『夏の入り口、模様の出口』 川上未映子
どうもこんにちは。
昨晩からの雨が上がって空はすっかり夏模様。夏の入り口のような空。心地いい。
特に雨上がりというのがいい。同じ晴れでも雨上がりだとその爽快感もひとしおだ。スイカの食塩。ケーキのコーヒー。夏の晴天に雨。そういうことかな。
普段はそのこれでもかって照りつけてくる日差しがかったるいのに、こういう日の日差しはなんでも許してちゃう。私が漕ぐ自転車を逆風で逆らう強い風も心地いいくらいだね。
そんな日に読んだのが、川上未映子さんの「夏の入り口、模様の出口」というエッセイ集。
私が川上さんの文章に出会ったのは芥川賞受賞作の「乳と卵(らん) (文春文庫)」という作品。
これが実のところ、まるでわたしには分からなかった。異性間の違いなのか、丸っきりの考え方が違うのか。
それでいつかの春休み、確か芥川賞、直木賞が150回の記念でもって、丸の内で芥川賞受賞作家のトークショーにで川上さんが人間の善悪について語ってるときに、わたしとは全然違う考え方をした人だなと思った。それ以来、どこか川上さんの作品とは疎遠になっていたのだけど、久しぶりにこれは読まなきゃと思ったのは「すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫)」という長編のラブストーリー。
鋭くて繊細で、ちょと難しいんだけど、頭に入った時の心地よさが癖になる文章。そして、人が人に恋をするという誰でも経験する当たり前のことで、なんら特別でないのに、面白いくらい人によって形が違う、でも、どこか根幹にある通奏低音が書かれた素敵な作品でした。
それ以来、川上作品に手を伸ばすようになったの。
そして、見つけたのがこれ。
やっぱり私と川上さんは考え方が合わないようだ。というよりも、ものの見方が違うようだ。
それでも、文章に引きつけられて、グイグイ読み進んだ。自分と全く違う考え方ってのはいい刺激になる。斜めに見ちゃったり、真正面からぶつかったり。でも、それは決して否定ではないんですよ。川上さんの考え方を受け入れてるんです。んんっ?ってちょっと考え込んでみたり、自分に全然ない感じ方にうなづいてみたり。
小説は作家さんの書いたものをまず読者が全面的に受け入れることが必要だと思ってます。それは思索してものを書いている作家さんに対する最低限の礼儀みたいなものです。作品は作家さんの思索の形が克明に彫られたもので、それを産むのには相当な体力も精神も費やしているのだから、こちらの読者も何を形にしたのか読むことが当たり前だと思ってます。勝手に彫られた形を変えてはいけないんです。その上で、作家さんとは違う感じ方、考え方を形にするのが感想です。
随筆はその点がもう少し緩くていいのかなと考えています。なにも、手を抜いて書かれてるとは思いませんが、小説と比べて手軽感を感じています。怒られるかな、これ。
まあとにかく、ボーッと文章を流して、あーだな、こーだなと、勝手に思うのがいい読み方だと思います。
みなさんが川上さんと考え方が合おうと合うまいと、ちょっと小難しい文章が心地よいと思います。
本格的な夏のじめりに何をやるにも億劫になる前に、まずは頭をスッキリさせてから、初夏に臨みませんか?
