本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

雨の中、バスに運ばれ、バスに抜かれ

 

どうもこんばんは。

 

梅雨の合間の晴れ間はとにかくかんかん照り。                                

毎日134号線を自転車で走る私にとって、これはとにかく暑い。

防風林の隙間から吹く風の冷たさが陽射しの熱を受けた皮膚に心地いい。

それでもアスファルトが下から襲ってくる熱には敵わない。

それでも夏が来るというのは毎年のことながら嬉しい。

 

雨の日は靴が濡れるのが嫌なので、ビーサン履いて、電車に乗って職場に向かう。

雨の中をピタピタと歩くのは楽しい。濡れてもいいと思うから、思いっきり歩ける。足元から夏を先取りする。

 

いつだったか先日。駅から我が家に帰ろうと思うも、外は梅雨の中。歩いて帰るのは億劫なので、バスを使うことに。いつもはうちのすぐ先で降ろしてくれる150円の市営バスを使うのだけど、時刻表を見ると後15分来ない。お腹が空いて早く帰りたいのと荷物が重いのとで、15分は待ちたくない。となりの神奈中バスの時刻表には、あと5分で我が家方面のバスが出る。乗ったことがないからどこで停まるかも知らない神奈中バスに乗ってみる。心のなかでは「これも経験だ」なんて都合のいいことを言ってみる。

バスは見慣れた街を、狭い路地をぐんぐん行く。雨の中を割いていく。

バスはここを曲がれば、我が家の近くだと言う角を知らん顔して、まだまだ進む。

バスが走る快活さとは裏腹に、私はイライラが停滞していく。

結局、バスは我が家から相当離れたところで私を放り出す。いつもより30円高い180円の運賃を私から奪って。バスから降りれば当然、雨に降られる。重たい袋が掌に食い込む。

小さい傘の中は私と荷物が我先に濡れんとギュウギュウ詰めになる。

いつもより運賃が高いこと、結局はいつもより歩かなきゃいけないこと、雨脚は強くなる一方なこと、いろんなことでイライラが募る。

「都内にケータリングのため、午後の営業はお休みします」

いつも人が入ってんだか、入ってないんだか分かんないようなお洒落な総菜屋の看板。ケータリングってただの出前だろ、なんて毒づく。都内だったら格上のお洒落だと思ってんだろ、なんて悪態つく。

どれもこれもただの八つ当たり。申し訳ないから、今度何か買ってみよう。

ため息も雨に流れる午後。

なんだか15分ですら待てなかったことを後悔する。そんな私の脇を15分待てば乗れていた市営バスが水しぶきを私にぶつけながら、過ぎ去っていった。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

GAG宮戸さんのおぼつかない司会もまた一興

 

どうもこんばんは。

 

人の幸福にさほどの興味のない私。よっぽど近しい人でなければ、その人のいく末になど興味が持てない。自慢じゃないが、こちとら自分のことで精一杯だ。ましてや、画面の向こう側の芸能人が車の中で不倫していたとか、お笑い芸人が所属事務所から解雇されたなんて、ちっとも心が揺れない。そんなことよりも一昨日が賞味期限の牛乳を飲んでもいいものかしらなんてことの方が死活問題だ。

 

そんな私でも今までに心が揺れて嬉しくなった芸能人の結婚が3つあった。

爆笑問題田中さんの結婚とバナナマン日村さんの結婚とオードリー春日さんの結婚だ。

毎週深夜に2時間、ラジオを聴いているだけで、彼らの小学校の幼馴染になった気がする。その2時間で互いのことをずっと昔から知っている気になる。

そういえば、日大時代の田中さんはずいぶんとイケてるヤツを気取ってたな、なんて懐かしいことのように思い出す。日村さんはスイカはカブトムシの味とか言ってたよな、というのもいい思い出だ。春日さんなんかお母さんにめちゃくちゃドスきかせて「ごっつ、録画しておけよ」って息巻いてたな、なんて懐かしむ。

あたかも、自分の目で見た思い出のような言い方するが、どれもラジオで聞いたエピソードだ。

でも、それだけで彼らをよく知っているような気がする。同級生にも親戚のおじさんにもなったような距離感だ。

そんな彼らが結婚と言ったら、流石の私も嬉しいに決まってる。

 

