いい街です
どうもこんにちは。
茅ヶ崎に越してきてもうじき一年。
いい街です。それだけを言いたくてした更新ですが、流石にそんな身もふたもない内容じゃ、時間を割いてくださる皆さんに失礼なので、もう少し何か考えます。
仕事帰りに茅ヶ崎の一歩手前で途中下車して、大きなショッピングモールに行くことがしばしば。
私が高校生くらいの時に出来たモールは私の地元で言えば、町田と海老名と相模大野を一緒くたにしたような感じ。それだけなんでも揃ってるってこと。
でも、何回か通うと足を運ぶお店は限られてきて、いつの間にか、乗るエスカレーターから通るコース、各お店の滞在時間、休憩で入るサンマルクでオーダーするものまで決まってきてしまう。
こうなると、このモールに立ち寄る面白みがなくなってしまう。
それだったら、茅ヶ崎の駅ビルでもいいじゃないかとなる。
じゃあ、行ったことないテナントに入ってみよう。
と、いつも入るテナントの隣にある初めて入るようなインテリアショップ、雑貨屋に入ってみると、なんだか落ち着かない。
そんな事ないんだろうけど、店員さんの目が「今まで顔を出さないくせに、よくのうのうと今更来たね」って物語ってるようで居心地が悪い。
仕方ないから早足でぐるっと回っていつもの隣に入る。安心感。店員さんの目が「おかえりなさい」と言っている。安堵感。やっぱりここだ、と落ち着く。いつも通りのレイアウトですね。いつも買おうか迷ういい器。でも、今日はいいかなと買うのを見送る。これもお決まりのコースのうち。
ここにいてばかりもいられず、意を決してさっきとは反対のテナントに。
ああ、ここも2軒隣と同じ視線を向けてくるのか。
ん?なんか違う気がする。さっきから私に刺さっているのは店員さんの視線だろうか。
いや、店員さんは口角が上がって、目尻が少し下がったお手本通りの笑顔だぞ。
そうか、私に刺さるの店員さんの視線でなく、いつものお隣より0が一個増えた値札だったのか。
たしかに、こんな金額、今の私には出せないな。
というわけで、私の趣味と財力で作られたコースはもう少し変わりそうもないんです。
では、こりゃまた失礼いたしました。
夏日、真夏日、猛暑日に新定義
どうもこんにちは。
暑い日が続く今日この頃ですね。もうこの季節かと一年の早さを感じちゃう。大晦日も今年も早かったなと、思うけど、それ以上に夏の方が繰り返されてる感じがする。
気象庁によると、夏日ってのは「25℃以上の日」、真夏日ってのは「30℃以上の日」、猛暑日っていうと「35℃以上の日」ってことになるらしい。
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq3.htmlより
まあわからなくはないけど、面白くもない。
そこで私だったらどう定義するか考えてみた。
夏日は「外で、出来れば海でコーラが飲みたくなる日」、真夏日は「『波乗りジョニー』が聞きながら自転車で走り出したくなる日」、猛暑日は「海で『波乗りジョニー』が聞きながら、コーラ飲みたくなる日」
どうでしょう。
うん、とても私らしい。
でも、コーラってのはたまにサイダーだったりカルピスだったり。『波乗りジョニー』は『め組のひと』や『夏の日の1993』になったり。
定義って言ってるのにあやふやだとダメかしら…。
これくらい自由でもいいじゃないか。何もガチガチに数字で決めるこたぁないじゃないか。
なんせ夏だもの、これくらいの緩さがいいじゃない。
勝手なもんですね。
と、これ書きながら『みんなのうた』聞きながら、思いましたよ。
では、こりゃまた失礼いたしました。
現代アートに向いた牙が突き刺さる 〜のん「女の子は牙をむく」〜
どうもこんちは。
一昨日は結構な雨の中、渋谷に行って来ました。
お目当は「創作あーちすと」のんさんの個展「女の子は牙をむく」でした。
まあ、渋谷の人の多さはびっくりだね。
一年前に茅ヶ崎に出て来るまでは都内をメインに行動してたので、それが当たり前だと思っていたけど、いったん離れてみると、なんで自分があんなところにいれたのか、歩く導線を自然と見つけていたことに驚く。
さて、ロフトの辺りを彷徨いながら、フラフラしながら坂の途中になんとか見つけた「GALLERY X BY PARCO」へ。
早速、中に入っておみくじ付き入場券を買う。裏のおみくじにはこんなことが。
牙凶
身から出た牙に気をつけよ
うーん、特に上手いことを言おうとしているようではないけど、諺に掛けてみようという意図だけが感じ取れるなんとも言えないお言葉。
