本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

手帳、生命保険

 

どうもこんにちは。

 

年の瀬になると来年の話も出てきて困る。しょうがないから、来年の手帳も持ち歩く。ただでさえ、荷物が多いのに、A5版の手帳を2冊なんてカバンの底が悲鳴をあげている。書くことがいつでもあるわけではないのだが、思いついたことや観た読んだ聞いた諸々を書き留めるには1日1ページ欲しかったりする。そうなると、大判の大きな手帳を用いることになる。大きなページを365枚綴じても、真っ白なページもあれば、書きかけの習作の草稿、メモがバラバラに糸屑みたいに走っているページもある。

暇な時に、パラパラとページをめくって、忘れかけていた糸屑を拾って紐解いてみると、新しいことを思いついたり、真逆を思いついたりする。それを別日に書いたことが分かるように違う色で書き足して、2色の糸屑を絡めてみる。そのうち、ある程度まとまったものを活字にして、ここに記したりしているわけです。

それでも糸屑の断片から深めて、ある程度の文章にすることにはまだまだ未熟で、思っていたものにならないこともしばしばある。考えると言うことと、言葉にすると言うことがいかに難しいかである。

でも、その壁をよじ登らないと、言葉と向き合う意味がない。ただ、その壁を登るための命綱が手帳にこびりつく糸屑というのが心細い。それを補給するために、調べ物をして、知識の補足をして、糸屑をいくらか太くする。ただ、発想やアイディアだけで力ずくで文字数だけ重ねるというのは、パンの発酵と一緒で、外見が大きく膨らむほど、中身はどんどんすっからかんになる。

そんなことを最近思うと、なかなか一つ書くのに時間がかかる。

思考は進まない。中身はすかすか。

 

先週、知り合いを介して生命保険の営業さんの話を聞いてきた。

生きていくにもお金がかかる。いっそ死んでしまえばと思おうと、それはそれでお金がかかるもの。なんせ死んだ時にまとまったお金をもらうために、月に数千払わねばならない。私に葬式は要らない。と言っても、残された者はそうはいくまい。

人が死ぬっていうのはね、その人が亡くなって全て終わってしまうわけじゃないんだって。その人の知り合いが、その人となにかしら関係のあった人がみんな亡くなって、それで初めて終わりなんだって。

ケラリーノ・サンドロヴィッチ「グッドバイ」

私がおさらばするまでに、私を知る人が誰もいないなんてことはまずあるまい。今生きるのも大変なのに、死んだ時のために、今から身銭を切るなんて、なんだか納得できないような気もする。

 

いっそ死んでしまえば、当人の私はまだいい。心残りは閻魔様の前でおべっかが言えるかどうかくらいなものだ。

問題は、生きてしまった時だ。少し語弊のある言い方。

障害や病気が残ったまま生きるとなれば、人ごとではあるまい。生きていくにはお金がかかる。治療もお金がかかる。そうなれば、国からの年金ではなんの足しにもならないし、まずもってこんな政府では頼ろうという気すら起きない。国なんか存在しないも同然だ。

そうなれば、やはり入っておくべきか保険。生命維持というのはなんとも複雑で、厄介だ。しがらみだらけだ。しがらみに抱かれている。せつない片想い あなたは気づかない。それはキョンキョンの「木枯らしに抱かれて」だ。

 

なんてくだらないことを言いつつ、返戻率が日本よりも格段によいアメリカの保険にも入ろうと思っている。思っていることとやっていることは裏腹だ。何だかんだ生きようとしているな、私。

 

桜を見るのだって、一向にかまやしないが、私の生き死にには関係ない。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

 

 

9を10に、マンボは注文してない

 

どうもこんばんは。

いよいよ12月。恐ろしいことに、去年と同じように今年を振り返り、同じようにそんなに進歩しなかったなんて思う。

 

変わったこととしてはまずは仕事の内容。調理をしていたのにサービスになったこと。当初の反発よりは今はもっと受け入れている。ちょっと遠回りだが、いつかは必要なスキルかもしれない。

