本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

コント集団カジャラ 「怪獣たちの宴」

 

どうもこんばんは。

 

昨晩、世田谷パブリックシアターにて、ラーメンズ小林賢太郎さん率いるコント集団カジャラの第4回公演「怪獣たちの宴」を観てきました。

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ラーメンズ。そして、小林賢太郎さん。彼の創る舞台は常に細かいところまで緻密で、なのに共演者ですら次の瞬間が予想できない大胆なアドリブ。その両極端でバランスよく笑わされる大好きなパフォーマーだ。芸人でもあるが、劇作家でもあり、コント師でもある。肩書きは「パフォーマー」としか言いようがない。どこから湧いてくるのか不思議なアイディアがなんとも言えない魅力だ。観客が劇場に入ってから会場を後にするまでほんのちょとした瞬間も気を抜かずに楽しませてくれる。

 

昨日の舞台もそうだ。開演前の会場マナーの注意ですら、黒子の登場で一つのパフォーマンスとして楽しませてくれる。各コントの幕間の転換だって退屈させない。薄暗い明りの中で役者がパフォーマンスをして楽しませてくれる。コントが始まってからも、セリフのタイミング、顔を動かすちょっとしたタイミング、そんな細かいところまで創り込まれているコントからなだぎ武さんがなんとか会場を、いや、観客よりも小林賢太郎さん他共演者を笑してやろうというアドリブ。それを返す小林さん。その応酬がとてつもなく楽しい。

 

私が特に好きだったのは、辻本耕志さんが学校から撤去された二宮金次郎に扮するコントだ。

小林賢太郎さんのコント自体、コントという形はとってはいるものの明確に「ボケ」と「ツッコミ」が分かれていないものが多い。とは言っても、小林賢太郎さんと辻本さんはどちらかといえば「ツッコミ」に近い立場をとることが多い。お笑いで典型的なツッコミというよりは、コントの中での状況から一歩引いた視点で発言をするという意味でのツッコミだ。そんな役を演じることが多い役者さんだが、そんな辻本さんが教室に座る担任役の竹井さんと副担任役の加藤さんには見えないという設定で好き勝手やる。見えない設定だから、竹井さんと加藤さんは笑わない。これをなんとか笑わそうとする辻本さん。観客はずっと笑っている。いよいよ堪え切れなくなった加藤さんが吹き出すと、観客と辻本さんが変な一体感と達成感に包まれる。観客も2人が笑うのを待っていたのだ。

 

往年のラーメンズのネタ「たかしとお父さん」を彷彿とする。

ラーメンズ「タカシと父さん」非分割 - YouTube

片桐仁さんがなんとか小林賢太郎さんを笑わそうとする。笑うまいと堪える小林賢太郎さん。2人の関係性が織りなす大爆笑のコントだ。

こんなのはラーメンズの2人でないと2度と観れないと思ってた。それが、昨日、辻本さんの奔放さによって復活した。感動すらした。おっもしろいコントだった。

 

6人が小さいテーブルに集ってビールを煽っている。一人一人が少年時代の思い出を語る。夏祭りで彼女を連れたヨーヨーが上手い担任の先生。酔っ払って子供にカマキリを配るオジサン。学校の宿泊学習で見つけた全裸の知らない2人。出会ったこともない新しい文化を教えてくれる近所のニートのお兄さんなど、誰の記憶にもいそうでいない、でも、なんとなく分かる思い出を語っていく。そして、誰の記憶にも共通するのが、「アイツ」の存在だ。誰もはっきりと語らない「アイツ」。「アイツ」と被せて聞こえる怪獣の鳴き声。最後は6人で怪獣で収めにいく。 大人になった少年たち。どことなく切なさが漂うコント。

 

井上ひさしさんの「國語元年」を思わせるような地方ルールを統一しようとするボール遊び。地球上の遠心力と重力を変にロジカルな会話で笑わすコント。なだぎ武さんのアメリカ人のキャラに乗っかりふざけ倒す小林賢太郎さん。どれも面白かった。2時間、ずっと笑っていた。

フランスの哲学者ベルクソンは「笑い」を分析し、種類を分類分けしているが、この笑いはどれにも当てはまらない。分析しきれない新しい笑いだ。なんせポセイ笑いなのだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