では、こりゃまた失礼いたしました。
轍の茅ヶ崎、王子様の相模大野
どうもこんばんは。
昨日は母校の高校の吹奏楽部の定期演奏会で久しぶりの地元相模大野に。
厳密に言うと、私の実家の最寄りは小田急相模原駅なんで一つ隣なんだけど、よく自転車で遊びに行ってたから、まあ、地元と言って問題はないでしょうね。
相模大野はずいぶん久しぶりだけど、改札を抜けて、ホールに向かうエスカレーターの右手側から単調な3拍子で「いつか王子様が」が聞こえてくると、ああ、大野に帰って来たなと、思う。ビル・エヴェンスで聞いても込み上げない帰郷感が、たかだか3声くらいの機械音からだとズンと込み上げてくる。
エスカレーターを下ってホールに向かう途中には、2年くらいバイトしたドトールがあったり、その昔高嶋弟が撮影に来たんだとかって言う伊勢丹があったり、でも、所々に知らない見たこともないラーメン屋が出来ていたりすると、そこに元は何があったか考え込んでしまう。その時間の長さだけ相模大野の懐かしさが深い。
演奏会のあとは高校時代の同期たちと集まるのがお決まりになっている。
高校の時の、特に吹奏楽部の同期たちに私は強い誇りみたいのものがあるし、今でも大好きだし、高校を卒業してから6年経つ今でも定期演奏会後は必ずみんなで集まる時間が楽しくて仕方ない。
今はほとんどが働いてて、時間も自由じゃない社会人だけど、それでもやっぱりこの日だけは都合つけて集まってくれる。
何がそんなに楽しくて集まるのか。
きっと、会ったその瞬間から6年前の高校時代に帰れるところだと思う。
たまにあの頃が懐かしくて、焦がれて、堪らなくなって、どうしようない夜がある。
絶対に戻れないのに、戻りたくしょうがない夜。
戻れないのに、戻れてしまう夜がある。
定期演奏会の夜だ。もう舞台に立つ現役の高校生たちは一緒に音を交わらせることはおろか、会ったこともない子達だ。でも、現役たちの音楽を聞いて、直向きな音を聞いて、自分の青春と重ねて、あの頃に戻りたくなる。
で、その晩にみんなで集まる。
顔を合わせたら、エンジンを温めて久しぶりの距離感を詰めるための近況報告なんかしない。
いきなり6年前の距離感で全開のエンジンをかけて会話が始まる。
本当に一瞬であの頃に戻れる。絶対に戻れないのに。
帰りには一瞬で戻れた今日のことがすでにたまらなく懐かしくなると同時に、こんな仲間を持って、こんな青春の記憶を持ったことをすごく誇りに思う。
それは相対的にどうではなく、自分の中で絶対的に素晴らしいものだ。
そして、それを共感してくれる仲間が私だけでなく、他に22人もいる。喜ばしいことじゃないか。
楽しかった時間が終わって1人茅ヶ崎に帰ってくる。
ああ、茅ヶ崎に帰って来たなと、思う。
6年前の仲間たちとの誇りは変わらないけど、こうして少しづつ変わってるものもあるんだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。
なんだって無駄。みーんな無駄。
どうもこんにちは。
最近、自分が将来的にやりたいお店について空想していて行き着いてしまったことがある。
世の中無駄しかないのだ。
という実に身もふたもない考えだ。
これにたどり着くまでの軌跡を辿ってみるとこうだ。
飲食店って結局あってもなくてもいいんじゃないか。料理って必要に迫られればみんなやるじゃん。誰でも出来ることなんだからいらなくないか?、がスタートラインになっている。
じゃあ、そこでないと出来ないものってなんだと考えてみると、なにも出てこないのだ。本当になにも。なんかしら出てくるだろうという期待を見事に裏切る背景にはこんな考えがいた。
無いなら無いでなんとかなる
という考えだ。
うちから一番近いコンビニ。うん、ないなら無いでなんとかなる。
お気に入りの魚料理屋。うん、なければ他所を探そう。
週の半分は入り浸っているジャズバー。うーん、なくなんないで欲しいけど、:最悪うちでCDかけたっていいんだ。
世の中に本当に絶対になくてはならないものなどないんだ。