コーヒー屋さんのお手伝いをさせてもらえるようになったこと。たまたま見つけた本鵠沼の喫茶店のコーヒーが美味しくて、恐る恐るアルバイトを申し込んでみたら、オーナーの側で勉強させてもらえることに。仕事との兼ね合いがあってコンスタンスに通えてないが、私が焙煎した豆を持って行って飲んでもらっては、あーでもないこーでもないと言われる。その人間性も魅力的で通わせてもらえるようになったことは喫茶店をやりたいという私の将来の私の計画的に言えば、大きな一歩だ。

それに伴ってか、喫茶店には方々足繁く通った。柄にもなく話題のものにもアンテナを張ってみたりした。やれタピオカだ、やれチーズティーだと。どれもさほど私の刺激にはならないが、世間を知るのは必要だ。

音楽との距離がかなり遠くなってしまった。これはなんだか生活の一部がどこかに溶け落ちたようだ。躍動感がない。体の中からワクワクしない。月並みの言葉でしか表せないこの喪失。

 

なんてことはどうでもいい。

先々週、先週を私が乗り切れたのはなんと言ってもオードリー若林さんの結婚とアンタッチャブルの復活があったからだ。

 

土曜の深夜。ラジオを睡眠導入剤にいつものようにベットライトを消す。

いつも若林さんがする「いないはずの嫁トーク」はこの日いつになく、詳細で生々しくなる。「婚姻届」なんてワードが出て来る頃には、冗談と現実が交錯する。春日さんとリスナーの混乱はまさに「世にも奇妙な物語」だった。

その混乱のせいで、眠りを導くために聞いていたラジオはすっかり私のカフェインだ。目が覚めて冴えてくる。

春日さんが小学生になりすまして代弁する今の気持ちというのが、

この話は今のところ、9(対)1で本当なんじゃないかと思っています。

これに対して、若林さんは

本当に結婚したんじゃないかという気持ち、9対1、9、本当に入籍したと思ってるんだよね?春日くん、それは10にしてください。

と答えて、ファンファーレが鳴る。

 

驚くとか、信じられないとかいうことではない。そんなところを飛び越えたところから感動が来る。ラジオでこれを聞けている喜びも相まって、高ぶる。若林さんだって会ったことすらない私にこんなに感動されても困ろうものだ。

人見知りとして、足りない人として、常に抱えてた葛藤を笑いに変えてきた人が、結婚という世間的に認められる一定のボーダーを超えたのだ。ガールズバーで訓練した女性との接し方。コンビニのイートインで済ます食事。仕事帰りから就寝まで、何を考えるかわからない自分が怖くて没頭するゲーム。どれも結婚をボーダーをスタートラインにすら立っていない。それが結婚というゴールを切ってしまった。「しまった」なんて言い方は失礼か。

これは彼が大人になったからだろうか?そんなことはないのだろう。だって、結婚発表後2回の生放送でも、やっぱり彼の足りないところは埋まっていない。それがいいんだ。リスナーはきっとホッとしただろう。

 

これから先、オードリーの2人が子供が生まれたなんてなって、父親になって…。

それでも若林さんが大人になることはないのかもしれない。彼をあのままでいさせてくれる人がずっと年下にいたことが嬉しくて、そんな人と出会って結婚したことをリスナーとして祝福したい。

 

先々週はラジコのタイムフリーでいつでも9を10にできるというだけで、私はなんとか乗り越えられた。

 

しかし、そんなタイムフリーも一週間で期限切れ。

そんな折りに次はもっと驚く話だ。

アンタッチャブルが10年ぶりに漫才をしたっていう。

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急いでTverで話に上がった「脱力タイムズ」を観てみる。スタッフが作ったVTRの元を当てろとか、バカバカしくくだらない茶番の最後、これまた茶番で俳優の小手伸也さん扮する偽ザキヤマと漫才する。

小手伸也さんの完成度に納得いかないMCの有田さんが、スタジオの袖から連れてきたのが今度は本当のアンタッチャブル山崎さんだった。本人登場に驚く柴田さん。

ここじゃないって。いいのここで?