中はそんなに広くないものの四方はもちろん、床や天井までのんさんの作品で埋め尽くされていた。
思っていたよりも分かりやすい絵が多く、モチーフが感じやすいものが多かったのは、ちょっと驚きました。
のんさんの絵を中心に、天井には彼女のデザインのワンピース。床には「止まれない」と記された横断歩道を模した作品。
カラフルでモフモフのハムスター。
とにかく、「女の子」と「牙」をモチーフに何かを表現しようという意欲はすごく感じました。そのエネルギーのようなものは会場中に溢れていて、作品に迸り、流れて、作品とその間の空間を繋げていたように思います。
つまり、個々の作品を鑑賞するのと、同時に、あのハコの空間そのものを一つの作品のように感じることで違う印象を感じ取れたのです。
現代アートについて考えるとき、私は、作品そのものよりもそれが置かれる、展示される空間の方が大切なのではないかと考えています。
人によっては、現代アートの役割を作品が与えるファーストインプレッションにのみ重きをおく考え方の人もいます。マンネリし、行き詰まった芸術界に新しい風を吹き込めば役割は終わりだという考えです。
しかし、それに反発する考え方を、何年か前に森ビルでアンディ・ウォーホールの展覧会を観に行った時に感じた図説で見ていたのでは感じなかった印象を抱いた時に持つようになりました。それは写真と実物という物質的な関係性を超えて、衝撃的なものでした。
絵だけでなく、立体物も含め、アートの定義の終わりのない裾野の拡大を感じたんです。
それをのんさんの個展でも感じました。
特に、個々の作品単体よりも空間的な意味を強く感じたのは、抽象的で捉えどころのない立体物の作品を実際にのんさんが身につけ、映像として残すことで、作品の捨象されたものを丁寧に拾い上げ、具現化した映像を見た時です。
会場の一番奥のモニターには、今さっきその目で見てきた作品を実際に身につけているのんさんが映し出せれています。その映像を見てから、作品の実物に戻ると、のんさんが身につけていた時のイメージが隣の作品と重なり、物理的な作品間の空間にも繋がり生まれます。
個々の作品の印象よりも、複数のそれらがある、空間に創作あーちすととしてのんさんの弾けっぷりが伝わって来るんです。
女の子が内包する牙をその可愛さをもって十二分に表現していたのんさん。
その「牙」は何かを意味する記号なのか、それはどこに向いているのか。
個々の作品からの自由奔放さ、そして、それらをくくった空間が持つ衝撃。
とても面白い空間でした。
ではこりゃまた失礼いたしました。
五月だからって、なんでもない
どうもこんにちは。
よく季節の分からない時分だ。
5月ってこんなに夏らしい季節だっけか?もっとこう、爽やかさとか爽快感がみなぎらなかったっけか?
でも、GWって毎年同じことを思う気がする。毎年、このじっとりとした夏の気候に首を傾げている。今とおんなじポーズを去年もしていた。
何周巡っても同じことを繰り返すのが季節なんだろうね。今年も無事に去年と変わりばえのないGWがやって来ましたと。
先だって誕生日でもって24歳になりました。ここまでくれば、誕生日だっていつもどおり4時半には起きて、5時23分の電車に乗り、6時には働き始める。帰りに江ノ電の駅近くでブリュレのクレープ食べて、素人の写真展をふらっと見て帰宅。何でもない1日だ。
誕生日が特別でなくなるくらいには大人になったんだ。そういうことにしておけば、ちょっと喜ばしいのではなかろうか。
SNSで私のページを開くと派手に風船がうちあがって、私の誕生日を世界中に知らせる。そんなことしないでよと、ちょっと恥ずかしく思う。誕生日が特別でなくなるくらいに大人になったんだから、特別扱いしないでよって気になる。
こうなったら、SNSの誕生日を毎日更新して、毎日風船を打ち上げてやろう。
なんせ誕生日は特別でないんだ。だったら、誕生日が毎日でも特別なことじゃあるまい。はて、こんな発想本当に大人かしら。
歌手でも作家でも私はとんでもなく素晴らしいと思っているのに、全然世に出て来ない人もいる。不思議だ。私が世間の集合体になれたら、きっと彼ら彼女らは偉大なアーティストなのに。
歌手で言えば、CAMARUさん。
体に染み込んでくるヴォーカルは耳を、鼓膜を通していないんじゃないかと思う。でも、力強く、芯がある。私の大好きなヴォーカリストの一人。
なかでも一番好きな曲はオリジナル曲の「シリウス」
あれ、今夏か。シリウスって冬の星だっけ?
でも、夏とか冬とか関係ないよね?