芥川賞の受賞作 読了ノート

 

どうもこんにちは。

 

そういえば、ちょっと前に芥川賞作品を読み終えたところでした。

第160回芥川賞受賞 ニムロッド」と「第160回芥川賞受賞 1R1分34秒」の2作。

 

読了後の私の手帳にはこうある。

限りなく高い塔に集められた駄目な飛行機。与えられた価値によって意味を有する架空のビットコインを掘る。登りつめた先には一つになった全知全能の新たな形の人類。果てない現代人の欲を克明によく描きだされているいる。

ところどころ、文章をぼんやりさせる表現が物語全体の輪郭を曖昧にさせるが、ブレないいい文章。

情熱に燃えてるようで、燃えていない文体。それが冷たく苦しむボクサーの様。型にはまったボクサー地獄だ。その型からの脱出を図ろうとする無理も見られる。

ヘーゲル(註 この記事のために調べ直したら、当時の私はヴィトゲンシュタインのことを言っているらしい)の「総体」のように、「いない私」とのパラレルな距離で現れる主人公。その橋渡しをするウメキチは何のメタファーか?

 

まあ、公表する予定のない私的なメモとはいえ、言いたい放題だ。今また、文藝春秋の3月号に掲載の選評を読み返して、私に無理があると思っていところや、違和感があったところが評価されていたりもするから、わたしには見る目がないのかもしれない。

しかし、どちらも面白くて夢中でページをめくっていた。展開が気になるのではない。登場人物たちがとても魅力で読み進める度、ページをめくるたびに彼らとの距離が縮まるような感じがするからだ。

 

上田岳弘さんに関しては、昔たまたま手に取った「私の恋人」という作品がとても面白かったのを思い出した。この夏に渡辺えりさんの手によって芝居になるらしい。あの時と作風が大きく違うものだから、驚いた。言われてみると、作者と登場人物の距離感に名残を感じる。

町屋作品はお初にお目にかかる。いい熱量で書かれた文章で好きだった。ボクシングのことは全然通じない私が、これだけ調べ上げられた文章に置いていかれなかった。面白い。

 

読書の最大の楽しみは読みかえせることだ。今はこんな乏しい感想でも、しばらくしてから読み返せば違うものが見えてくるかもしれない。その時に面白いものを見つけたら、またご報告差し上げます。

 

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

 
第160回芥川賞受賞 1R1分34秒

第160回芥川賞受賞 1R1分34秒

 

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

相模から湘南ナンバーへ

 

どうもこんばんは。

 

いきなり関係ないことだけど、常識はずれなことを「でいいの」という語尾で言い切ると、たちまち欽ちゃんっぽくなって説得力が増す。

歯磨きはリンゴ酢でするといいの。

バスはお金払わなくてもいいの。

金太郎は鉞じゃなくて三線を持つのがいいの。

どれもデタラメだ。でも、なんかその裏がありそうな気がする。

 

…そんなこともないか。

 

それでいうと同じようなものに、辻褄が合わないことでも、「まだない」で言い切ってしまえば文豪さながらの説得力がある。

車を買った。免許はまだない。

UFOに乗った。宇宙人はまだ見てない。

アメリカに来た。パスポートはまだない。

これはどうだろうか。

 

ちなみに、一番上の車のくだりは私自身のことだ。

免許は持っていないのに、友人から中古の軽を買ってしまった。免許は今後とる。

ここ、5年くらいずっと免許を取ろうと教習所を検索したりはするもの何だかんだ取らずじまいで過ごしてしまった。そうだ、車を買ってしまえば免許を取らずにはいられまい、ということで免許もないのに車を買った。

 

それでも って、今日は平塚の車検場まで来て、名義変更を済ませる。4月の1日までにこれを済ませないと、税金の請求が旧所有者の友人元に行ってしまうので、人様に迷惑をかけないためにも火急の用事だった。

 

年度末のせいかたった4つの窓口に大勢の人が集まる。書類を提出してから、事務員さんが確認して、パソコンで処理して、また呼ばれる。スマホと整理番号とを交互に見ながら、多くの人が自分の番号を呼ばれるのを待っている。事務員さんが番号を呼ぶ声がスマホを眺めて俯いている人たちの目線を一気に集める。自分でないことに気づいたほとんどの人たちがまたスマホに視線を戻す。なんだか同じ動きが同じタイミングで可笑しい。