という、誰よりもアンタッチャブル復活を驚き喜ぶ。山崎さんに深々と一礼し、「お願いします」と大きな声で挨拶する。

ここまでくるのにかかった時間と努力、何よりも漫才がしたかったという熱い想いが全身から伝わる。カッコいい。ザキヤマの一言一句、一挙手一投足のボケのどれもを逃すまいと嬉々としてツッコむ柴田さん。

帰ってきたね。

 

何よりも、ツイッターなんかでも話題だけど、ゴットタンで柴田さんに説教する飯塚さんの名言。

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アンタッチャブルは俺の夢だったんだよ

が叶ったことがまた嬉しい。

 

先々週と先週はなんと笑いに助けられたことか。

ずいぶん古い話なんで、申し訳ないんだけど、やっぱりこの感動は活字にしたかった。

こんな古い話をしている合間にも、THE MANZAIの放送があって、THE Wの決勝があって、お笑いの情報は更新されている。早すぎでしょ。

今期のドラマも順番に最終回を迎えているし、ニッポン放送ではスペシャルウィークがあって、語りたいこと、掘り下げたいことが目まぐるしく、忙しない。

 

順番に書いていこう。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

イキウメ「終わりのない」

 

世田谷パブリックシアターで公演中のイキウメの公演「終わりのないもの」を観劇。

「ザ・前川戯曲」といった感じのSFの世界観を通して人間の存在そのものを透かし見るような作品だった。

 

少し早めのつもりで茅ヶ崎の駅を出る。

BGMには前日の深夜に特番として復活した「根本宗子と長井短のANN0」

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番組冒頭からぶっ放すスピードとハイテンションに一見さんは付いていけまい。乗った瞬間にいきなり急降下するドドンパは当然ながら安全バーを下ろす猶予は与えられない。

そのスピードのくせに中身は全くない。万が一、億が一、兆が一、本人の耳に入ったとしても怒られることはないだろう。だって本当に中身が無いんだもの。一口目で具にたどり着かないに肉まんなんだもの。

でも、あの変わらない安さにホッとする。具にたどり着かない理由は材料費の高騰でも、増税でもない。創業以来の変わらない中身のなさ。レギュラー放送時代から中身のなさは変わらない。今、思い出そうにもトークの内容が浮かんでこない。それでも、2人がわぁーっと騒いでる時間が懐かしくすらある。

中央林間から三軒茶屋までの田園都市線の車内が深夜のサイゼリヤかジョナサンのような2人の会話。この2人のおしゃべりを聞いてて疲れない限り、私は人生を楽しんでるのかもしれない。一回聞いてみてください。これを聞いて疲れちゃったら、どっか無駄に力が入ってるのかもしれない。

根本宗子と長井短オールナイトニッポン0(ZERO) | ニッポン放送 | 2019/11/07/木 | 27:00-28:30 http://radiko.jp/share/?t=20191108030000&sid=LFR

 

そんなこんなで三茶に到着。6月の「キネマと恋人」以来のパブリックシアター。開演まで1時間あるので、ふらっと夕方の三茶を歩いてみる。駅周りは飲み屋が立ち並ぶ繁華街でも、一本路地を行けば生活感のある商店が並ぶ。コーヒーでも飲もうかと探してみると、初めての通りの初めての店。「オブスキュラ マート (Obscura Mart) 」さん。

OBSCURA COFFEE ROASTERS

自家焙煎が売りのコーヒー屋さんで、この日は浅煎りのものをいただく。口当たりのいい刺激のない酸味と最後口に残るはフルーティーな爽やかな甘さ。コーヒーが果実由来だということを思い出す。

 

時間もいよいよ開場開始から10分を過ぎたところ。そろそろ客席に入る。

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冒頭の幻想的な羊水に浮くかのようなプロローグ。言葉はない。

物語は主人公の語りから始まる。この語りがなんとも前川さんの脚本らしい。

前川戯曲の魅力はなんと言っても、SFの着ぐるみを着た物語が紡ぐ人間の根源を問う哲学だ。今作も周りから置き去りにされてしまっている距離に気づき焦り始めた青年が、人間の「無意識」という私たちの未知の意識に接続することで時空も宇宙空間も並行世界までもを超えて旅するスペクタクルストーリーだ。