だって大瀧詠一さんは森進一さんに書いた「冬のリヴィエラ」をさ、英訳して「夏のリヴィエラ」って歌ってんだから。
あ、そういう話じゃないか。
今日はアラカルトで三話題ね。
伏線張ったわけじゃないから、ラーメンズや東京03、バナナマンみたいに最後に回収みたいのはございませんよ。タイトルにも。
皐月だ。始まったばかりの2018年の折り返しがもうすぐそこまで。
では、こりゃまた失礼いたしました。
『夏の入り口、模様の出口』 川上未映子
どうもこんにちは。
昨晩からの雨が上がって空はすっかり夏模様。夏の入り口のような空。心地いい。
特に雨上がりというのがいい。同じ晴れでも雨上がりだとその爽快感もひとしおだ。スイカの食塩。ケーキのコーヒー。夏の晴天に雨。そういうことかな。
普段はそのこれでもかって照りつけてくる日差しがかったるいのに、こういう日の日差しはなんでも許してちゃう。私が漕ぐ自転車を逆風で逆らう強い風も心地いいくらいだね。
そんな日に読んだのが、川上未映子さんの「夏の入り口、模様の出口」というエッセイ集。
私が川上さんの文章に出会ったのは芥川賞受賞作の「乳と卵(らん) (文春文庫)」という作品。
これが実のところ、まるでわたしには分からなかった。異性間の違いなのか、丸っきりの考え方が違うのか。
それでいつかの春休み、確か芥川賞、直木賞が150回の記念でもって、丸の内で芥川賞受賞作家のトークショーにで川上さんが人間の善悪について語ってるときに、わたしとは全然違う考え方をした人だなと思った。それ以来、どこか川上さんの作品とは疎遠になっていたのだけど、久しぶりにこれは読まなきゃと思ったのは「すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫)」という長編のラブストーリー。
鋭くて繊細で、ちょと難しいんだけど、頭に入った時の心地よさが癖になる文章。そして、人が人に恋をするという誰でも経験する当たり前のことで、なんら特別でないのに、面白いくらい人によって形が違う、でも、どこか根幹にある通奏低音が書かれた素敵な作品でした。
それ以来、川上作品に手を伸ばすようになったの。
そして、見つけたのがこれ。
やっぱり私と川上さんは考え方が合わないようだ。というよりも、ものの見方が違うようだ。
それでも、文章に引きつけられて、グイグイ読み進んだ。自分と全く違う考え方ってのはいい刺激になる。斜めに見ちゃったり、真正面からぶつかったり。でも、それは決して否定ではないんですよ。川上さんの考え方を受け入れてるんです。んんっ?ってちょっと考え込んでみたり、自分に全然ない感じ方にうなづいてみたり。
小説は作家さんの書いたものをまず読者が全面的に受け入れることが必要だと思ってます。それは思索してものを書いている作家さんに対する最低限の礼儀みたいなものです。作品は作家さんの思索の形が克明に彫られたもので、それを産むのには相当な体力も精神も費やしているのだから、こちらの読者も何を形にしたのか読むことが当たり前だと思ってます。勝手に彫られた形を変えてはいけないんです。その上で、作家さんとは違う感じ方、考え方を形にするのが感想です。
随筆はその点がもう少し緩くていいのかなと考えています。なにも、手を抜いて書かれてるとは思いませんが、小説と比べて手軽感を感じています。怒られるかな、これ。
まあとにかく、ボーッと文章を流して、あーだな、こーだなと、勝手に思うのがいい読み方だと思います。
みなさんが川上さんと考え方が合おうと合うまいと、ちょっと小難しい文章が心地よいと思います。
本格的な夏のじめりに何をやるにも億劫になる前に、まずは頭をスッキリさせてから、初夏に臨みませんか?
