本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

そういや、江ノ島に本屋がなかったなー天狼院書店、「古くてあたらしいしごと」、錦糸町へ向かう車窓でー

 

どうもこんばんは。

 

先月までの在宅無職が懐かしい。いまや、休業中の遅れを取り戻そうと、14時間労働が週に5日か6日も続く。こういう生活の中で、インプットに割く時間もアウトプットする時間も過酷な労働による疲労に飲み込まれてしまう。

何かしたい、何か動かなくては、という気持ちに疲れ切った体はなかなかついてこない。自粛中に買ったギターも練習時間が取れず、ドイツ語の勉強も滞ってしまう。

体力のなさを言い訳に楽な方に行ってしまう自分。でも、本当にやりたいことは、楽な方にはない。この疲労を物ともせず動くことがやりたいことを形にするのに。なんて、いつの間にかの落ちてしまった朝、出勤までのコーヒーを飲みながら、苦い気持ちが染みる。

 

江ノ島の国道沿いに新しく出来たスポット「ENOTOKI」が8日の月曜日にオープンした。

4月にオープン予定が延期になっての、この度のオープンだった。

毎日、灯りが灯ることのない建物の前を自転車で帰る。聞いたことのないカフェや焼肉屋。中で、私がずっと気になっていた看板が「天狼院書店」だった。天狼院書店「湘南天狼院」 |ENOTOKI(エノトキ)ショップ紹介

字面のせいか、なんだかうっすらと雲のかかった月明かりに遠吠える狼の影絵を思わせた。シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」のような。本当に字面だけのイメージで。とても本屋とは思えない。ちょっと魅惑的で怪しげな響き。どんな本を扱っているのだろう。毎度の家路で関心を寄せていた。帰る頃には怪しい本屋の記憶は雲隠れしてしまっているから、わざわざ検索してみることもなかった。だから、オープン当日の昼休み、14時間労働の1時間休憩で足を運ぶまで、概要は一切わからなかった。ただ、イメージの狼だけ。1時間の休憩時間を削ったのには、本屋に行くという気概より、疲労に押し切られている生活の中で、何か自分を説得できる行為のかけらが欲しかったからかもしれない。

 

今ではすっかりお馴染みになった入り口の消毒用アルコール。たまにジェルのように濃度が濃いのは一体何者なんだろうか。そんなものを手にすり込みながら、本棚をぐるりと見渡す。奥はカフェスペースになっているので、扱う本自体はさほど多くないが、並んだ本にびっくりした。

 

「これはうちの本棚か?」

 

大好きなラーメンズ小林賢太郎の本、井上ひさし老師や谷崎潤一郎の「文章読本」、うちの本棚の顔ぶれがドッペルゲンガーのように並んでいた。

その隣の棚は動画制作に関する本、自己啓発本、などが並んでいる。

 

入り口を挟むように壁に沿っている左右に背の高い本棚。入り口正面にも同じタッパの本棚が両面に本を抱えている。ここにある本棚はそれだけだった。本に囲まれて、本から声をかけれるには少ないが、その代わり、私が一度買おうか迷って手にした本が至る所に並んでいる。次あったら、買おうねって約束をした本たちだ。それがこんなにいっぺんに現れてはどうにも約束は果たせまい。私の不義理を許してほしい、約束の本たちよ。

面白いコンセプトで売られているガチャガチャのような中身のわからない本。書店にまつわることを書いた本だけが集まっているコーナーもある。

その中で、目と心に訴えきたのが「古くてあたらしい仕事」(島田潤一郎)だった。時々Twitterなんかで目にしていたので、なんとなく話題だという情報はキャッチしていたのだが、そこで止まってしまっていた本だった。元々、本をネットで買わない私は、口コミの評価をあてにしないし、書店で手にとって実物とのインスピレーション(恥ずかしいくらいカッコつけた言い方に当人もびっくりしている)で選びたかった。だから、SNSで話題でも、書店に並んだ実物でなければ、私にとって本と出会ったとは言わない。