次にこれがとんでもなく恐ろしいものにも代入出来てしまうことに気付いた。
居ないなら居ないでなんとかなる
そう。物だってなくたっていいんだから、人だって居なくたっていいんだ。
それはつまり、私だって居なくていいということ。
職場?私がいなくたって、そりゃちょっとはシフトが回らないだろうけど、すぐに募集かけて穴は埋まる。
友達?月に1回合うかどうか程度の友達、会えない時間の方が長いんだから、私がいなくてもいいのかもしれない。
私が絶対に必要な場所なんかないんだ。私はいなくても世の中が回る「無駄」なのだ。
そんな私がどんなに充実して生きようと「無駄」だ。
どんなお店をやろうと「無駄」だ。
だったら、とことん「無駄」をやろう。
充実して生きてどうなる?ー私が満足する。
私が満足してどうなる?ー……。
じゃあ、無駄じゃん。
でも、その無駄で世の中は出来ている。だったら世の中だって無駄なんだ。
私の好きなものをこだわりを集めて、みんなで感じて、語り合える。あわよくば、そこから何かが生まれてくるような環境を作りたい。
一方の壁いっぱいに並ぶ私の好きな本。おんなじ本が、作家が好きだと言う人たちが顔を向かい合わせて語り合う。その共感が喜びになる。
他方の真っ白な壁に映る私の好きな映画。おんなじ作品、監督、役者が好きだと言う人たちが集って何か始まるワクワクを互いに感じ合う。
ただみんなで音楽を聴き合うだけでもいい。ジャズ、クラッシック、吹奏楽、ロックなんでもいい。「これ聞いてみて!」ものをみんなで聞いて、あれこれ思い合う。言い合う。
もちろん、中に好きじゃないって人がいてもいい。じゃあ、そう言う人が好きなものをみんなで語ろうじゃないか。
そういうやって無駄だけを無駄にたくさん集めてみたい。
きっと無駄だけど、ワクワクすると思う。
そんな「無駄なダム」を作りたい。
無駄だけど、無駄だからこそいいんだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。
寝坊で爆ぜてポテトの思い出
どうもこんにちは。
今朝、目がさめると5時28分。定刻出勤に間に合う茅ヶ崎発の電車も奇しくも5時28分発。
こうなりゃしょうがない。自転車で行こう。
ってんで、すっかり冬が終わって日の出時刻が夜明けを早めたせいか、5時台でも十分明るい国道134号を江ノ島に向かって爆走する。文字通りの爆走。爆発的に走った。爆ぜながら走った。
お陰で5分前には出勤して、なに食わぬ顔で仕込みを始める。一緒に働いた人も隣の子の男が茅ヶ崎ー江ノ島間を自転車で20分で走ったとはつゆも思わなかっただろうね。
帰り、雨が降りそうな心もとない空と海を眺めながら自転車こいでると、マクドナルドの看板が。すっごい久しぶりに入って、ハンバーガー食べ、コーラ飲み、ポテトをつまんでボーッとする。
なんか懐かしいことを思い出す。
子供の頃、たまに日曜日のお昼がマックになることがある。その週の食費に余裕ができたからなのか、母親が楽したいからなのか、なんだか分かんないけど、「『今日、お昼マックね』の大号令」が母から発せられると子供達3人は、とっておいた新聞の折り込みのクーポンから自分が食べたいものを探し出す。家族5人の希望が揃うと子供達が出来たばかりの駅ビルの中に入るマックに買い物に行く。当時のクーポンは一枚で3セットまで使えるというものだった。
レジで家族全員の注文の品のクーポンを並べる。それからもう一枚。Lサイズポテトが150円のクーポン。しかもこれを使って3個買う。
帰ってからハンバガーの入っている茶色い紙袋を一つ破いて一枚のシートにするとそこにポテトを広げていく。Mサイズのポテトが5人分のセットと同じ数の5つとクーポンで買ったLサイズのポテトが3つ。大量のポテトの山。これがなかなかの景色なもんだ。
家族5人はこのポテト山をつまみながら、銘々のバーガーを食べる。という大号令がたまの日曜日に発せられた。
ある日、もっとポテトが食べたい私は考えた。そうだ、ポテトの山を先に食べてからバーガーを食べれば良いのだと。