では、こりゃまた失礼いたしました。
轍の茅ヶ崎、王子様の相模大野
どうもこんばんは。
昨日は母校の高校の吹奏楽部の定期演奏会で久しぶりの地元相模大野に。
厳密に言うと、私の実家の最寄りは小田急相模原駅なんで一つ隣なんだけど、よく自転車で遊びに行ってたから、まあ、地元と言って問題はないでしょうね。
相模大野はずいぶん久しぶりだけど、改札を抜けて、ホールに向かうエスカレーターの右手側から単調な3拍子で「いつか王子様が」が聞こえてくると、ああ、大野に帰って来たなと、思う。ビル・エヴェンスで聞いても込み上げない帰郷感が、たかだか3声くらいの機械音からだとズンと込み上げてくる。
エスカレーターを下ってホールに向かう途中には、2年くらいバイトしたドトールがあったり、その昔高嶋弟が撮影に来たんだとかって言う伊勢丹があったり、でも、所々に知らない見たこともないラーメン屋が出来ていたりすると、そこに元は何があったか考え込んでしまう。その時間の長さだけ相模大野の懐かしさが深い。
演奏会のあとは高校時代の同期たちと集まるのがお決まりになっている。
高校の時の、特に吹奏楽部の同期たちに私は強い誇りみたいのものがあるし、今でも大好きだし、高校を卒業してから6年経つ今でも定期演奏会後は必ずみんなで集まる時間が楽しくて仕方ない。
今はほとんどが働いてて、時間も自由じゃない社会人だけど、それでもやっぱりこの日だけは都合つけて集まってくれる。
何がそんなに楽しくて集まるのか。
きっと、会ったその瞬間から6年前の高校時代に帰れるところだと思う。
たまにあの頃が懐かしくて、焦がれて、堪らなくなって、どうしようない夜がある。
絶対に戻れないのに、戻りたくしょうがない夜。
戻れないのに、戻れてしまう夜がある。
定期演奏会の夜だ。もう舞台に立つ現役の高校生たちは一緒に音を交わらせることはおろか、会ったこともない子達だ。でも、現役たちの音楽を聞いて、直向きな音を聞いて、自分の青春と重ねて、あの頃に戻りたくなる。
で、その晩にみんなで集まる。
顔を合わせたら、エンジンを温めて久しぶりの距離感を詰めるための近況報告なんかしない。
いきなり6年前の距離感で全開のエンジンをかけて会話が始まる。
本当に一瞬であの頃に戻れる。絶対に戻れないのに。
帰りには一瞬で戻れた今日のことがすでにたまらなく懐かしくなると同時に、こんな仲間を持って、こんな青春の記憶を持ったことをすごく誇りに思う。
それは相対的にどうではなく、自分の中で絶対的に素晴らしいものだ。
そして、それを共感してくれる仲間が私だけでなく、他に22人もいる。喜ばしいことじゃないか。
楽しかった時間が終わって1人茅ヶ崎に帰ってくる。
ああ、茅ヶ崎に帰って来たなと、思う。
6年前の仲間たちとの誇りは変わらないけど、こうして少しづつ変わってるものもあるんだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。
なんだって無駄。みーんな無駄。
どうもこんにちは。
最近、自分が将来的にやりたいお店について空想していて行き着いてしまったことがある。
世の中無駄しかないのだ。
という実に身もふたもない考えだ。
これにたどり着くまでの軌跡を辿ってみるとこうだ。
飲食店って結局あってもなくてもいいんじゃないか。料理って必要に迫られればみんなやるじゃん。誰でも出来ることなんだからいらなくないか?、がスタートラインになっている。
じゃあ、そこでないと出来ないものってなんだと考えてみると、なにも出てこないのだ。本当になにも。なんかしら出てくるだろうという期待を見事に裏切る背景にはこんな考えがいた。
無いなら無いでなんとかなる
という考えだ。
うちから一番近いコンビニ。うん、ないなら無いでなんとかなる。
お気に入りの魚料理屋。うん、なければ他所を探そう。
週の半分は入り浸っているジャズバー。うーん、なくなんないで欲しいけど、:最悪うちでCDかけたっていいんだ。
世の中に本当に絶対になくてはならないものなどないんだ。
次にこれがとんでもなく恐ろしいものにも代入出来てしまうことに気付いた。
居ないなら居ないでなんとかなる
そう。物だってなくたっていいんだから、人だって居なくたっていいんだ。
それはつまり、私だって居なくていいということ。
職場?私がいなくたって、そりゃちょっとはシフトが回らないだろうけど、すぐに募集かけて穴は埋まる。
友達?月に1回合うかどうか程度の友達、会えない時間の方が長いんだから、私がいなくてもいいのかもしれない。
私が絶対に必要な場所なんかないんだ。私はいなくても世の中が回る「無駄」なのだ。
そんな私がどんなに充実して生きようと「無駄」だ。
どんなお店をやろうと「無駄」だ。
だったら、とことん「無駄」をやろう。
充実して生きてどうなる?ー私が満足する。
私が満足してどうなる?ー……。
じゃあ、無駄じゃん。
でも、その無駄で世の中は出来ている。だったら世の中だって無駄なんだ。
私の好きなものをこだわりを集めて、みんなで感じて、語り合える。あわよくば、そこから何かが生まれてくるような環境を作りたい。
一方の壁いっぱいに並ぶ私の好きな本。おんなじ本が、作家が好きだと言う人たちが顔を向かい合わせて語り合う。その共感が喜びになる。
他方の真っ白な壁に映る私の好きな映画。おんなじ作品、監督、役者が好きだと言う人たちが集って何か始まるワクワクを互いに感じ合う。
ただみんなで音楽を聴き合うだけでもいい。ジャズ、クラッシック、吹奏楽、ロックなんでもいい。「これ聞いてみて!」ものをみんなで聞いて、あれこれ思い合う。言い合う。
もちろん、中に好きじゃないって人がいてもいい。じゃあ、そう言う人が好きなものをみんなで語ろうじゃないか。
そういうやって無駄だけを無駄にたくさん集めてみたい。
きっと無駄だけど、ワクワクすると思う。
そんな「無駄なダム」を作りたい。
無駄だけど、無駄だからこそいいんだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。