この本も本当の意味で私とはまだ未邂逅だったのだ。

それが私の第二の書庫とも言えるこの書店でいよいよ巡り合った。これは買わないなんて不埒なことはできない。

再会した本を4冊、初のお目見えのこの本、計5冊を手にしてレジに向かう。

 

1時間の休憩はあっという間に終わって、仕事に戻る。

普段、ご飯と仮眠で終わってしまう1時間を本屋で本を買うという有意義な時間に変えられたことだけで、気持ちが前を向く。買った本のページは一枚もめくっていない。この本が私をどう変えてくれるか、読む時間を後悔しない本かどうかも分からない。ただ、本を買ったというだけで、何かに一歩前進した気になれた。

 

仕事が終わって、20時過ぎ。海沿いの大手のコーヒーチェーンで一番安いサイズのアイスコーヒーを買って、ページをめくる。

一人で、復刊する本の選書から、関係者への連絡、販売までする著者が出版業界に乗り出すまでのプロローグを読んで、ページをめくる手が止まる。今の私と、今進行している、この本のページをめくる私と同じ人間がそこにいたのだ。

 

陰鬱とした著者はその気分に耐えられず、古本屋に行く。そこで本を買う。そうすると、本を買ったという事実、家に本が一冊物理的に増えているということが、何か物事を進めた気にしてくれた、というのだ。

 

分かる。その気持ち。その本との出会いがもたらしてくれる変化ではない。本が増えた、ということだけで、私にとって大きな変化な時があるのだ。

それは世界になんの変化も与えない。一冊の本がある本棚からある本棚に数キロ移動したに過ぎない。この変化を知るのは買った私と売った店員さん、そして、パソコン上の売り上げデータだけ。小さい小さい変化だ。

それだけで満足する著者。その気持ちがよく分かる。

何を隠そう、私はその微塵の変化をこの本に求めたのだ。同じことをこの本に求めていた。

 

このエピソードだけで、私はこの本を買ってよかった。天狼院書店を覗いてよかった。

小さい変化のつもりが、私の気持ちを大きく前に進めてくれた。

 

まだ、しばらく、身動きの取れない、もどかしい14時間労働の日々は続く。

本当はもっとコーヒーに関わる仕事に動きたいな、なんて思っていたのだか、このご時世で生活の舵を大きく切るには、勇気がいる。その意味で、生活の半分を仕事に浪費している生活から身動きが取れない。

それでも、この本との出会いは身動きが取れないながらに、動ける範囲で歩き回る精神的体力を回復してくれた。それさえ、回復していしまえば身体的体力は多少無理が効く。

 

そんな体力で、今、1週間で唯一の休みを使って、コーヒーの焙煎の師匠のもとへ向かう。

今動ける一番遠い錦糸町へ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

コロナの後をちっとは楽しく生きたい

どうもこんにちは。


仕事のない「おうち時間」は退屈を極めるのだが、仕事が始まると、途端に休みたくなる。

仕事といっても、営業を再開したばかりの江ノ島のお店にはお客さんは多くない。ガランとした客席が平気で1、2時間続く。


お店の外に出て、気持ちの良い陽の光を浴びると、右手のずっと先に煌々と輝く海が見える。船宿が並んで、防波堤があって、その先に小さく海が見える。それでも小ささの割に実に眩しいくらいに海は光っている。三島由紀夫の「潮騒」の比喩が浮かんでくる。

今まで、店先から見える小さな海の水面がこんなに輝いているとは知らなかった。思えば、ついこの間まで、店の外に出るなんてのは長い行列のお客さんを案内する時で、店先で目にする水面といえばお客さんに配る紙コップの水くらいなものであった。

ちょっと先の輝く海の水面になど、目も暮れる余裕がなかったのだ。

私が入社してから、こんなに店の周りをゆっくり見渡せたことがなかった。海の水面に気付けたのは、こんなご時世だからだろう。

「コロナのせいで」と言いたいことは山ほどある。観にいくつもりで買った芝居のチケットが何枚無駄になったことだろう。何人の友人との約束が延期になったことだろう。

そんなどこにもぶつけようのない苛立ちを抱え込んでもしょうがない。そんなことよりも「コロナだから」と言える海の水面を見つけることの方が肝心ではないか。

店内のあちこちにある「コロナだから」見つけられた「海の水面」を大切にして、お客様をお待ちしていることが、お客様と我々とを繋ぎ合わせるために、我々にできることではないかと思う。