みんなが無自覚でいるからなおのことだ。

そんな中、私は1人は本を読んでいる。とても場違いでこれも可笑しい。本に夢中の私は顔をあげるタイミングが他の人たちよりも遅れる。

 

車の名義変更なんて人生で初めてのことで、手続きの手順もとんと見当がつかない。一応ネットで調べて、必要なものを揃えて準備してみるも、やはり、実際に足を運んで書類を書いてみると、書き損じを事務員さんに指摘される。

今度は完璧に出来るように、なんて思ってもおそらくこんな機会はもう訪れない。人生の中で一生に一度のイベントが終わってしまった、と思うと切なくなるのはかなり大げさに言ってのこと。

 

さて、これから免許を取る。申し込みはまだしてない。

 

では、こらまた失礼いたしました。

 

 

さながら救命病棟24時

 

どうもおはようございます。

 

昨晩、仕事中に不注意から右目に原液の漂白剤をそこそこの量を浴びてしまった。

一瞬、右目が熱くなり、びっくりする。急いで、水道水で洗い流すものの20分経っても痛みはいっこうに引く気配がない。蛇口のホースを伸ばして、逆さにして、直接目に水を当てる。無理やり指で目を開いて水を当てる。

 

上司の車に乗せてもらい夜間の救急診療をしている病院に行く。

24時に救急の病院なんか滅多に行かないから、大したことないのにとんでもない怪我をしたような緊迫感を錯覚する。ましてや待合室で待っていると、隣の部屋からは医療ドラマで馴染みのピーピーという機械音とバイタルいくつ、なんていうセリフが聞こえてくるもんだから、ますます自分が重傷でいよいよ失明するのも時間の問題なくらいの急患になったつもりでいる私。

 

名前が呼ばれ、先生の元へ。

ペンライトで右目をみた後、ベットに寝っ転がることを促される。私の心持ちとしては、落語の「犬の目」よろしく、これから私の眼球を取り除いて視神経を繋ぎ直す難しい緊急オペなんじゃないかと一人、ドキドキする。

 

ベットに横になって、目を瞑っていると、カラカラとキャスターを引いてくる音。なんだか顔にテープで何かを止められる。着ている洋服の襟元になんだかビニールのような紙のようなものを巻き付かれる。洋服が血で汚れないような配慮だろうか。目を開けると、ベットの脇には点滴で使うやくひんを吊るす器具が。これがさっきのキャスター音の正体らしい。点眼薬状の麻酔薬を打つ。こりゃ、いよいよ覚悟しなくては。

 

「じゃあ、目を洗浄していきますね」

私は一瞬ひるんでしまう。あれ、それはお店で散々してきたぞ。

 

よく見てみると、点滴器具に吊るされた薬品の袋に繋がった管は私の顔を張って右目まで降りてきている。その管の先がちょうど右目で固定されている。これがさっき貼られた顔のテープの正体らしい。

点滴袋の栓を開くと、管の中を消毒用の液体が流れて、固定された右目に流れくる。右目から溢れた液体はそのまま顔をつたって首元に流れてくる。カバーされた洋服は血ではなく、右目からだだ流れる消毒用の液体から守るためだったのか。

 

言われるがままに1時間半右目に液体をこぼし続ける。途中睡魔で目を閉じかける。目を閉じると液体は首元に直行する。これではなんの意味もない。そう言えば、シャツの襟はぐっしょり濡れている。カバーになんの意味もないじゃないか。気付いたら、先生がいない。

 

点滴袋が空になる頃、先生が戻ってきて、検査薬を点眼して待合室に帰される。

さっきここにいた時の緊迫感を息巻いた時の緊張感はない。緊急オペはおろか、洗眼して終わりだなんて。

受付で呼ばれて、9600円請求される。

財布の中には5千円しかないので、仕方なく、病院内のコンビニATMでおろしてくる。

 

緊急なのは右目の処置ではない。これからこの財布の寂しさで終電の終わった街を行かなくてはならないことだ。処方された点眼薬を持って。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

ラジコフェスで再認識したリスナーとパーソナリティの繋がり 〜TBSラジオとピエール瀧と〜

 

どうもこんにちは。

 

