい」を乗り換えて、面白いことに接していたいなと、思う。

 

さて、足元にはまだ見ないフリした「面倒くさい」が転がっている。

それを拾えば、何になるか分からない「面白い」ものが待っているだろうね。

と、面倒くさいを乗り越えて、文章にしてみました。さて、これを書いた先に待ってる「面白い」はなんでしょう。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

創作後記「登れども」

 

どうもこんにちは。

 

前回、前々回と2回に分けた習作をお読みいただきまして、ありがとうございました。

いつも丁寧に作品を読んで鋭いコメントをくださっていた方が突然ブログを閉鎖されており、落胆やら驚くやらだったのですが、新しい読者の方にこれまた熱心に読んでいただき、ありがたい感想までいただいております。

みなさん、こんな駄文にお時間を割いていただき、本当にありがとうございます。ありがたい限りです。


本作は「雪」をテーマにした公募に向けた書いたものでした。

何か起承転結を持たせたストーリー仕立ての作品ではなく、頭の中の取り止めのない、断片的に回顧されるものを、作中のような散歩している時に脳内をめぐる思考のように羅列させていきたい、というのが最初の出発点でした。

公募の字数があったので、エピソードはバイト前の早朝の雪景色とスキー旅行を契機に別れた昔の交際相手のことだけにとどめましたが、本当はもっと関係のない些末な回顧や思索を順不同に並べるつもりでした。

 

また、雪の描写も自分の中で今作の課題の一つでした。「白」や「冷たい」と言った雪のイメージを払拭して、「無」で「淡白」な雪景色の中に放り出せれている異界感を書き出したかったのですが、読み返してみると、なんとも言えないような感じがしています。

「対象を語らずに対象を感じさせろ」という助言を、前回いただいたのですが、どうにも今回も口数が多すぎたような気がしてなりません。

 

今もまた、少し長めの習作をちょっとづつ書きつつ、ちょっと憧れていたテーマに挑戦しようとプロットを組んでいるところです。

また、当分はいつもの駄文になるでしょうが、みなさんのお目にかかれますように勉強させていただきます。

今後ともお付き合いください。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

習作「登れども」後編

 

どうもこんばんは。

前回の習作「登れども」の後半です。

習作「登れども」前編 - AM1:00-3:00

よろしくどうぞ。

 

私は雪に痛く刺さり来るようなイメージを持っている。感情のない雪が冷酷に、淡い私に襲い来る。為すすべのない私は、体の重みを感じなくなるくらいの喪失感と冷たさを正面から受け止めるしかない。空っぽになった体のうちから、なんとか残った最後の悲しみがわずかに滴る。そして、その悲しみと一緒に一人の女性を思い出す。
 
二十歳の頃に私が交際していたその女性は、明るく、よく話す人だった。彼女といる時の私は、地に足がついて充足感で重たく、何かに不安になることはなかった。たわいもないことで声をあげて笑い、明日になっても明後日になっても、当たり前のようにこの時間を共に出来ると思うと、そのことがどれだけ私を前進させたかしれない。
そんな彼女が高校の同級生数名とスノボーに行った数日後、私たちはいつものように行きつけの居酒屋にご飯を食べに出かけた。
顔なじみの大将にいつものカウンターに案内され席に着くと、何も言わずにいつもの柚子酒のソーダ割りとレモンサワーが出てきた。ドリンクを運んできたアルバイトにメニューも見ずに、刺身の盛り合わせと唐揚げとシーザーサラダを頼んだ。店内はいつものようにピアノトリオが奏でるアップテンポのジャズが流れていた。店の雰囲気と全くそぐわないBGMが私は好きだった。ジャズ自体はここでしか聞かないが、この店で聞きすぎたせいで街を歩いていると、耳にジャズが入って来ることに気付くほど敏感になっていた。なんとなくメニューに目を通して見るが、なにも追加はせずに静かに乾杯した。
サラダが運ばれ、ついで唐揚げが届く。サラダを銘々の皿に取り分けたところで、目の前の大将から刺し盛りを手渡された。
なんとなくいつもよりも互いの言葉が足りないのが気にかかったが、刺し盛りの盛大さに二人は笑顔になった。
「初めてのスキーどうだった?」ヒラメの昆布締めに箸をのばしながら、なんとなく聞いた。
「うん、楽しかったよ。全然上手く滑れなかったけど」視線をサラダに落として、私と目を合わすことなく、サラダに箸をつけながら答えた。
「じゃあ、今度一緒に行こうね」
「それまでにはもう一回行って練習したいな」
左手に持ったサラダの皿から一度も目を離すことなく答えた。
「どうしたのなんかあった?」
いつもより少ない会話に、ほとんど目を合わせないことが気にかかって聞いた。
「あったと言えば、あったし、でも、何にもないよ。うん、なんにもないよ。ごめんね。」
この日初めて彼女は私と視線を交えて謝った。そっと置いたサラダの皿がコトンと音を立てた。
 