というのは、お店で発行する新聞用に書いた軽いエッセイです。

なんとも当たり障りのない平べったい文章で、自分の保身の卑しさが滲んでいる。


でも、内容はそんなに悪くないのではないかと思う。

コロナのせいで失われたものばかり追っていてもしょうがない。大きな代価は払ったものの得たものも少なからずあるのだ。今はその希有な希望で、次にいくしかないと思う。

これは、お店用に「お客様と我々」なんて言ったが、生活全般におけることだと思う。

コロナのせいで夏のボーナスは失ったが、ギターを買う機会を得た。新しい音楽の道を得たのだ。

コロナのせいで「桜の園」「欲望」と2作もケラ作品を見損なってしまったが、「12人の優しい日本人」の朗読版を、ほぼ初演キャストで見ることができた。

そういうことだ。

総理大臣の一挙手一投足が、我々の生活に直結することを改めて感じることができ、為政者の選び方について、思い直すきっかけになったではないか。


もう失ったものに苛立つのはやめて、得られたものについて考えたい。そうでなくては、次に行けないではないか。


では、こりゃまた失礼いたしました。

 

文化自給自足生活

どうもこんにちは。

 

文化的自給自足をしたいと思う。

自分で享受する文化的なものを自分で賄いたいのだ。


家で野菜を育てれば、何か身になる資格勉強をしていれば、人はその時間を有意義だと言う。

なんかしらの結果が得られるからだ。その結果を生まない時間は、世間では無駄なのだ。

それこそ、流行作家になったり、名声のあるピアニストにならなければ、文化的な時間は無駄なのだ。そう、無駄。

私がこれを書く時間も、それを読むみなさんも、共に無駄な時間を過ごしているのだ。そう言うことになる。


結果を生まないことが無駄だという考え方は、私のそれとは相反する。

行為そのものを楽しむことに、どうして意義が認められないのか。なかなかもどかしい。


この自粛生活でどれだけのその無駄が失われたか。どれだけ踏み付けにされて再生が難しくなったことか。


本当に我々はあれだけ多くの犠牲を払って自粛する必要があったのか。

一度、そこに立ち返って、この対応を反省する必要があるのではないかと思う。あまりにも失われてしまったものが多すぎる。決して、命の重さを軽んじているわけではない。確かに新型コロナで失われた尊い命に対しては、最大限の喪に服すべきだ。

しかし、それをいい看板に、我々は正確な情報のもと、正確な対応をしていたのか。

マスクのために大枚をドブに捨てる、給付金の対応が遅い、休業補償の給付がホンの微々たるパーセンテージだとか、確かに政府は何もしていない。何もできていない。一つもだ。それもそれで愚かしいと思う。


でも、そんなことよりも必要以上の自粛脅迫で、我々は失わずに済むものまで奪われたのではないか、と思う。何もしない自分たちを棚に上げて、我々は身を切ることのみを強要された。その結果、死守しなくてはいけないものを、易々と国は奪っていった。


それをどういう手を使っても取り戻すべきではないか。取り戻さなくてはいけないのではないか。そんなことを最近考えている。


コロナと生きていくための新しい生活という、さも我々に寄り添ったかのような浅はかな提案。我々が求めているのは、そんな茶番にもならない馬鹿げた冗談ではない。再生が不可能になりつつあるつい数ヶ月前の文化的な生活だ。国に殺され、戻ってこない生活だ。私はそれをなんとかして、生き返らせたい。


なぜなら、それは無駄ではないからだ。

長い時間をかけて、人間生活の営みの中で不必要なものが育まれるわけがない。ギリシャ悲劇が生まれて、すぐに今の多様な表現で、深みのある演劇になったわけがない。何千年とかけて、歴史に残らない駄作が大量に生まれて、その中から、太平洋のど真ん中に落ちた100円玉を見つけるようなわずかな確率で名作が生まれ、そのわずかな確率を重ねて重ねて、長い年月をかけて築かれたものなのだ。

