本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

決意みたいな立派なもんはない

どうもこんにちは。

「どうもこんにちは。」と打つだけで9文字も打っているらしい。 666回打ったら6000字の作品が完成することになる。

「どうもこんにちは。」だって既存の言葉なのだから、それを作品と発表するのは、いってみれば言葉のレディメイドではないか。 モナリザに髭を書いて、アルファベットを並べて美術作品なのだから、「どうもこんちは。」を並べて文学作品としていいではないか。

もっと言えば、何も書かないで「6000字」という題をつけても文学作品ではないかと思う。 4分33秒、無音を聞かせることも音楽なのだから、6000字、無字を読ませることも文学としていいではないか。

おわかりかもしれませんが、今、6000字書くことに強く抵抗があります。 どうして、こんなに6000字書きたくないのか。 いや、書きたくないというのではない。書きたいんだけど、書くのが結構しんどいのよ、と大きな声で言いたいのだと思う。

しんどいなら、別に書かなくたっていいのではあるけど、書いていない時は書きたいのだ。書けている自分を妄想する。 妄想するくらいなら、実際に書けばいいじゃないか。別に元手が必要なわけでもない、下準備が必要なわけではない。思い立った時にいつでも書ける。書くなんて簡単なことだ。

書かなくては書けない。 とてもとても簡単な当たり前のことだ。 簡単すぎると逆に分からない、みたいな哲学的なことでもない。ただの簡単だ。

書こうとしているものが全然見えないところから始まって、見える前にしんどくなって、何も思いつかなくなる。 自分は書きたいのだけど、書けない人間のかもしれない、とちょっとね、これは怖さにも似た感情である。

もうすぐ30にもなるのだから、おとなしく黙って働いていればいい。 もう書けない人間かもしれない、ということにビクビクすることもない。 そういう人間なんだから、普通に働くしかないことを受け入れればいいのだ。自分が何かちょっとだけ、いや、ちょっととは思ってない、特別だと思うことをやめたらいい。

本当にみっともない。

そう、思ってはいる。いるんだけど、諦められないのだろう。 自分が書ける人間だと思いたい。そのためには書いてみるしかない。

だから、書くために、しんどいということをこうやって言葉にして発散して、書こうと思う。 たまに書けている時に、楽しい浮遊感を感じることがあるのだ。本当にごくごく稀に。

8月31日に〆切の公募に向けて、6000字の短編、10月31日の〆切の公募のために40枚のシナリオを書く。

では、こりゃまた失礼いたしました。

メキシコ料理を介して分かったこと

どうもこんにちは。

この間、面白い会をやった。 私の好きな人、3人を混ぜこぜにして、ご飯を食べた。 それぞれ、3人に面識はない。よくこんな会にみんな来てくれたと思う。 普段、私と楽しく話をしている人が、私と楽しく話している人と話しているのを聞くのも面白かった。

その中で少し違和感を持ったことがあった。

3人とも私と楽しく話をするくらいだから、根っこにある感覚はみんな、同じなんだと思っていた。 なのに、それぞれの話を聞いていると、なんだか、それぞれが隣の庭の根っこから生えているように聞こえる。 共有していると思っていた考え方の根幹が微妙に違うのだ。

その中で一人、明らかに根本から価値観が違うことに気づいた。

私はその人とも感覚の合う人だと思っていたのに、他の人との会話で、その人が気にしていること、中心に据えていることが、どうも私とは違うらしい。

これは面白いことに気付いたと思う。 私が話している時は同じ感覚に思えていた人が、他の人との会話を聞くと違った感覚の持ち主だと気付かされるたのだ。 帰り道、どうして、私は反対の感覚を持った彼女と楽しく話をしていたのだろう、かと考えていた。

まず一つには、私と彼女の感覚の違いが、私たちがそれぞれ持ち合わせている感覚全体の一部でしか生じていない、ということがあると思う。 考え方全てが正反対というのではなく、おそらく考え方のいろんな要素の中の一部が反対なのだ。 ということは、私が彼女と話している時には触れなかった要素の話を聞いたということになるのだろう。それはそれは新しいから面白い。

次に、いやいや、そもそも話をしていて面白い人だから、考え方が一緒だと思うところが早計なのではないか、と言うことである。 むしろ、こっちの方があるのではないか。

考え方が違うのだから意見が合わなそうものだが、意見が合う時も不思議とある。

そこで、彼女と話している時のことを思い出してみた。

すると、意見が合っているというよりもどちらかがどちらかの意見に納得した、という言い方の方がしっくりくる気がするのだ。 どちらかの意見に対して、聞き手は否定することなく、話を遮ることもなく、おかしな点は忌憚なく質問していたような気がする。 話し手も、反論も質問も気を悪くせず、お茶を濁さずに考える。言語化する手間を惜しまず、頭を回転させる。 こんな苦労をして話をしている時点で、我々の考え方が合っていないことなど分かりそうなものだ。

彼女に納得してもらわんが為の言語化する作業のおかげで、自分の考えていることがより明瞭になる。 つまり、私が彼女と話していて面白いと思っていたことというのは、考え方を共感し合っている同士の会話ではなく、共感のない人間に理解してもらうための苦労のことを面白がっていたのだと思う。

これはTwitterの140字じゃ絶対にできないことではないかだろうか。 140字では何も伝えられない。伝わってないことも伝えられない。伝わってないことが伝わってない、ということも伝えられない。 そうなると、結局、伝わってないことが、話が分からないことと混同して、排除することに繋がっていく。