結局、一ヶ月も経たないうちに彼女はそのスキー旅行で一緒になった一人の男のことが気になって、そのまま追いかけることにした。あの日の居酒屋の時よりもしつこく、申し訳なさそうに何度も謝った。別れ話は彼女の背中を後押しするように、私の方からした。
 
私の人生と彼女の人生は、交際していた一年半の期間だけ重なり、長い人生で見れば刹那的な接点にあったのだ。私はその刹那な接点でいつまでも隣に彼女がいるものだと思って安心していた。彼女がいなくなった時、今まで人がいたとなりの空間がガランとして、人肌の温もりがわずかに残るその空間に吹く惨めな風のことなど思いもしなかった。
永遠だと思っていた接点は、振り返ってみた今思えば本当に一瞬で過ぎてしまった。むしろ、その接点を越えた先にある、私と彼女が二度と交えない人生の方が永遠なのだ。一度交えてしまったが故に、もう二度交えない。私と彼女が共にいる接点は永遠に来ない。そのことが身に染むまで長い時間がかかった。
 
思考は次々に移ろう。目の前に広がる雪景色はここにいることに気づいた時から変わらない。
この景色はあの時彼女が行ったスキー場のものなのか。私は見たことのないスキー場の景色を彼女を通して創りあげているのか。だとしたら、なんのためだ。未練が残っているのか。未練と懐かしさの混在。今更思い出したとて、何も変わらないではないか。結局、私は永遠に彼女と交えることのこの道を行くのだ。それが彼女が行ったスキー場ならば、なんとやるせないことか。やっぱり頭の中だけが変わる。
 
私の頭上の太陽は今でも宙吊りになっている。東から西に行く太陽がここでは依然として頭上にあった。そして、足元の雪も両脇の樹木に生い茂る葉に積もる雪も、変わることなく陽の光を跳ね返す。生き物がいない、音のしない、風のない、雪が積もっただけの坂の終わりは見えない。

 

ご高覧、ありがとうございました。

とやもかくも、何かご意見いただければ…

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

習作「登れども」前編

 

どうもこんばんは。

今日は、今年の始めに書いた習作の前編です。

 