私たちはその旅を通して、常に欠落していく分岐した片方の世界線に気付かせられる。全員が迎えている今この瞬間は、私が迎えた今とは違う形で迎えられている世界線で同じ瞬間として、宇宙空間を超えたどこかに存在している。その数、無数だ。

その存在の膨大さを知るということが、私たちに与える感覚はどこかふわりとしていて、実感として掴めないのに、感覚としてはズドンと重たい。この重さを前川戯曲でしか感じない。ただ、空想物語をワクワクと見せるのではなく、その空想から私たちの現実に帰った時に哲学が残る。私たちは何者なのか?何をする者なのか?そこになんの意味があるのか?作品の中にはその答えはなく、カーテンコールが終わり、客電の付いた客席でぼーっと考える。

 

舞台初出演の奈緒さんがキラリと光った。

日テレドラマ「あなたの番です」で主人公夫妻の隣室でサイコパスなキャラクターを演じて話題になった女優さん。

奈緒さんが演じるのは主人公の元カノのあん役。現実の世界線では流産して主人公の元を離れるが、流産せずに主人公のそばを離れない世界線もある。そんな2人の関係が続いている世界線で、家族の前で主人公があんに抱きつくシーンがある。そのあと、気を使う家族の前で照れるように主人公の肩を叩く自然さが良かった。

ナイロンでもお馴染みの村岡希美さん。彼女が素晴らしい役者さんなのは言うまでもないが、今作の主人公の母親役も素晴らしかった。強さを決して感じさせないが、でも、強い母親でなければ言えないようなセリフがさらりとしててハッとさせられた。

 

帰りの電車でもその重たさを引きずる。行きに耳元で聞いた中身のないアラサー女子によるファミレス女子会も帰りにはイキウメの重さでどこかにやら。

私が生まれていない世界線、すでに死んでいる世界線もどこかにある。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

「人間失格ー太宰治と3人の女の子ー」「ジョーカー」

 

どうもこんばんは。

 

ここのところ、書く頻度がめっきり減ってしまった。毎日は書けずとも、週に3日くらいは書きたい。週に3回、1時間くらい書くということは、週に3回、3時間くらい一つのものを思考するということだ。それを理想に深くものを考えたいが、それが出来ていない今の生活のもどかしさ。

人間はなんせ寝なくてはいけない。1日5時間くらいは寝なくてはいけない。気持ちが追いつかないと12時間だって寝なくてはいけない。睡眠は体力の回復ではなく、精神の回復のためにあるのだろう。

 

最近、立て続けに2本映画を観た。

人間失格太宰治と3人の女ー」と「ジョーカー」の二本。

 

太宰治好きを公言しているだけに周りから「人間失格」の感想を求められる。一人一人に答えるのは億劫なので、ツイッターに書いてしまったが、それが字数を理由にかこつけて乱暴なので、もう少し丁寧に考えてみる。

 

観る前に気にかけていたのは、太宰治が書きたいのか、酒と女と薬に溺れる廃人が書きたいのか。後者の代表として太宰さんが選ばれたなら、そんな不名誉なことはない。太宰作品をいくつか真剣読めば分かるが、太宰さんはそんな人ではないからだ。

そんな懸念は杞憂に終わる。ちゃんと太宰治が書かれていたし、この映画はちゃんと太宰でなくてはいけなかった。

日頃、写真を生業としている人らしい、ワンカットワンカットの美しさに拘った映像だった。ただ、その映像がただ美しさを追求したものなのか、もしくは、そのシーンの捨象された感情を撮しているものなのか、これは映画における映像の役割としてはかなり重要なものだと思う。

その点でいうと、その美しさはどんな感情を表現したいのか、不明瞭なところがあった。

面白い映画の要素に、その前半で提示され、後半のクライマックスで効いてくる記号というものあるのではないかと思っている。これは伏線–回収とは違うもので、 この記号自体がストーリーを展開させることはない。でも、そのシーンでは台詞にされていない想いが言葉の形を変えて、観るものに訴えていたり、その変化を知らせていたりする。そんなものを伏線とは呼ばずに「記号」と呼んでいる。細部までこだわる映像にそんな記号がなかったことに、映画としての奥行きの物足りなさを少し思ったりもした。