最近気づいた。このブログ、書く時間がないのでは無い。書こうと思った内容を深める思考の時間がないのだ。考える時間というのは書くよりも数倍の時間を要する。

 

12時45分ごろTBSラジオの「ジェーン・スー生活は踊る」を聴きながら茅ヶ崎から江ノ島を目指して出勤する。箱根駅伝でよく見る浜須賀のY字路に差しかりそうな55分頃にスタジオの仕切りカーテンが開いて13時からの「たまむすび」のパーソナリティが現れる。スーさんと赤江さんたちのたわいもないやり取りの後、時報に続いて「たまむすび」が始まる。

 

毎週木曜日。赤江さんとピエール瀧さんのくだらない会話。職場に着くまでのオープニングトーク、20分だけで、これから仕事だという憂鬱さを一時忘れさせてくれるには十分だった。自他共に認めるポンコツ振りの赤江さん。それをツッコむ瀧さん。その応酬には愛があった。そして、たまむすびリスナー達はその愛を感じる時間が好きだった。

 

それでも、もういつもの木曜日は帰ってこない。

ショックだった。先週の水曜日、いつも笑い声しか聞こえてこないはずのイヤホンから聞こえるのは「夢であってほしい」と溢れる涙に声を詰まらせる今まで聞いたことのない、たまむすびらしからぬ赤江さんの声だった。そっとフォローするようにファックスの宛先を代読する大吉さん。リスナーとして、どういう心持ちでいることが正解なのかわからないまま職場の更衣室でradikoのアプリを切った。「どうして?」というやり場のない、咀嚼も消化も出来ない思いは赤江さんもリスナーもきっと一緒だった。共有してきた笑いが深いほど、皮肉にもこんな理不尽に対する切なさの共有も深かった。

 

1週間後の一昨日。

昼間の3時間以上の時間を爆笑問題がジャックして、ラジオでフェスをした。

番組序盤で登場したのは前番組「伊集院光とラジオと」を担当の伊集院光さん。

太田さん「伊集院、ピエール瀧にコカイン渡してたんだってな」

伊集院さん「うん、正確には売ってたのな」

登場早々こんな会話をする。「PLTK」と瀧さんを頭文字で呼ぶ。そのあと、赤江さんが登場してからも瀧さんをいじることをやめない。赤江さんも躊躇なく太田さんの振りに応える。

 

そのやり取りには愛があった。毎週木曜日に国道134号線を自転車で行きながら聞いていたあの愛が。伊集院さんからも太田さんからも田中さんからももちろん、赤江さんからも。木曜日のやりとりが大好きだったリスナーと同じように、TBSラジオパーソナリティたちもピエール瀧さんが大好きだった。こんなことで再認識したのは悲しいが、リスナーとパーソナリティは言葉を超えたところで繋がっていた。その繋がりこそがテレビでなく、ラジオを聞く醍醐味なのだ。

その繋がりを実感するほど、「どうして?」が膨らむ。リスナーは瀧さんとだけ繋がれていなかったのだろうか。

 

TBSラジオの皆さんは腫れるものに触れないようにすることはいくらも出来たのだ。逮捕直後だけ触れて、そのあと何もなかったようにしたってよかった。瀧さんの逮捕に触れるたびにパーソナリティとリスナーは当たり前に悲しくなる。

でも、どの番組でも瀧さんについて、薬物について話題にする。そして、悲しくなると分かっていながらも我々リスナーもそれを望む。

そこには、これから先も愉快なTBSラジオのパーソナリティとしての瀧さんとの繋がりを維持しようとする足掻きがあるのかもしれない。そのラブコールの存在が私たちと「『たまむすび』木曜パートナー」ピエール瀧との繋がりを証明する。犯罪者となった人に送るにはあまりにも似つかわしいくないラブコールだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

京葉線の車窓から未来像

 

どうもこんにちは。

 

休みの日を使って、幕張メッセで開催中のイベントへ。全国の生産者が集まる飲食業界人に向けたもの。こんなににわか料理人をやっていても、こういうことに読書時間を潰してでも足を運ぶのはどういうことか。仕事な一面も当然あるが、それ以上に普段行かない場所に出向いて、知らない世界に顔をのぞかせることに対する好奇心が強い。

 