気がつくと、私の目の前には長い坂が続いていた。
足元からずっと先の坂の上まで真っ白に見える雪に覆われている。空からの光を受けて、それを反射させて、限りなく私を照らすので、その雪は白を超えて無だった。坂は色のない色をしていた。私は死んだのだろうか。地獄とも天国とも言えないこの場所は、静けさからなのか死後のどこかのような気もした。しかし、私の知る死後の世界とは似つかず、おどろおどろしい雰囲気が全くない。何が何だか分からないが、歩みを進める。
長く緩やかな坂が続くこの景色に見覚えがあるような気がしたが、どこかはっきりとしなかった。もしかしたら、走馬灯の中の一部なのかもしれない。走馬灯の中ならば、私が見たことない景色が私の脳裏に映し出されることはないのだろう。つまりは、幼い頃の拙い記憶の紐を丁寧に辿ったら、行き着くようなところがあるのかもしれないのだ。懐かしさを感じているのはそれ故だからだろうか。
私は一歩、右足から歩を進める。誰からも教わらないのに、自然と左足が前に出る。生きているとなぜか生まれる前から知っていることがある。
見上げると空はどこまでも透明で、青かった。太陽は遥か上空にぶら下げられているように小さくゆらりゆらりとしている。視界に入りきるめい一杯の青空は均一で同じ色をしている。振り返ってみても前と同じ景色が続いている。私が歩く雪道の両脇には大きな木が等間隔で並んでいた。樹種は分からなかったが、まっすぐ素直に伸びる樹に生い茂る葉たちの上にも雪は積もっている。樹の根元は真っ白で葉は一枚も落ちていない。名の知れない樹木から感じる生気はない。はるか先の地を覆う雪と目の前の樹木に積もる雪が重なり、同化し、遠近の感覚を失う。どこまでもビルが並ぶ都会の街で見た、手前の大きなビルが離れていくに従い徐々に人差し指ほどになっていくビルの遠近に慣れた私には失ったことのない感覚だった。
坂はどこまでも続いている。空の青さも、等間隔に並ぶ知らない樹木も坂と同じようにどこまでも続いている。その果てしなさに諦めの感情が湧いてくる。文庫本の1ページ目をめくるような絶望感。そういえば、空や地面に鳥も虫も、もちろん人間も生きているものは私しかいない。
 
時間の感覚もなく、ひたすらに歩いた。景色は変わらず均一な空色に緑が重なっている。変わらぬ景色を行くと足よりも頭の方が無駄に動く。止まらない思考。
 
私はなぜここに来ているのだろうか。なぜこのどこまでも変わらない景色をどこか懐かしいような気持ちで歩いているのだろうか。ふと、こんなことを思案し始める。なぜ、数ある記憶の中から、はっきりと思い出せない雪景色を選んだのだろうか。意識しない自己が意識した景色には違いないのだが、雪に何か焦がれるような記憶があっただろうか。
 
学生時代のある朝のことを思いし出した。
その頃、私は早朝に近所のチェーンカフェ店でアルバイトしてから大学に通っていた。学校が終わってからの夕方の時間が自由だったのはよかったし、人が活動を始める前の五時半に一人で駅をぶらつくのは背徳感と相まって気持ちよかった。
一月半ばの雪の日の朝、駅に向かう商店街の大通りには人の足跡のない一面の銀色が、オレンジ色の街灯に照らされていた。まだ少し、舞う雪が落ちかけてた月に輝いていたのがやけに脳裏に残っている。この景色を足の裏からゾクゾクとするせり上がってくるような感動と合わせて鮮明に覚えていた。景色を見て、こんなに感動したのは後にも先にもこの時の商店街だけだろう。夜、駅からの家路、朝の雪が黒く汚されてるのをみて、世界にはなんと人間が増え過ぎたんだろうか、と素っ頓狂なことに勝手に腹立たしくなった。ただ、思い起こせば、あんなになにもなく美しかった雪景色に最初の足跡で汚したのは私だったのだ。そのことに気づいたのは、雪が溶けて、アスファルトが露わになっていた翌日の早朝だった。
 
時間の感覚もなく、代わり映えのしない雪道を行くのだが、やっぱり景色は変わらない。なんせ代わり映えしないのだから。この景色はアルバイトに向かう朝のことを思い出すために見ているのだろうか。それとも、もっと別の雪に関する思い入れがあっただろうか。
雪道を歩いている私の足音がどこにも響いていないことに気づいた。いよいよ、ここはどこなのか。自分の置かれている状況が不安になる。一定のテンポで進める歩みは静かで乱されることがない。雪道を歩いているのに、足が埋もれて持っていかれたり、坂に滑ったりすることがない。私は坂を登っているのに、息一つ上がってはいないのだ。本当に目の前の坂を私は登っているのだろうか。まるで足踏みでもするように、本当は進んでいないのではないだろうか。なるほど、景色は変わらないわけだ。
自分が登った坂を振り返れば進んでるかわかるではないか、という気がして、振り返っても先ほどと景色は変わらない。変わらない景色を登ってきた私の後ろに、景色の変化があるわけがないのだ。
結局、私が雪の坂を登っているのか、はたまた登っているようで同じところに留まり続けているのかは、分からないまま、ほかのことに思索が向かう。
 