そして、昨日、これまた嬉しい結婚の話が飛び出してきた。

南海キャンディーズ山里亮太さんと蒼井優さんの結婚だ。

 

毎週水曜日の深夜、ボスこと山里さんは教室の隅で一緒に笑った戦友だ。周りの奴らが、「自分たちだから面白い」みたいなクスリともしない、くだらないことでバカ笑いしている間に、私と山ちゃんだけは本当に面白いもので笑えていた。豊富なワードからチョイスされたユーモアに溢れたツッコミ。山ちゃんは本当に面白いトークの切り返しを教えてくれた。

そんな山ちゃんの結婚にびっくりと祝福と混乱する。相手はあの大女優だ。

「ゆう」って蒼井だよ?手島じゃないんだよ?

 

おめでとうございます、山ちゃん!

あれだけ面白いんだから、VRでAV見てる最中に全裸になって観葉植物いじっちゃっても、蒼井優さんみたいな素晴らしい女優と結婚出来るわな。

 

こんな幸せな奴がテラスハウスリア充に噛み付くのも面白い。「何色の何って?」ハライチ岩井みたいなこと言ってるのも面白い。半裸になって肛門爆破されるのだって面白い。

それに何よりも、南海キャンディーズとして見られる漫才の面白さは変わらない。

怪獣使いのようにしずちゃんを飼いならして、ユーモアに満ちたツッコミをするんだろう。最高じゃないか。それこそが、彼が教室の隅で見教えてくれた本当に面白いものなんだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

最近の刺激〜イキウメ「獣の柱」「東寺ー 空海と仏像曼荼羅」「そうして私たちはプールに金魚を、」「奥田民生になりたいボーイとであった男を全て狂わせるガール」〜

 

どうもこんにちは。

 

初夏の暑さがもうじき梅雨の雨で和らぐ。それが明ければ、いよいよ夏。初夏の暑さなんてものじゃないくらいの暑さが襲ってくる。おかげでコーラが美味しい。

 

ここ一週間は出かけて、外部から刺激を結構受けた。

国立博物館で企画された「東寺ー空海と仏像曼荼羅」は圧巻だった。東寺の講堂に鎮座している21体の仏像のうち、15体も東京に来るというのはびっくりだ。現地よりも各仏像が間近で見られたの何よりだ。

空海が唐から学んだ密教という抽象的で広大すぎる思索を民衆に広めようとするとき、言葉の力が及ばないことを思う空海は、圧巻的な視覚的な力でその爆発的な世界観を表そうとした。その結果が仏像曼荼羅な訳だ。21体の仏像によって体現された精密な密教の世界観は内容はともかく、存在感が圧倒的であることはうかがい知れる。

民衆にとって言葉の外側を伝え広めようとした空海。言葉というのは不自由なものだ。

 

上野から迷路の王国、渋谷を経由して、その足で三軒茶屋へ。シアタートラムでイキウメの「獣の柱」の当日券を求めて、時間まで劇場近くの喫茶店で、書き出した小説を執筆ながら時間を潰す。700円もするコーヒーが値段ほども美味しいくなくがっかりする。香りもなく、重なりのない味。立地代に400円くらい取られたと思って無理やり納得させる。

 

イキウメの芝居には立地代がかからないらしく、額面通り、いや、それ以上の時間を過ごす。

冒頭の独白での「言葉が思考や感覚を閉じ込める」という文言があとあと効いてくる。SFの世界観のなかに絡み合う人間の多角的な側面が浮き彫りになる。

 

幸福とは何か?増えすぎた人間は誤りか?