 

役者陣の演技が始めから終わりまでずっと光っていた。あの演技を見るための映画だと言っても過言じゃない。特に最後、玉川上水に飛ぶこむことをためらう太宰をじっと見つめ、今死にたいと迫る二階堂ふみさんの表情。画面の迫力を超えて真にっ迫ってくる。あらかたの人間死ぬときは、きっと笑うのだろう。心中は時も場所も死に方も選べる幸せな死に方だ。死に対する希望が溢れていた。一方の太宰はその笑顔に押されるも諦めきれない表情を見せる。それがまたいい。暗がりなのがなおいい。

それから、帰らない太宰に憤りでも悲しみでもない感情をインクに滲ませて、子供と共に体や顔に塗りたくる宮沢えりさんもすばらしかった。感情を言葉に変換できない時、人間は自分の見た目を変えるものなのかもしれない。花火の灯りに浮かぶ旦那の浮気現場。現実を乗り越えることなどとうに諦めて、自分が自分じゃなくなる形になるものかしら。宮沢さんの迫真の演技は必至の逃亡とそれが叶わぬ絶望とが滾っていた。

とにかく、役者陣がすばらしい。

 

ラブシーンの撮り方が下品なのがもったいなかった。

私は小栗旬さんと3人の女優陣のセックスが見たいわけじゃない。太宰が3人を抱く時、また3人が太宰に抱かれる時、それぞれが持つ愛、太宰が3人に愛情を持っていたかは不確かだし、その微妙な違いを出して欲しかった。

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というのが、一太宰ファンの感想でござんした。

 

それから、話題作の「ジョーカー」

存在がないも同然の社会的弱者が街全体を脅かすサイコパスな悪魔になるまでの物語。

個人の精神が歪んでいくことの責任を社会はどこまで負うのだろうか。アーサーが地下鉄でエリート証券マンを銃殺したことをキッカケに勃発する弱者によるピエロのお面のデモがいかにもアメリカらしく、貧富の差が歴然となる。

後半30分、アーサーによる怒涛の殺人。アーサーのアイデンティティーのシンボルとしての母親を殺し、社会的弱者のシンボルとして同僚の道化師を殺し、コメディアンのシンボルとしてのマレーを殺すことは、失うものが何もないジョーカーの誕生を大きく印象つける。

なんせジョーカーの恐ろしさは、自分の死すらも喪失だとして厭わない「失うもののない」存在だということだ。

 

さいご、暴漢たちにパトカーから救われたジョーカーが車の上で踏むステップの軽さは、これから彼が起こす恐ろしいテロ、彼がいうところの「面白いジョーク」に対して軽さが見られる。燃える街をバックに踊る彼は気持ちよさすら伺える。それは街が、社会がやっと彼の存在を認めたのだ。自分の存在を認めるものが自分以外にも生まれたのだ。 自分の存在の認知を枯渇していた彼にしてみれば、どんな形でも構わないのだろう。それがサイコパスを生んだのだ。

 

ホアキンのジョーカーっぷりが素晴らしかった。踏みにじられて当たり前のような存在でも優しく生きようとする人間味が溢れている。その人間味が、冒頭の道化師として仕事中のアーサーが襲われるシーンから奪われていく過程と、奪われていくことへの怒り、やるせなさが表情だけでなく、体から溢れている。それでも、最後、しっかり狂気に満ち溢れている。

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ということでござんした。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

10月期のドラマ〜長くなりそうだから前半だけ〜

 

どうもこんばんは。

 

10月に入り、2019年のテレビドラマも最後のクールが始まる。製作が発表されただけで期待値が上がっていく作品もあれば、一話観て想像以上に面白かった作品まで今クールはなかなかにドラマが面白い。

さて、そんなドラマについてタラタラ書いてみる。

 