 

明日、後編を更新します。

忌憚のないご意見を受け賜れれば…

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

本屋さん、ごめんなさい

 

どうもこんばんは。

 

人生を前者と後者の二つに分けるとしたら、私は間違いなく後者だ。

つまり、いるかどうかもわからないレシートをどんどん財布に詰めて、無駄に紙切れを後ろポケットに入れて歩く人種だ。

 

本屋で取り置きをする。控えの伝票を受け取る。受け取りまでになくさないように財布に入れる。控えの伝票は店舗到着の連絡までにレシートとレシートに挟まれる。書店から到着の連絡が来る。控え伝票が必要になる。レジまであたふたしてもレシートにまみれた伝票は見つからない。結局、名前と電話番号からデータを検索してもらう。後ろにできている列。ごめんなさい、本屋さん。

 

ふと、これを書きながら、私が無駄に持ち歩いているレシートの束はどれくらいのカロリーを消費しているのだろうか、と疑問に思った。

地味に毎日持ち歩く財布だ、きっと本屋さんを困らせる以外に何かメリットも働くに違いないと言い訳がましくなったのだ。

私の身長体重では10kgのものを1時間持ち歩いて、516kcal消費するらしい。これはシャトレーゼのショコラモンブラン一つ分。レシートの束は約10gだ。ショコラモンブランの1/1000相当。つまり、あのショコラモンブランを1000個に切ったうちの一つ分は消費しているらしい。シャトレーゼさんには悪いが、あのモンブラン、1000個に分けるにゃ、小さすぎる。

もちろん、シャトレーゼさんだって、1000等分されるとははなから思ってなかっただろう。

(参考サイト)

https://www.eatsmart.jp/do/caloriecheck/work/check

https://www.eatsmart.jp/do/caloriecheck/list/param/amount/516/operatorKbn/01/offset/70/prevCondition/00%252C100101516/nutritionCode/0101/paging/YES/category/00

 

私がレシートを貯めておくばっかりに、本屋さんに列を作るわ、あんなに美味しいシャトレーゼさんに文句つけるわ、たまったもんじゃないね。

くだらないことを書いて時間を過ごしたな。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

ちゃんとした絶望しよう

 

どうもこんにちは。

 

さて、何について書こうかな。

キーボードを前にして、いつも思う。

 

ついさっきまでは、どうでもいいことやくだらないことを考えて、これ掘り下げてブログにしようとか思ってるんだけど、頭の中には見事に残らず、気まぐれで書いたメモが時々、手帳の隅に残るだけ。

人間が考えることなんてそんなもんだってことでしょう。

何を書くか、考えるところだけで、時間は過ぎていく。

 

アルバイトの男の子で、プロのサッカー選手として、ブラジルで契約したものの振るわずに、日本に帰ってきた子がいる。その子は本当はサッカーをしたいんだけど、限界が見えてしまった。仕方なしというか、そうせざる得ないからか、別の道を生きるために不本意な専門学校に通おうとしている。彼はきっと、彼の人生で一番理不尽で残酷な時間を生きてるんだろうなと話を聞いていた。

プロのサッカーってのはちょっと話が大きいが、大人になれば誰でも程度の差こそあれ、絶望に一度は襲われる。自分ではどうにもならない理不尽に見舞われて、思ってもみなかった今を否応なしに生きることになる。

しかし、起きている現実が、今が、全て正解ならば、泥水をすするような毎日を送るしかない。いつしかこの味に慣れて、なんでもない日が来るまで。

彼はきっと初めてすするこの味に悔しさと惨めさとを我慢して飲み込んでいるに違いない。

 

私はいつ、この味に慣れたのだろうか。

今も心のどこかで苦々しい思いと生きているような気もする。彼のプロサッカー選手というような具体的な理想でなく、まだ私にも見えていない生き方が出来ていないことへの辛苦な気もする。

この歳になって「まだ見えていない」というのが情けない。しかし、情けないと私を笑ったあなたに聞きたい。理想の自分が明瞭に見えていて、それに行き着けなかった絶望を経験出来ただろうか?