こんな簡単な言葉にしかできない。もっと複雑にいろんな要素を鑑みて、考えたいと思うほど、言葉に束縛される。冒頭の言葉どおり、「閉じ込められる」のだ。

終盤、言葉を失った兄と妹が再開した時の名前を伝えようとするやり取りは美しかった。

何がどう美しいのは閉じ込めたくないので、無理に言葉にしない。言葉にせずに感覚だけを伝えたい。そんな媒体はないだろうか。ちょっと星新一っぽい。

 

空海とイキウメと、言葉の不自由さに触れた休日だった。

それでも、私はもう少し言葉に頼りたい。言葉の不自由さの中で私の脳みその型抜きに共感してほしい。そんなことを思った久しぶりの田園都市線だった。

 

イキウメ DVD 獣の柱 まとめ*図書館的人生? 前川知大 浜田信也 安井順平 伊勢佳世 盛隆

イキウメ DVD 獣の柱 まとめ*図書館的人生? 前川知大 浜田信也 安井順平 伊勢佳世 盛隆

 

 

また別の休日。

朝、6時前に目が覚めたのでネルドリップで時間をかけてアイスコーヒーを淹れる。それを飲みながら、映画を続けて2本観る。

「そうして、私たちはプールに金魚を、」と「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール」を観る。

どちらも青春色が強いが、方向性が違う。

どんなに足掻いても思春の戦いは終わらない。次第に自分の戦う相手を見失って、大人になる。なんせ相手は幻想だ。それを太宰は「裏切り」と表した。

青春の蜃気楼の中にいると見れなったものを見えてしまうと切ない。

でも、長いこと蜃気楼の中にいる方が人生は豊かだ。しかし、その中は爽やかではないよ。泥臭く、惨めだ。星新一もそう言う。

 

こう言うのを観ると、蜃気楼の中でも、その外でも無いような自分の居場所がわからない。

不安というほども無いが、心持ちが落ち着かない。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

川田拓矢氏の才能への讃美

 

どうもこんにちは。

 

才能を持って生まれてきたかった。心底思う。

自分の中に人にはない美しい感覚が宿っていて、それを端麗に表に表せて、人の心が未だに共鳴したことのない琴線を震わす。芸術の本質そのもの。

そして、何にも執着せず、ただ、心にあるものだけに忠実で、それだけに燃える。それは一個人を破棄して、才能の奴隷と化すことである。主人は世間からの隔離を命ずる。主人は孤独であることを強いる。主人はいわゆる幸福を打ち砕く。

才能に隷属したものは、ただただ才能のためだけに生きる。才能のためだけに生かされる。才能のためだけに生きることを義務付けられる。

 

社会はそうした才能を抹殺せんと隷属したものへの視線は冷たい。社会にとって、才能は恐ろしく、それを悟られまいと才能への隷属をいかに愚かで時代錯誤であるかを説く。才能に時間は関係ない。関係するのはその美しさと忠実さだけである。社会からの冷遇に耐えきれず、決別された才能がいくらあることだろう。

 

時に奴隷は才能のために社会と戦う。才能の本質を見誤る「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」という誤魔化しに、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。」と才能の本質をぶつける。大抵は負ける。

 

そんな時代に奴隷として堂々としている川田拓矢氏の作品は美しい思索が作品の一言一言に満ちていて、ほとばしっている。忠実に表れる才能を火照らす。

 

実は私はあなたの予備校での英語の授業を受講していた者だ。脱線する話にあなたの鋭い感覚とそれを丁寧になぞろうとする謙虚さに惚れ惚れしていた。特に、土曜日の午前中の授業は受験英語なんかほっぽり出して、あなたの話を聞きに行っていたようなものだった。

 

今更、あなたのことを書くのは、久しぶりにあなたの「光輝あまねき」を読み返して、あの頃のあなたの口調が鼓膜をかすめたことが懐かしく思ってしまったからだ。天才とは才能を持ち合わせている人間という短絡的なものではなく、それにひれ伏して謙虚に従う姿勢までもを含めた人間のことだと知ったのは先生のおかげだ。そして、先生はその体現者だ。この時代に愚かしいほどに才能のなされるがままにされる先生の作品はその姿が愚かであるほどに、美しい。

 

冒頭で「才能を持って生まれてきたかった」と言ったが、私にないのは才能ではなく、それに隷属する謙虚さだったのかもしれない。所詮、私も川端側の人間で、先生のようにに太宰の側には行けないのだ。

 

なんのことだかさっぱりな方ばかりでしょう。 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

ハライチ・岩井が面白いのはすごいこと〜悪口、毒舌は難しいver.2〜

 