時効警察はじめました

前作からなんと12年経っていたらしい。いやいや、12年前の私は、13歳。中学生でこのドラマの魅力に気付いてたなんて、自分で言うのもなんだが、将来有望じゃないか。

で、やっぱり今作も面白い。今、中学生の君、今のうちにこのドラマを面白いと知っておきなさい。この面白さを理解しなくても、これが面白いという概念だと知っておけば、君の将来は安泰だ。

画面に隠されたどうでもいいギャグに気付けば気付くほど、このドラマは面白くなる。定番のような分かりやすいシャレは少ない。笑いたかったら自分から探しに行かないと。

 

何より嬉しいのは、12年も経つのに主要キャストが変わらないことだ。オダギリジョーさんと麻生久美子さんのコンビはもちろん、時効管理課のみなさんも変わらない。そこに刑事部配属の新人役で吉岡里帆さん、鑑識課の期待の新人で又来さん(時効管理課のツッコミ担当)の息子役に磯村勇斗さんが加わるも、あの抜けた空気感は健在。世界観を変えずに、12年ぶりの新シリーズも馬鹿馬鹿しさいっぱいにくだらない1時間を届けてくれそうだ。

 

まだ結婚できない男

こちらもなんと13年ぶりにの続編。第1シリーズは私が小学生の頃の作品だ。夕方、学校から再放送でよくやっていたドラマのような気がする。そんなせいで、記憶に残っているドラマだ。どうでもいいが、新シリーズに際して、過去作を見ようと思っている方は、ぜひ、合わせて関テレ制作の「アットホームダット」も見てみてほしい。専業「主夫」をする阿部寛さんと結婚しない阿部寛さんの交わらない世界線を無理矢理重ねてみるのだ。両作の脚本は尾崎将也さんと同じ人なのが面白い。

 

二話まで観て、桑野信介の余計な一言で変わる空気感が堪らない。そこまで流れていた空気をガラッと変える。その落差に視聴者はクスッとしてしまう。

前回から引き続き登場の塚本高史さん、そして、今回からの吉田羊さんと稲森いずみさん。周りの人たちがしっかりと盛り上げて空気感を作るからこそ、桑野の一言が効いてくる。高齢者社会を意識してか、ちょっと社会派色が滲みつつあるのが、邪魔にならないか、少し不安。まあ、取り越し苦労かな…。

 

俺の話は長い

これは今クールは一番面白いかもしれない。ニートの駄目男を演じる生田斗真さんのなんでか言い返せない屁理屈にグーの音も出ず悔しそうな表情を見せる姉役の小池栄子さんの関係性がいい。その脇を固める義兄役の安田顕さん。これまた凄くいい。台詞の途中で挟む「あー」とか「んー」という悩ましく低い声が、家族の中で肩身の狭い、でも、そんなに憂いていないき気楽さのある役を見事に演じている。なんせキャストがいい。家族の関係性が台詞以外からも溢れてくる。ちゃぶ台に並んでいるだけで、見えてくるパワーバランス。

 

1時間の枠の中で、30分の短編を2本放送するという新たな試み。連ドラでありながら、  全体の大枠のつながりが多少あるものの、各話ごとはオムニバスで独立している。なんだか既視感を思うと、国民的なアニメ、「サザエさん」と「ちびまる子ちゃん」だ。オムニバス形式のホームドラマの代表作品に似ている。

波風立たずに穏やかな、でもほのぼのとはいかない、家族が家族として当たり前のように一つ屋根の下で暮らすことに必要だったことが、軽妙な会話劇の中に垣間見られる。

 

これら以外にも、「ニッポンノワール」「G線上のあなたと私」「同期のサクラ」「死役所」などまだまだ面白いドラマが目白推し。

とか言ってたら、バカリズムさんと平岩紙さんが夫婦役やるって?