それを何者できない愚かしい一部の人間によって、たった一瞬にして、また太平洋に100円玉を投げ返すがごとく、失われていいはずがない。文化を守るという仕事は、個人の仕事ではない。今まで何千年という長い間に、関わってきた全人類を背負い、未来永劫の全ての人類に引き継ぐ仕事なのだ。マスクも配れない浅ましい人間ができる仕事ではない。

今、失えば、この灯火を吹き消してしまえば、また、火が灯るまでに途方もない時間を有する。


自粛脅迫にはその責任と覚悟があったのか。

あるわけがない。そんなことに考えが及ぶ人間ではないのだから。目先のことしか見えない取るに足りない人間なのだから。


守るためには、文化のピラミッドを崩さないためには、裾野を削らないことだ。

自粛によって経済も末路を辿り始め、裾野で営まれていた文化は困窮に瀕している。これをなんとか少なわければ、ピラミッドの頂はバベルの塔も同然だ。

そのために、私は自分の文化を自分でまかない、進んでその裾野となりたい。


そんなことを考える。

戯言に過ぎないな。


では、こりゃまた失礼いたしました。

私もすっかり日大二高、97年卒

 

どうもこんにちは。

 

今週は土曜日の衝撃的で歓喜的な告白のおかげで、気持ちの全部を憂鬱に圧迫されることなく、過ごせそうだ。

オードリー春日さんの第一子誕生報告だ。

番組の後半、いつも通り若林さんのトークの後で、のらりくらりと話を始める春日さん。

あのー、まあ、ちょっと先週の話になっちゃって申し訳ないんだけど、今週、そのことよりもデカいことが起きなったからさ

先週の金曜日だな、5.8だな。春日、父になりましてね

父というか、ダディね

さも、なんでもなく、まるで、いつも通りリモート収録をしたかのようなトーンで話をしている。スーパーのレジ前で会計を待つ母親が買い忘れた牛乳を思い出すかのようなささやかさで、さらりと言った。

この一年、オードリーの2人のトークの中に奥さんの話が出てくると、たまらなく嬉しくなってしまう。

これから、春日さんのトークにお子さんの話が出てくること、今からどれだけ楽しみなことか。

いろんな芸人さんのラジオ番組があり、それぞれの形があって、それぞれの繋がり方で私たちを楽しませてくれる。深夜ラジオは繋がりそのものだ。いつもテレビで笑わせてくれている彼らとの繋がり、そのものを楽しんでいるのだ。

 

先週、高校時代の友人がプロポーズされたと連絡をくれた。同時にその彼からプロポーズしたと連絡を受けた。

2人は高校時代、僭越ながら私がキューピットを務めたカップルで、万丈とは言わないまでの波乱はあったものの8年間ずっと一緒に来たのだ。隣で見ていた私なんぞは、「やっとか」という方が大きいくらい待たされたプロポーズだった。

でも、嬉しかった。気があって、昔から知っている友人が幸せになるというのはたまらなく嬉しいことだ。今から結婚式のスピーチをどうしようかウキウキしながら、考えている。パワポを使って、思う存分、祝ってあげるつもりだ。

 

春日さんの第一子誕生もこんな嬉しさだった。古い友人たちの幸せを喜ぶことに似ているのだ。いい意味でカリスマ性のない2人は憧れの存在というよりも、ずっと一緒にバカをやってきた悪友という感覚が近いのかもしれない。それはきっと2人のトークの随所に現れる高校時代の「おなじみ」が身体に染みついているからだろう。いつの間にか土曜の深夜は、私も日大二高97年の卒業生になっている。

そんな昔からの馴れ合いのような感覚がオードリーとの繋がりだ。土曜の深夜の繋がりなのだ。

 

自分のことで手一杯で人のことに構っていられない必死な世の中になりつつある。それでも、リスナーみんなの同級生の出産報告は自分のことを片手間に祝える幸福な報告だった。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

アフターコロナを生きる

 

どうもこんばんは。

 