普段働かない知恵ってのがこういう時に働くあたり、私の食い意地の悪さを感じるね。
ポテト山はみんなのもので私が食べなければ、誰かのものになる。しかし、バーガーは私のものであり
いつ食べたって行き着くところは私の胃袋。ならば、ポテトを食べ尽くしてからバーガーを食べればいいと。なんとも傑作の考え方だ。
意気揚々と母の例の大号令を待つ。その日曜はなんだか発せられる気がしていた。予感は的中、発せられた大号令に従い、いつものようにセットを選んで、クーポン財布に、ポテトと共に買い出しに。
築き上げられたポテトの山はいつもと違って見える。だって、傑作を胸に秘めた私にとって眼前のポテト山は私のものも同然なんだから。
いただきますでみんなが食べ始める。自分のビックマックには目も触れず、ひたすらポテトを食べる。心の中はポテト山を占有してしまうことへの謝罪の気持ちでいっぱい。でも、気持ちと裏腹に手はポテト、口、ポテト、口の反復をやめない。身体測定の反復横跳びなら間違えなく新記録だ。
ふと、隣の妹に目をやると、妹の手もポテトと口の往復をしている。そのまた隣の末の妹の手もポテトと口の往復。向かいに座る両親の手も。そう、私の傑作はみんながよく知る古典だったんだね。
この時の悔しさったらないね。私だけがみすみす家族にポテトを譲ってたなんてね。
そんなことがあったなんても今の今まで忘れてた。
思い出しながら、こうやって文字にする。書けた今、外はもう雨模様だ。コーラは氷が溶けて炭酸のシュワシュワはおろか、甘いのかさえもわからないくらい。
思い出すのにちょっと時間がかかりすぎた。それだけ懐かしい記憶ってことだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。
ナイロン100℃session45「百年の秘密」
どうもこんにちは。
昨日、下北沢は本多劇場にてケラリーノサンドロヴィッチさん主宰の劇団ナイロン100℃の本公演「百年の秘密」を観てきました。
私が大学にいた頃、演劇学を専攻するなら卒論ではケラさんかクドカンを書きたいと思っていたくらい好きな劇作家。セリフの端々に冴え渡るナンセンスな鋭感、それらが観客と演者との間に作るくすぐったいような癖になる笑い、そして、作品ごとに全く違う景色を見せる作風の振り幅。
ケラさんの魅力をこんなに簡単な言葉でまとめるなんて恐れ多いというか申し訳なさしかない。
しかし、言葉にしなければ、ここに書き残すことも出来ないのだから、仕方なく言葉でまとめるしかない。
私が過去に一番くすぐられたケラさんのセリフは
嫌な予感がしそうな気がする
ケラリーノサンドロヴィッチ脚本 ドラマ「怪奇恋愛作戦11話」より
ってセリフ。分かるかな?この感覚。私はこの感覚が大好きなんです。ナンセンスってこういうことか!とベケットも別役実もイヨネスコもただの知識でしかなかった「不条理・ナンセンス」が私の中で感覚に変わった瞬間でした。
そんなナンセンスを中心に、最近だと古田新太さんとの「ヒトラー、最後の20000年〜ほとんど、何もない〜」の荒唐無稽なナンセンス芝居に、東京オリンピックの前年の日本を背景に書いたラブロマンスチックな群像劇「陥没」、ザ・別役実ワールドをオマージュしナイロン仕様に仕立てあげた不条理劇「ちょっと、まってください」と各芝居の世界観は多様なもの
そんなケラさん作の今回の「百年の秘密」はティルダとコナという2人の女性の12歳から最後までを描いた人生劇です。
これは再演ですが、ナイロンの芝居の中でも非常に振り幅の大きな作品。どっちに振り切っているかといえば、ナンセンスとは対極な方。もちろん所々にケラさんらしいナンセンスなセリフはありますが、物語全体は一本筋が通って、あまり良くない言い方ですが、分かり易い芝居です。
そういう点で、ナイロンらしくないなと思いますが、一方でケラさんのああいう芝居はナイロンの役者さんでしか出来ないだろうなとも思うわけです。「ナイロンでしか出来ない最もナイロンらしくない
芝居」という逆説を感じます。