 

終わらないから、一旦ここで。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

 

 

 

朝日奈央さんとバカリズムさん 〜9/21 放送テレビ東京「ゴットタン」〜

 

どうもこんにちは。

 

せっかくの休日、と毎度ありがたがる休日は週に2日ちゃんときている。何をそんなにありがたがるのだろうか。

 

早起きして、自転車を走らせ20分。茅ヶ崎と平塚の境目みたいなところにあるスーパー銭湯で温泉にサウナにゆっくりしようと来てみるも、肝心のサウナは扉が壊れて半開き、低い温度のサウナ室にどれだけ篭ろうと、水風呂で整えるまでは吹き上がらない汗。仕方がないので、朝日の気持ちいい露天風呂で落ち着こうと思ったら、近所の小学生なのか、子供8人がプールのように暴れる始末。

ゆっくりもできず、なんだか釈然としないまま、朝風呂帰りにいつも寄る喫茶店に入ると今月末で閉店だと。

こうも出鼻をくじかれ続ける休みもない。鼻の軟骨は粉々になっている。

 

いつも飲むスッキリと酸味の効いたプレス式のモーニングブレンドを飲みながら、読みかけの本の文字を辿ってみるもなかなか頭に入らない。獅子文六の『コーヒーと恋愛』はちょうど可否会の会長が可否道なるものを打ちたてようとコーヒーの飲み方を口やかましくご教授なさる場面。せっかくの休みの日にまったりコーヒーを飲みたい私としては、今、この場面は勘弁願いたい。本を閉じてカバンにしまう。会長さん、またとで伺いますからね。

 

口うるさいコーヒー談義の代わりにTverにて土曜日の「ゴットタン」を観る。

ずっとやってる人気の企画「ストイック暗記王」は、与えられたお題を暗記をしようというタレントと、それを阻止するために劇団ひとりさんが目の前で打つ小芝居の誘惑との攻防を書いたドキュメンタリーだ。ドキュメンタリーは大袈裟かもしれないが、楽屋入り8時間前に演者分の弁当を作るという、何がしたいのか分からない劇団ひとりさんのストイックぶりはドキュメンタリーと呼ぶにあい相応しい。

今だに誘惑に打ち勝てた人はいない。

 

今回の挑戦者は、この番組の代打司会をキッカケに世に出てきた朝日奈央さん。この番組で見つけた「NGなしでなんでもやる」スタンスで方々のバラエティに引っ張りだこだ。

暗記を試みる彼女の目の前で繰り広げられる小芝居は、まさにそんな「NGなしでなんでもやる」スタンスに対する風当たりの強さに吹き飛ばされそうな朝日さんに憧れるアイドルの女の子の話だった。

 

芝居の冒頭から世界観に入り込んだ朝日さんは暗記もそっちのけで目の前の小芝居に、いや、今にも吹き飛ばされそうなアイドル役の女の子にかつての自分を重ねて涙していた。この世界観への没入度の速さ、台本はケラさんかと思う。

 

そして、いよいよアイドル役の女の子がもう自分の足で立ってれらまいと、しゃがみこんだ時、ハーモニーを刻むギターの音がする。しゃがみこんだアイドル役の女の子、そして、涙してそれを見つめる朝日さんの前にはギターを抱えた眉村ちあきさん。彼女もまたこの番組で日の目を浴びたシンガーソングライターだ。彼女の作る朝日さんの歌がいい。

 

「朝日のように輝きたいなら」 歌眉村ちあき

 

「モデルさんになりたい」と夢をみた

彼女は大人に手をひかれ  連れてこられた別の場所

そこはアイドルという少女の戦地

「女の涙は我慢汁」「普通泣いたらやめるけど おれはやめない」

そう言い笑う小さい鬼  知りたくもないバラエティの基礎

目指すべき本当の夢は いつしかゴミ箱の中に

何をしているのかわからないまま 土俵際で戦うアイドルの日々

それでも有名になれば ファッションショーに必ず出れると夢を切り替え

鬼のしごきに耐えるもその場所すら夢と消える

 

何かやれ  何かやれ

あなたの恥ずかしい姿で笑う人がいるならやれ

何かやれ 自分で止めるな

朝日のように輝きたいなら

 

「あんなグループ売れるわけない」「菊地亜美なんて可愛くない」

世の中に自分を認められたくて かつての仲間を傷つけた

「今のお前よくないよ」「そんなやつじゃないよ」と

鬼から言われました

誰より自分を認めてなのは  他でなく自分でした

 