仕事が再開した。営業再開に向けての準備期間が始まった。初夏と言うには度が過ぎる炎天下の中でペンキ塗ったり、ニス塗ったり。まるで大工職人だ。働いていない在宅期間には、仕事が私の中のバランスを保つのに結構なウエイトを占めていたことに気付く。あまりにも自由すぎると、結局何もやらないものだ。

 

その在宅期間にアルバイトから休業中の保証のこと絡みで連絡を受け、社長を介して社労士だの弁護士だのと話をする。そうか、いくら国が「十分な保証をする」と言っても結局は他人なのだ。自分の生活は自分で賄うしかない。どんなに福祉厚生に恵まれても、最後の最後はなんのあてにもならない。だから、私はなりたい自分を見つけて、それに向かって動き続けなければいけないのだ。そういう人間にしか、生き残れない時代に生きているのだということを思い出した。この厳しさをごまかし、隠して、大したことじゃないと甘い夢を見せるために、選挙のマニフェストがあるのかもしれない。

生きていくのが自分ならば、それを生かすのも自分なのだ。誰も教えてくれない当たり前を見ないフリしてきたが、コロナ禍の今、そうは言ってられなくなった。

 

さて、こんな軽い言葉の決意表明に意味があろうものか。

こう言葉にしては度々、敗北に喫する私は同じことを繰り返すのだろうか。

具体性もないのに、何をどう生きようというのだろうか。考えよ、私。

何でもどうにでもなるなんて、無鉄砲な若さの1幕はそろそろ終幕に近い。次の幕が開いた時に、台本も衣装も舞台装置もないのでは、話になるまい。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

岡村さんの発言への批判は「種族のイドラ」を抜け出せていたのか

 

どうもこんばんは。

 

「コロナ警察」とか言う言葉をよく聞くようになった。

「正義」という大義名分を得ることによって、自分のしていることに歯止めがきかなってしまっている人達だ。

自分はいいことをしている、世の中のためだ、という意識から芽生えたものだということが問題を厄介にしていやいないだろうか。

こんな人たちは物事を「相対化」することが出来ない人達なのだろう。

 

出発点は

新型コロナウイルスによる感染拡大を防ぐために自粛しよう

という素晴らしい姿勢だ。しかし、自粛しながら周りを見渡してみると、

⒉自分が自粛している間にも、世の中は自粛していない人がいる。自粛することが正しいんだから、自粛していない人は間違っっている

という発想になる。この発想は間違いではないが、この人は自分と何らかの理由で自粛しない人とを同じ座標で物事を見ている。

⒊自粛していない間違った人には自粛させなくては、なんせ自粛するのが正しいんだから

という発想に転換される。これがエスカレートすると、嫌がらせになるわけだ。

 

嫌がらせになってしまえば、これはもう善行でも何でもない。しかし、元より正義感たくましい善行から出発しているため、自分の行いが嫌がらせという悪行に陥ってることに気づかない。

 

今回の本題がここではないのでだいぶ荒削りに話を進めます。

 

私が一番と怖いと思うのは、⒈と⒉の間で

どうして、この人は自粛しないのか?

という、自分の座標を拡張して、何らかの理由で自粛しない人の座標と照らし合わせ、相対化することが出来ないことだ。そしてもっと恐ろしいことに、相対化することが出来ない人の多くは自発的に相対化が出来ないだけではない、外からの啓蒙されてもそれを受けつけられないのだ。

ここで、「啓蒙」と言う言葉を使うのは、結構思い切った語の選択のつもりだ。それは、私が「座標の相対化」ができることにかなりの価値を置いているからだ。

外からの触発を受けても「座標の相対化」が出来ない人は、相対化して物事を見ている人を自分が相対化すべき対象と同じだとみなす。

自粛できな人の理由に納得し、それを受け入れた人(つまり、相対化出来た人)へも

あの人は自粛しない人を容認しているから、自粛しない人と同じ悪だ

という発想になる。

本来は①相対化することが出来ない自粛する人(自粛しない人を批判する人)、②相対化することが出来た自粛する人(自粛しない人を容認した人)、③何らかの理由で自粛しない人の3種類がいるのだ。しかし、①の哀しいフィルターを通して見ると、②と③が同じ類の人間に思えてしまっているのだ。