あまりあらすじとかをここでいうと観るのを楽しみにしている方に申し訳ないので、極力控えますが、この物語の大きな特徴は、構成です。
2人のヒロインの関係を時系列を追って書くのではなく、断片的に、物理的な時間軸をあえて行き来させながら書き出します。
その往来の橋渡し役がメイド役のメアリーです。彼女の語りによって物語の時間軸を見失うことなく私たちは行き来します。
この時間軸の往来がもたらす大きな特徴は(ケラさんがそれを狙ったか分かりませんが)私たちが想像する人物像の多面性です。それによって短い時間で私たちはより強く彼らを周りの知人や思い当たる節に投影し、世界観に入り込みます。
劇中の人物のその人物像を慮る時、当然、私たちは彼らの言動、動きをもとに考えます。
その時、時間軸がひと繋ぎだと、私たちが登場人物たちの人間性を決定づける要素は冒頭で決めてつけてしまうことが多いと思います。しかし、それは彼らが私たちに見せるパーソナリティの一面でしか無いのです。それなのに、その後に出てくるパーソナリティなセリフは冒頭で勝手に受けたパーソナリティの一部に勝手に組み込んで私たちは解釈します。しかし、現実を生きる生身の人間が一己のパーソナリティ、人間性だけで構成されているわけはありません。舞台上の彼らも同じです。次のシーンで思う人物像は同じ人物でも前のシーンの人物像とは異なる面だったりするのです。しかし、私たちは前のシーン人物像の中に次のシーンの人物像を押し込みます。
しかし、断片的に時間軸が途切れる、いきなり24年後に行ってみたり、ことでその年齢、その時代で同じ人物でも違ったパーソナリティを私たちは受けます。
例えば、15歳のポニーが父親のカレルにお小遣いをせびるシーンの3から4に指を変える時の茶目っ気と晩年のポニーが落ち込んだフリッツにいう「一つ言ってもいい?何よ今更」というセリフの茶目っ気。同じ人物の茶目っ気でも、時間の流れ、人間性の変化などを感じます。ひと繋ぎの時系列では晩年の茶目っ気を15歳の茶目っ気の延長線で見てしまい、そんな私たちでは区別のつかない茶目っ気の違いがあります。これは断片的な時系列ゆえに私たちが思うポニーの人物像がより深い理解、理解は生意気ですから想像にしましょう、がなされたと言えると思います。
長いこと書きましたが、断片的な時間軸に対して私が思う効果です。
で、それがなんだというと、つまり、同じ人物でも前のシーンで私が思った人物像に引っ張られずに、次のシーン、つまり次の時系列で同じ人物に新たな人物像を垣間見ることができるのは、何よりも役者さんの本に対する理解が大きいと思います。ケラさんと25周年を迎えたナイロンの皆さんとの関係性、信頼感の強さを感じます。
それ故に、「ナイロンでしか出来ない最もナイロンらしくない芝居」な訳です。
それ以外にももっと、翻訳劇風なことや室内と室外の重なりとか、実際に劇場で見ると不思議なこと、気付くことがあるんですが、あまり長いと読んでくださる方も疲れますもんね。
と言いつつ、最後にちょっとだけ。
ケラさんの舞台はオープニングのワクワク感が堪りません。まるでディズニーランドの「スターツアーズ」に並んでいるかのようなこれから目の前で繰り広げられる世界に胸が高鳴ります。音楽とプロジェクションマッピングが舞台上で合わさり見せる世界は私たちをどうしようもなく楽しくしてくれます。
ケラ作品のオープニングだけ集めたDVDとか欲しいな。
と、ちょっとのつもりで長々とすいません。まるでポテチのように止まらないね。止めないと。
次の公演「睾丸」も楽しみだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。
「今夜、ロマンス劇場で」
どうもこんにちは。
先週の金曜日、3月30日の最後の回に辻堂で「今夜、ロマンス劇場で」を観てきました。
まあ、よくあるラブロマンスなんだろうなと思いつつ、ドレス姿で白黒のモノトーンに映える綾瀬はるかさんが全盛期のオードリーヘップバーンそのものだったのに、そそられて劇場に。