どうもこんにちは。

 

暑い日が続く。この抵抗の仕様ない暑さに私はキンキンのコーラを飲むことしかできない。とは言え、わずかな抵抗手段があるだけでもせめてもの救いになる。クーラーをつけたら負けだというどこから来るのか不思議な精神のせいで、涼とはいつまでも出会えない。扇風機の生暖かい風が左右に揺れる機微に合わせて私の体をかすめる。

 

本当のことが言えるというのは強いし、面白い。

 

ふとそう思ったのは、ちょっと前にここにも書いた毒舌について考えていたときのこと。

悪口、毒舌は難しい - AM1:00-3:00

ハライチの岩井さんと南海キャンディーズのボスこと山里さん、三四郎の小宮さんがゲストを迎えてひねくれた視点から質問をぶつける番組「ひねくれ3」の中での岩井さんの一言が妙に面白かった。

ゲストで来ていた弁護士がMー1にも出ているというので、ネタVTRを見終えてからの一言。

俺たちにネタを見てもらえるの感謝したほうがいいですよ

たしかに、お笑いに関してズブの素人が滑り倒してるネタを第一線で活躍する3人に御目通りが叶うなんて夢のようなことだ。

ただ、その通りには変わらないのだが、それを本人が言うのか?という疑問が生まれる。

ネタ見せした弁護士やアシスタントの秋元真夏さんがいうのではなく、本人であるお前が言うのか、と思ってしまう。

 

毒舌って突かれたら痛いところを言ってしまうタブーを破るところが面白いのではないか。みんなが触れないでいる本当のことを言ってしまう。ただ、そのタブーを破った時にそれなりの説得力がいる。

 

毎週木曜日深夜にやっているTBSラジオ「ハライチのターン」の岩井さんのフリートークはどれもめちゃくちゃ面白い。その中にも「お前が言うなよ」要素がフリートークを面白くするものがある。

だいぶ初期の頃に本棚が組み立てられなかった話があってそれは確実に岩井さんに落ち度があるのに、家系と商品のせいにして悪態をついて、相方澤部さんに突っ込まれる。お前が言うなよというツッコミはハライチのターンでよく聞くフレーズだ。

この手のトークは岩井さんの説得力のない毒舌はめちゃくちゃ面白い。

 

毒舌にはそれなりの説得力、つまり世間的に地位が保証されていたり、見識があると認められていることが必要なのに岩井さんにはそれがない。でもそれが面白い。

これではわたしが思っていた毒舌の根幹が揺らいでしまう。

 

説得力の代わりに岩井さんにあるのはなんだろう。

トークを聞き返してみると、ツッコまれた岩井さんは澤部さんに堂々と言い返す。なぜか自信がある。その自信が説得力の代わりを果たしているのかもしれない。お前が言うなと言う本当のことを言い切ってしまう説得力の代わりに不思議な自信。毒舌を自信だけで面白くしてしまうハライチ・岩井さんはすごいのかもしれない。

 

毒舌が面白くなるにはこれも一つあるらしい。さらに奥が深くなった毒舌。

 

では、こりゃまた失礼いたしまいた。

「向かいのバズる家族」第8話と昨今諸々

 

どうもこんばんは。

いや、おはよう、なのかな。

 

ここ最近、何があったか思い出してみる。

巷には、政治家の失言や芸能人の恋愛スキャンダル、薬物スキャンダルで溢れている。

もっとも「溢れる」というのが、見えないネットの世界で充満しているこの現象に相応しいのかわからない。どんな器からどんな溶液が溢れているのか。

みんながみんなお互いの揚げ足を取り合って、言葉の誤謬を悪用して、駆け引きとすら呼べないくだらない応酬に躍起になる。あたかもそのやりとりを制する者が、国民の総意になるとまで言いたげに。自分の意見を世間の意見に変えて、相手を言い負かしてデカイ顔することの何処が楽しいのか。どんなに建設的で立派な意見を世間に示したって、それを振りかざして世間の先頭に立とうと思っている時点で、愚かでしかないと思う。

 