私は①を実に愚かしい人間の類だと思う。なぜだろうか。恐らく、他者と自分を相対化させるということが「洞窟のイドラ」から抜け出す手始めの方法なのだ。そして、この「洞窟のイドラ」が一番抜け出すことが容易なイドラなのだ。

一番抜け出しやすいイドラから最も初歩的な手段を持ってすら抜け出すことが出来ない

人なのだろう。だいぶ、強めの言い方をしてしまっているので、顰蹙を買いかねないが、そういうことを言う人の多方は上記の「一番抜け出しやすいイドラから最も初歩的な手段を持ってすら抜け出すことが出来ない」人なので、私は気にしない。しかし、耳を傾けないわけではない。反対の意見を言う人の考えと私の考えを相対化させて、考えてみることはする。頭ごなしに「反対意見は聞かん」では、いつの間にか私も「一番抜け出しやすいイドラから最も初歩的な手段を持ってすら抜け出すことが出来ない」人に堕ちてしまっているからだ。

 

さて、自分と他人の座標を相対化させることが出来ると、次にもっと大きな括りでの座標を相対化せていく必要がある。

自分が生まれ育った環境と他人が生まれ育った環境。もっと大きくなれば、地域と地域、国と国、文化圏と文化圏を相対化させる必要が出てくる。先ほどから何度も拝借しているベーコン老師『ノヴム・オルガヌム』によれば、「種族のイドラ」と言うやつだ。

さて、やっとこそさ、本題に入れそうだ。

つい先日、この「種族のイドラ」から抜け出せない人によって一つの文化圏が脅かされた。

 

4月23日に放送された「岡村隆史オールナイトニッポン」での発言が問題になった時だ。気分の悪くなる発言なので、詳細はここでは言いません。思い当たることがない人は「岡村 オールナイトニッポン 発言」とかで検索してください。

はじめにちゃんと示しておくと、私は岡村さんの発言を容認するわけでもなければ、この発言に対する批判はごもっともだと思っている。その上で次のようなことを言いたいのだ。

 

批判した人のどれほどが深夜ラジオという文化を理解していたか、つまり、定期的に聞いているリスナーだったのか。そして、根は次にある。⒈この発言をSNS等で聞いた普段深夜ラジオを聞かない人のどれくらいが、実際の放送でもって活字でない、岡村さんの声を聞いたか。

最新のニッポン放送聴取率調査では「岡村隆史オールナイトニッポン」は0.6%だった。(ニッポン放送『オールナイトニッポン』聴取率単独首位に オードリーがV24達成 | ORICON NEWS

それに対して、岡村さんのレギュラー番組に寄せられた降板を求める署名は1万5千人。(岡村隆史さん出演、ネットで賛否 問題発言後初の「チコちゃんに叱られる!」 - 毎日新聞

それ以上にもTwitter等には批判の声がかなり多い。当たり前だがこの全員がリアルタイムで聞いていたとは思えない。

そして、⒉普段深夜ラジオを聞かない人たちは深夜ラジオという文化を相対化させようと努めたのか、私はこの二つの問いを問題発言に対する批判に対して投げかけたい。

 

再三言うが、深夜ラジオという文化圏ならば、問題の発言は許されるべきだ、と言うのではない。深夜ラジオにおいても許されない発言だ。それは間違いない。

 

しかし、深夜ラジオ特有のパーソナリティとリスナーの親密感、深夜という時間帯、などを考えると風俗の話、下ネタはよく聞かれる。そういうアホな話題で盛り上がることが大いにある。私もそれもひっくるめて楽しんでいる。当然、今回のように倫理感を逸脱しない程度の話でだ。

深夜ラジオはそういう空気感が他のメディアよりも比較的に強い。(何度も言うが、深夜ラジオの空気感でも、岡村さんの発言は許されない

普段深夜ラジオを聞かないで批判した人のどれだけが、深夜ラジオの文化をその人が普段接している他のメディアの文化と相対化させる努力を、思考をしたのだろうか。そういう手続きがあった上での批判だったのか。私は同じ批判でも大きな分岐点にあると思う。

 