茅ヶ崎から海浜幕張に向かおうと思うと、東海道線で東京まで出て、京葉線に乗り換える。平日の9時台という通勤サラリーマンに圧迫される時間。ストレスが限界を迎えようとする頃、車窓から見えるシンデレラ城に全く心が踊らない。そんなものよりも首都高の羽田線に規則正しく列ぶ、規則正しくない大きさの車の渋滞を横目に列車が駆け抜けることに気持ちを落ち着けている。少し考えれば、道路の広さに対する車の数よりも車両の面積に対する乗客の方が面積比率的に圧倒的に狭い。

 

目的を持って旅をする充実感に浸る一方で、内田百間老師のように目的のない旅をすることがどこか無駄なような気がしてしまう、この余裕のなさが情けない。本当は旅をすることに目的を求めるということ自体が無駄なのに。

 

幕張メッセを目一杯に使ったブースには日本はおろか、世界中から日本の食産業の隙間を狙って、所狭しとひしめき合っている。取引先をぐるっと回って挨拶して、お店とは関係ないコーヒーブースを覗いて、やっぱり将来、自分がやるなら喫茶店だななんて思いながら、帰りの京葉線に向かう。

 

壁一面には、ずっしりと列ぶ本。反対の壁にはぎっしりと列ぶジャズのレコード。カウンターの奥には自分で焙煎した豆。そこで、お客さんと話しをしながら、その時のその人に合った一冊を紹介する。そんなっことがやりたい。普段を本を読まない人へ読書の入り口として、読書家の新しい本棚への一冊として、私の琴線を揺らした一冊をその人の気持ちに寄り添える時に贈りたい。そこに美味しいコーヒーがあれば最高でないか。そこに伝説たちのジャズがあれば最高ではないか。そんなことをやりたいと思った。

 

初めて将来自分がやりたい店を文字に起こしたな。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

「ちんちん」が言えない世界

 

どうもおはようございます。

 

なかなか、「おはようございます」で始まることは少なかったですね。

 

で、おはようござますなんて挨拶しておいてなんですが、昨晩1時から放送のTBSラジオ爆笑問題カーボーイ」での太田さんの発言がひょんな本質を突いて、ちょっと考えてみた。

ちんちんが言えない世界に俺は住めないよ

 

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昨晩は大きな声では言えない下ネタ回で、シンガーソングライターのIKURAちゃんをゲストに迎えてリスナーから下ネタの格言を募集するもの。こういう回だから、オープニングトークもそういうトークになる。

その中で、2年前に初めてIKURAちゃんが登場した頃よりも下ネタに対する世間の風当たりの強さを嘆いた発言。

 

これといった明確かつ本質的な意味もないのに、なぜか全体主義的な批判を始める世間。そのくせ、オリンピックみたいな聞こえのいい偽善めいたものにはすぐ飛びついて、持ち上げる。その空気感が私は大嫌い。そして、太田さんにもその節があるようで、とても共感出来る発言だった。

 

これで思い出したのは、ずいぶん昔の「世にも奇妙な物語」の一作。

世にも奇妙な物語 《最後の喫煙者》 - YouTube

禁煙の風潮が世の中に大きくはびこる日本。もう禁煙の本質的な意義を失い、世間の空気に流されて喫煙家を狩り出す国民。まさに意味もなく、ただただ嫌煙が正義の気持ち悪い国。いよいよ日本には愛煙家の流行作家がただ1人残るのみになった。そんな彼は日本中から追われる身となる。

というあらましのもの。タバコも吸えな世界に主人公は住めなかったわけだ。

 

下ネタがどうとかタバコがどうとかではない。世間の風向きの煽り方の気持ち悪さを言いたいのだ。世論なんて実態の見えない霧に隠れて、自分で思考することを放棄する人間。そういう人間がいかにも自分の考えのように他人の言葉を振りかざす。そんなことができる人間は、耳障りのいい、いかにも正義らしい虚無を広める拡声器と成り下がることになんの抵抗もない。そして、考えることを放棄した人間にこそ、それは惹句と聞こえ、新たな拡声器を造りだす。

 

少なくても私はそんなガラクタにはなりたくない。物事の本質を自分で考える。

そして、思索の結果が世の中に逆らっていても、自信を持って生きていきたい。

 

生きるって大変。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。