冒頭、白黒で映し出される劇中劇「お転婆娘と三獣士」は国産ミュージカル「狸御殿シリーズ」と重なりつつも、「オズの魔法使い」も彷彿とさせます。
そんな「お転婆娘と三獣士」を小さな町の映画館「ロマンス座」の小さな映写室の小窓から覗く坂口健太郎さんは「ニューシネマパラダイス」のトトそのもの。客席に誰もいない劇場のスクリーンに投影されるお転婆娘と三獣士。
国産映画黄金期の1960年代、そんなロマンス座に雷が落ちるところから話は始まります。
なんて、まあ、あらすじは方々のサイトやブログ、ツイートでお読みになれるでしょうからここに書く必要もないでしょう。
この映画の特筆すべきことは、ったってこれも色んなところで言われてることでしょうが、映画の黄金期を彷彿とさせるそのオマージュシーンですね。
北村一輝さんが一人称を「オイラ」で劇中ミュージカルのナンバーは「嵐を呼ぶ男」の裕次郎です。
映画『今夜、ロマンス劇場で』本編映像<妖怪ダンス>【HD】2018年2月10日(土)公開 - YouTube
公衆電話のガラス越しに唇を重ねる2人は「また逢う日まで」の映画史に残る伝説的シーンだし、映画の中でテレビの勢いに押され、衰退していく映画そのものを書き出す手法は「雨に唄えば」を思い出させます。
この他にもきっと映画通の方はもっと映画愛に溢れ、映画への尊敬の尊敬の念に満ちたシーンにお気付きでしょうね。不勉強なもんで。私が見つけたのはこれくらいです。
あとは、映画の色彩感。綾瀬はるかさんが白黒という設定に退避させてか、とにかく画面中が色、色、色で埋め尽くされます。その鮮やかさの綺麗なこと。
そして、ラストのシーンはおざなりで紋切り型のラブストーリーが多いこのご時世になかなかないひねりが効いて、裏切られ、泣かされる結末でした。
ここでの石橋杏奈さんの今時の子感が現代と60年代を行き来する中でとっても効いてきます。
成し遂げられない愛を描いた代表作「カサブランカ」もこの作品の結末にとっても大切な役割を担っています。
映画愛に溢れた演出と、よく作られたストーリーと、色彩感に富んだ映像美ととてもよかったです。
映画ファンには真っ先に観ていただきたいですし、そこまで映画を観てきてない方もストーリーだけで十分ジーンと来る作品でした。
最後の最後に間に合って、スクリーンで観れて良かった。
では、こりゃまた失礼いたしました。
春とかふらふら浮ついて
どうもこんにちは。
3月が終わってそろそろ4月。そろそろ世間様じゃ、新生活だなんて、ほとんど意味のないような区切りでもってワクワクしたり、不安になったり忙しい時分。なにも自分から生活にそんなハリを出さなくても良かろうものを。なんてことを春になって周りを見ながら、ふらつきながら思う。
でも、たしかに春は浮遊感に遊ばれるような季節だね。
常に何かが浮遊して舞っているイメージ。散りゆく桜のことかしら。新しいことに浮つく期待感かしら。暑いも寒いもどっちつかずの気候もかしら。花見の宴も浮つく席だ。新年に決めた目標もどっかに舞ってちゃうから新年度に今一度目標を立て直したり。
とにかくなんかふわふわしているそんな気分。そんな空。
かくいう私もこの時期にふわふわ舞っていて、朝時間を見つけては出勤前にサザンビーチに舞って行ったり、海岸沿いをふらふらしたり。
寒くて籠る冬の反動かしら。
仕事だなんだといって、冬に籠りきれてないとこの反動をもっと爽快に楽しめない。やっぱり季節に合わせて、お天道様に合わせて生活するのがいいんでしょう。大きな塊の渦に巻き込まれて、季節もない、天気もない、なんでも一辺倒の生活をするなんてほとほと無理なのにね。十二分にその歪みは目視できているはずなのにね。
私たちは春の楽しみも半減に、なんだか分からない渦に巻き込まれていく。本当は何が渦巻いてるが分かってるけど、知らないことにしておいた方がいいらしい。
なんの話をしているのでしょうね、私は。
渦だのなんだの言わなくても春は十分いい季節じゃない。
では、こりゃまた失礼いたしました。