5月5日のTBSラジオ爆笑問題カーボーイ」で太田さんが発言しているが、風俗だけを生き甲斐にしている一定数のリスナーに、間違った方法ではあるが、寄り添うおうとした意図から生まれた発言なのだ。だからと言って許さない発言ではあるけども。深夜ラジオという文化圏はそういう発言で励まされる人も含んだ文化圏であることへの理解が批判した人の中にどれだけあったのだろうか。

JUNK 爆笑問題カーボーイ | TBSラジオ | 2020/05/05/火 | 25:00-27:00 http://radiko.jp/share/?t=20200506010000&sid=TBS

 

今回は批判の対象になった発言が深夜ラジオの文化圏にいる人間からしても、擁護できるものではなかった。

しかし、これが深夜ラジオの文化圏からすれば当たり前のもので、かつ、さほどの倫理的な逸脱がないものだったら、どうだっただろうか。深夜ラジオを聞くマイノリティからすると当たり前だが、深夜ラジオを聞かないマジョリティからすると聞きなれない、でもさほど社会的に外れたとは言い難い発言が批判の的になっていたらば。

深夜ラジオの文化を相対化出来ない人の批判の的に晒されたら、と思うと私は恐ろしくなる。それは一つの文化の滅亡の引き金になりかねない。

 

相対化出来ない人達による無思考な批判のせいで脅かされる文化はまだまだある。

例えば、落語。男尊女卑という概念すらない時代を談る話芸において、男尊女卑を理由に批判的に見る人がいる。落語文化を今その人が生きる現代文化と相対化させることが出来ていないのだ。それを必要だとも思わない。どうして落語文化には未だに時代錯誤な男尊女卑思想が忍んでいるのか、という問いすら立てられない人達だ。そういう愚者たちが潰すだけ潰した文化の後に何を残せるのか。そのことに対する危機感はないのかね。

私は自分の知る文化と相対化させてその違いを容認さえできれば、こんなに面白い文化で溢れている世の中がどんどん失速していくのが、恐ろしくなってしまう。

 

かと言って、今回の岡村さんの発言は許されない。私も許そうとは思っていない。

しかし、同じ許されないでも、岡村さんの発言の真意を聞こうとしたのか。岡村さんを、深夜ラジオを、それを普段から聞くリスナーを、相対化させることすら発想になかった人たちの批判でSNSが溢れて、そういう意見がマジョリティになり、マイノリティ文化が不必要な締め付けに合うことに警鐘を鳴らしたい。

これを民主主義のあるべき形だというのは大きな間違いだ。

無思考に批判した人がやっていることは、無理解に自国の文化を押し付け、植民地化した帝国主義の列強と同じだ。1800年代後半の古く、愚かしいイドラから抜け出せない人たちだ。

 

結構な熱量と思い切った刺々しさで申し上げさせていただきました。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

じっと手を見る

 

どうもこんばんは。

 

いよいよ隠居生活も板についてくる。齢26にして、つける板じゃないやね。

 

朝、七時ごろ起きて、カーテンを開ける。ここのところは天気が良くて気持ちがいい。

珈琲を淹れて、最近育て始めたミントを観察しながら、ベランダで飲む。それから本を読んだり、映画を観たりして、あれやこれやとやって時計を見て驚いた、まだ十一時前。午前中が終わっていない。

 

早めのお昼を食べて、また珈琲を飲みながら、本を読んだり、ドラマを見たり、ラジオを聞いたり。

最近のお気に入りの過ごし方は、ちょっと前に買ったギターの練習。

専ら有名な歴史的教則本通りに基礎練習をする。中高と吹奏楽部で散々楽器を練習してきているので、曲をやりたい気持ちをグッと堪えて、単調な基礎練習をすることの大事さは体に染みついている。簡単なスケールも全ての音を均一に、メトロノームに合わせて、といっぺんに多くのことを意識する。それだけで、なかなか先に進めない。楽器の上達とはそう言うものだ。なんせ、楽器の取得は言語の獲得に等しい。

一通り、基礎練習をやったところでやっと譜読みに入る。一曲に選んだのは、JAZZのスタンダードナンバー「My one and only love」という美しいバラード。

https://youtu.be/ecrE80rnjhw

 