いや、ちゃんと行き着いたから絶望なんか経験していないというなら、それはそれで結構。ただ、多くの人はいつのまにか、何が破れたのかも分からぬままに、まともな絶望も経験せずに、ただ何となしの「こうじゃないんだよな」って人生を生きてやいまいか。

いつのまにか混じっていた泥水が濃くなっても、気付かぬふりして生きてやいまいか。

 

私はちゃんと向き合いたい。どうして泥水が濃く、汚くなっていくのか。

そして、出来れば泥水をすすらずに済む道を探りたい。しかし、人生はもうほとんどが決まったようなもので、抗い難いこともある。必要ならば必要な絶望をしたい。

 

なんだか分りもしないうちに、諦めの泥水をすする大人ばっかり見てきたせいだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

諸雑記

 

どうもこんばんは。

 

毎度のことながら、仕事にかまけて、このブログの更新を怠ったり、読書に勉強が疎かになる。

いや、疎かになるって言ったって、義務ではないし、むしろ、仕事が優先されているんだから、社会人としては至極真っ当だ。

 

そうか、私は社会人だったんだ。すっかり忘れてしまっている。

そもそも社会人とはなんだ?

学校を出て、自分で生計を立てている人のことか?

すると、学校は社会ではないのか?

いやいや、赤の他人と人間関係を築いて、自分の立場を守らなくてはいけないんだから、学校という社会も規模は小さいけれど、それなりに厳しい社会だと思う。だとすれば、学生も社会人じゃないか。

 

閉口するような都知事選の結果。

誰がいい悪いではない。全く機能してない民主主義の根幹の制度。

1933年にドイツでヒトラー率いるナチス党が第1党に躍り出た選挙で、投票率は84%だったそうだ。民主主義がうまく機能したって、ナチス台頭のようなことがありうるのだ。55%なんて、どんな東京になっても何も言えまい。悲しい気もするし、恐ろしい気もする。

どうして、学校でもっと私たちが生きることについてと同義に等しい民主主義、選挙制度について教えてくれないのか。国民が知らない方が都合の良い人間が、保身のために教えないのか。

 

月曜の夜、小田急藤沢駅で途中下車。

ホームの端から、反対の改札まで電車6車両分の長さ、ホームを歩く。自分が乗ってきた相模大野に向かう電車には、家路についたサラーリマンが多い。ほとんどの人間がスマホを覗いている。便利と仮初の娯楽に溺れて、考えることをやめてしまったゾンビみたいな人間が同じ首の角度で並んでいる。気持ちが悪かった。

 

簡単なゲームをして、ポイントを集めて換金するアプリ。良い歳の大人が休憩時間にこぞって一生懸命になっている。ゲームが楽しいのではない。ポイントを集めるのが目的だろう。それだって1時間やって、大した額になるわけではない。それでも、一銭にもならないよりかは、とスマホにかじり付いている。ゲームで得るポイントはどこから出ているのか。アプリ内でこざかしく現れる広告費が出所なんだろう。そんなふうに広告を打たねば、採算の取れない商品なんか世の中にあってもなくてもいい。あってもなくてもいい商品のために、やってもやらなくてもいいアプリが存在しているのだ。飽和した供給が生み出したハリボテの需要。こんな愚かなものが溢れていくのに、地球はどこまで耐え切れるのか。

 

こんなことを思うだけで、どんどん虚しくなる私。

どこにも行きつかない。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。