何かやれ  何かやれ

あなたの恥ずかしい姿で笑う人がいるならやれ

何かやれ  自分で止めるな

朝日のように輝きたいなら

 

何でもやる  何でもやる

自分で楽しんでくれる人がいるなら

「あなたのブレイクが嬉しい」と言われて

涙を流すあなた それを見て笑う小さい鬼

 

「普通泣いたらやめるけど  おれはやめない」

 

 

「アイドリング」というグループで鳴かず飛ばずでの活動の日々。他のメンバーのブレイク。

何も思い通りにいかない鬱蒼とした日々だったのかもしれない。

そんな彼女に見守っていた「小さな鬼」ことバカリズムさん。彼は朝日さんに人一倍厳しくバラエティを教え、笑いをとらせた。彼女からの笑いを、成長を貪欲に求めた。

その関係はうも言わさぬ「師弟関係」に違いなかった。

芸人さんに負けない変顔、どんな悪ノリでも応える恥じらいを捨てた姿。それが彼女が師匠バカリズムに対する恩返しだった。そして、それをいつも可愛らしく目を細めた笑顔で笑ってみせるバカリズムさん。

 

この歌にはそんな2人の関係が、そして、それがあったからこそ朝日さんが乗り越えられた戦いの跡がまざまざと記されている。

 

この歌を聞いた朝日さんはもちろん、司会のおぎやはぎ 矢作さん、松丸アナ、劇団ひとりさん、EXIT 

兼近さんまで目に涙を浮かべていた。

「ゴットタン」の出演者は彼女の戦いを見てきたのだから、その涙もひとしおだろう。

 

それにしても、おぎやはぎのお二人も劇団ひとりさんも年を取ったと思う。

こんなことで泣く人達じゃなかった。

 

Tverで来週になったらこれが聴けないと思うと、来週のゴットタンは放送しないくていいとすら思える。

いや、それは佐久間プロデューサーに悪いか。

 

ゴッドタン|民放公式テレビポータル「TVer(ティーバー)」

 

では、ようそうろう、ではなく、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

 

思考をしないこの頃の私

 

どうもこんにちは。

 

突き刺さるような暑さが和らいですっかり夏も大人しくなった。

いま、25歳で、80歳まで生きるとして、私にはもう夏が55回しか来ない。倍以上もあると思えば、多いような気もするが、もう25回も消費したことを思えば、倍以上あるとは言え、55回という数字は少ない気がする。

残りの55回を私はどうやって過ごしているのだろう。

 

秋にかけて、新しい企画を立ち上げようと思っています。

私の周りで面白いことを考える人、興味を持つ人を集めて、共通の作品を鑑賞して、考察して、持ち寄る読書会を開きたいなと。

作品は順番に決めることにして、ジャンル等は問わない。知識をひけらかす会ではないので、何も関連書を読み漁ったりする必要もない。作品を鑑賞すると、言葉にならない感情が胸の中と言わず、身体中にあふれて、言語化するまでまとわりつく。どう消化したらいいものかと、考えるとこれはやっぱり文殊の知恵に頼るしかない。この際、3人と言わず、もっと好奇心に満ち満ちているが寄れば面白かろうと、そんな企画です。

会員の了承が得られれば、録音して書き起こして、ここにあげたり、新しいブログを開設して、会員以外の人でも同じ興味のある人に読んでいただいて、新しい発見や見解があればお聞きしたいなと持っています。

まあ、今のところはまだ私の頭の中にあるだけのことです。この世になんらかの形が与えられなければ、ないのと一緒ですね。

 

下書きの中には今月初めまでやっていたボルタンスキー展を契機に考え出した「不在」という存在についてだったり、塩田千春さんの展覧会のこととか書いてるんですけど、形になりきらない。

つまり、これらもないのと一緒ですね。不在だ。

 

芝居も観に行ったし、映画も観たし、書く題材はいくらもあるんですけどね、いかんせん、思考しない。

思考しなくなった私は働くだけの血肉の塊だ。ゾンビが生産性を得たようなものだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。