そんなことよりも昨晩のドラマ「向かいのバズる家族」の展開の方がよっぽど面白い。

ここまで4人の家族がそれぞれのスマホの中で抱えていた火種が、先週の助走を経て、今週になって大炎上する。そのスピード感と説得力がすごい。役者陣の演技力もさることながら、脚本が素晴しい。

なんせ「家族解散」という強烈なパワーワードを成立させてしまった。親子じゃなくなるでも夫婦じゃなくなるでもない。「家族」でなくなるのだ。4人で暮らす家族が1人と1人と1人と1人になるのだ。これほど重いことはない。

 

解散ってことだから、片付けも一人分でいいわね

直後、母親演じる高岡早紀さんのこの一言が家族解散という想像しづらい状況をわかりやすく明確にする。血のつながりでない、建前でいることをやめれば、家族という関係は解消されている。ごちゃごちゃながながと続かず、たった一言でこのシーンが終わる。無駄のなさ。一瞬で火だるまになった家族会議のシーンに時間を短く切り上げ、主人子が部屋に戻ることで余韻が程よく残る。家族解散という結構な無理難題を切り出しておいて、理想的なまとめ方。

 

今期1、2位を争ういいドラマだ。

その後に、木曜深夜のバラエティ。「勇者ああああ」を観る。

全登場キャラクターのバストサイズが言えるとか、アイス食べながら片手でスマブラしたり、双子の芸人を使ったゲームアプリの紹介を頭を使わずに観る。深夜のくだらなさ。

そんなでも、自分と意見のそぐわない役者を「三流」とこけおろした作家さんの滑稽さよりも面白い。どんなにいい作品書いたってその程度の人間だ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

美味しいが言えない想像力

 

どうもこんばんは。

 

いきなりだが、私は後輩として可愛くないのだろうと思う。

自分でも、後輩と言うよりは先輩気質であるなと思っている。

 

目上の人にご飯をご馳走になる。出てきた料理を一口食べて、「美味しい」と言えば後輩として可愛いものを、素直にそれが言えない。美味しいとも思わないものを美味しなどと嘘は言うまいなんて信念めいたもののために言えないのではない。心から美味しいと思いつつも美味しいと言えないのだ。天邪鬼とも違う。

 

出てきた料理を見ると、頭の中でどんな食材を使い、どんな調理をしているのか観察する。その観察から大体の味が想像できるものである。そしてそれを一口食べると「なるほど、やっぱりこれは美味しい」と感想を漏らす。美味しいが言えるではないかと思う。しかし、先輩が求める美味しいとこれは違う。

つまり、私の美味しいは「納得」の美味しいなのだ。その料理の絶対的な美味しさに言う美味しいではなく、自分の中の想像と相対的に見たときの美味しいなのだ。

一方、先輩が求める美味しいとは、「感動」の美味しいなのだ。純粋に自分がご馳走している料理の美味しさに対して、驚いて感動して、それでもってその先にある美味しいを求められる。

 

同じ美味しいでも、これは違う。

 

それに料理を提供する店側に対しても、「美味しくて当たり前」といういささか偉そうな前提を持っている。身銭を切る切らないに限らず、美味しいものを提供するのは飲食店として当たり前ではないだろうか。その上でのセービスに関して、神様扱いしろとは言わないが、飲食店が美味しもの提供することを求めるのは、傲った姿勢ではないと思う。

閑話休題

つまり、人に連れてきてもらった飲食店で出てきたものなんだから、ある程度は美味しくて当然だと思っている。その前提としてある美味しさに驚きや感動を求められても困る。なんせ、それが前提なんだから。私からは納得の美味しいしか出てこない。

 

これは私の想像力が豊かすぎるのがいけないな、なんて思ってる。見た目からある程度の味を想像できてしまうことが原因なのだ。意外なことから美味しいと想像力の関係性を導き出す。

豊かな想像力も困りものだ、なんて随分と調子にのる。調子に乗りながら、コーラを飲む。これがとんでもなく美味しい。

あれ、おかしい。何万回となくコーラを飲んでいるはずなのに、私は美味しいと驚き感動する。何万回と飲んだコーラの記憶はどこに行ったのか。こうなると、美味しいと記憶も何か言われがありそうだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。