選曲の基準は私が弾きたいかどうか。難易度は加味しない。そんな選曲なもんだから、これがかなり難しい。一小節弾くのに、かなりの時間をかける。それでも、おぼつかない音の羅列から、好きなメロディの片鱗を覗くと、達成感と高揚感に溢れる。その瞬間を繋いでいくのが、音楽活動の根源だと思う。今はまだ他人の作った楽譜を追っているだけだが、そのうちにアドリブを弾いたり、曲を作るようになれば、次は頭の中の楽譜を追うことになる。筆記されていない音の羅列から楽器を通して全体像を覗かせる。そんなことが出来たならば、おぼつかない現状で楽しいのだから、どれだけ音楽を好きになるだろう。

 

とはいえ、本当にそんな日が来るのかというくらい、今は全然弾けない。

どんだけ練習しても、そんな夢の日は遠い。やりたい曲はまだまだあるのに、いつになることやら。

 

弾けど弾けど

我がギター上手くならざり

じっと手を見る

 

仕事がないところを見ると、そのうちには茅ヶ崎の小島の 磯の白砂に 我泣き濡れて 蟹とたわむる 日もそう遠くはないのかもしれない。

 

さて、最近のインプットをざらっと紹介しましょう。

 

リーディング版「12人の優しい日本人

1990年初演、映画化もされた三谷幸喜作品の傑作。

12人の陪審員が被告の有罪無罪について討論を交わす群像会話コメディ。最初の飲み物をオーダーする場面だけでもう面白い。大事なところが噛み合わないのに、変なところが繋がったり、意外なところを回収する伏線、どこにでもいそうな人物たちのやりとりに引き込まれていく。

会話劇という性質がZOOMというアプリの性質と見事にマッチしているので、むしろ映画よりもグッとやりとりに入り込める。12人の表情が12分割されて一つの画面に収まっているので、発言していない陪審員の表情が見えてくるところも映画や舞台にない意外なメリットしてあった。

ラストの相島さんの独白の熱量が凄まじかった。12分割された小さな画面からもすごい迫力で迫ってくる。そして、少しづつ表情を変えていく、それは哀れみの顔になっていく、11人。これは無料じゃないでしょ、立派な作品だ。こういう時期にタダで転ばずに面白いことへ作り替える推進力が素晴らしい。

最後のカーテンコールではもちろん、大きな拍手と敬意を画面の向こうに送らせていただきました。

 

前編 https://youtu.be/3e2aKThmhXM

後編 https://youtu.be/ZDagy7MmFhY

5月いっぱいはアーカイブが残るみたいなので、これはぜひ見てほしい。

 

超、リモートねもしゅー「あの子と旅行行きたくない。」

月刊根本宗子の主宰根本宗子さんがリモートで完成させたリモート芝居。根本さんといえば、去年までのオールナイトニッポンのパーソナリティとしての一面の方が強いかもしれない。

何よりも、演劇界でいの一番で動き始め、いの一番に発表した。そのとんでもない速さも驚くことながら、内容が面白い。

面白いことに、この作品も4人の女性が旅行先を決めるという群像会話劇。無意味なやりとりが話を脱線に脱線させ、訳の分からない方向に引っ掻き回される。イライラから来る笑い。こんな形でも根本節が炸裂している。大きな動きが出来ない制約を逆手に取って活かすにはこういう設定がいいのかもしれない。

こういう作品が作られていれば、伸びに伸びた自粛が明けた後に演劇が息を吹き返すかもしれない。

https://filmuy.com/chouremotenemoshuu

 

映画「夜は短し歩けよ乙女

アニメーション映画はあまり見ないけど、どこか聞いたことある気がして、観てみることに。

不思議な一夜を突き抜けていく純な恋心。余計なものを持ち合わせていない真っすぐな主人公の乙女。魅力的な世界観と人物に引き込まれて、あっという間の時間になった。

夜は短し歩けよ乙女

 

映画「スプリング、ハズ、カム

映画「PARKS パークス

映画「地球征服アパート物語

村上春樹羊をめぐる冒険(上)

 

では、こりゃまた失礼いたいしました。