それと同時に、やっぱり話をする人とは会わなきゃいけないな、と思う。 いろんな人に会いに行きます。暑いけどね。

では、こりゃまた失礼いたしました。

鑑賞ノート「怪物」

どうもこんにちは。

いつか必ず観るのだから、今日じゃなくてもいいか、と「リトルマーメイド」に越され、「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」にも越されて、ついぞほとんどの映画館で一日の上映回数が一回になってきた映画「怪物」をようやく観てきた。

坂元裕二作品はほとんど観てきた。出版されているシナリオはほとんど本棚に収まっている。

少し前に「花束みたいな恋をした」が大ヒットしたが、麦くんと絹ちゃんは坂元裕二作品の核から少し離れたところにいる気がなんとなくしていた。坂元裕二という人は、社会の隅にいる人たちを、決して弱者としては描かずに、寄り添った物語を書く人だ。

映画自体は大きく三部に分かれている。

一つの事件を当事者の児童、湊の母親、湊の担任である保利、湊本人、と三つの視点で写して進む。 前段パートと中段パートでは、事件の真相も人物の見え方も不穏に揺れて、大きく異なる印象を与える。 そして、最後のパートで不穏に異なっていた点を見事に回収していく。 回収されながら、私たちはこの物語が伏線回収の手際の良さをひけらかすだけの物語ではないことに気付く。

これは大人に罰を与える映画ではないか。

最後、湊と依里が嵐の去った草原を走り、消え去ったガードレールを抜けていく時、私はそう思った。

大人たちの言動を追いかけて、大人の事情だけを物語の中心に、前段パートと中段パートを観ていて私は全く湊と依里に寄り添っていなかった。 後段パートを湊目線で観ながら、自分が今まで何を観てきたのか、愕然とした。

そして、二人に寄り添わなかった罰のように、私は物語の最後に二人を失った。

田中裕子さん演じる校長に憤りを覚えるのも、永山瑛太さん演じる保利の失望に胸を痛めるのも、安藤サクラさん演じる湊の母親のことを思うのも、全部全部大人の都合だった。 もっと下で、見ようとしなくては見えないところで、もっと寄り添うべき湊と依里がいたのだ。

時々、金管セクションの音にすらなっていない不協和音に違和感があった。まるで初めて金管楽器を吹いたような音。 後段パートで湊が校長に促されて、トロンボーンを吹いた時、その音が、自分がついた嘘で自分を苦しめた音だと気付いた時、心底震えた。

どうして、この音に違和感を持った時にこの子の苦しみに寄り添えなかったのか。

キャスティングは坂元裕二作品の常連が揃い、素晴らしい座組だった。 特に坂元作品で欠かせない田中裕子さんが、私はたまらなく好きだ。どんな物語もこの人に救われる。

「誰でも手に入るものを幸せという」という印象的なセリフはこの人でしか言えない。孫を轢き、嘘をつく大人が、子供を子供扱いせずに現実を教えた言葉のように思った。

最後に、坂元裕二がこの作で世界から評価されたのはファンとして、すごく嬉しい。 しかし、その評価された作品が映画であるということが少し寂しくもある。テレビドラマでは評価され得ないのか。 テレビドラマがまだ映画に比べて、娯楽の域を脱し得ないことがなんだかもどかしいのだ。

この映画は必ずもう一度観る。

では、こりゃまた失礼いたしました。

再現出来ない味

 

どうもこんにちは。

 

何事にかけても、世の中はなんのといってやっぱり再現性である。

 

例えば、テレビドラマや映画のような映像作品。

彼からのアングルと彼女からのアングル、二人を中心にしたアングル、と3つのカット割りのシーンがあるとする。

役者はそれぞれ同じ演技を3回しなくてはいけない。

1回目は右手で掻き分けた髪を2回目では、左で掻き分けるなんてことがあると編集がややこしい。

 

かといって、役者のほうで同じ演技をしても、さっき出ていた太陽が今は陰っているなんてことも困るわけである。

 

私も今、同じことで頭を悩ませる。

といっても、何も役者になろうとしているわけではない。

 

私のほうで頭を抱えているのは珈琲の焙煎である。

珈琲の焙煎の再現というのは慣れるまで、かなり難しい。


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時間と温度を棒グラフに記録しながら、焙煎を進め、味を確認する。

すぐに同じ量の同じ豆を、そのグラフを再現するように火加減を調整して、焼いていく。

これが同じようにグラフをなぞって火加減しているのに、味が同じになるとは限らない。

よく分からん、といつもさじを投げてしまう。

前と何が違ったのか、原因を考えてもう一度焼いてみる。

 

茶店で珈琲を飲んでも同じことはままある。

よく行かせてもらう喫茶店がいくつかあって、大抵、どこに行っても同じものを淹れてもらう。しかし、毎回同じものが出てくるわけではない。

 

珈琲の味を決めるのは蒸らしのタイミングだと私は考えているので、珈琲の抽出はその都度の湿度が味の決め手になっているのでは、とふんでいる。

それ以外にも、その日のマスターの様子や気候、焙煎からどれくらい時間が経った豆を使っているか、など珈琲の味を決める要素は色々だ。

それらを加味して、毎度同じ味を再現するのはまず不可能だ。

だから、きっと同じ味だと思っても、実は微妙に違うなんてこともあるのだと思う。

 

そこを珈琲の奥深さと楽しんでいたが、いざ、それを仕事にしようとしてみるとなかなかに厄介だったりした。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

洋上生活、人生観なんか変えてたまるか

 

どうもこんにちは。

 

私が仲良くなれそうもないと思う人間のなかに、「たった3ヶ月の語学留学と題した長期海外旅行で人生観を変える人間」というのがある。

よく20代そこそこの大学生が、就活直前にエントリーシートの自己PR欄を埋めるために行くアレである。

 

曲がりなりにも20年生きた人間の人生観がたった3ヵ月で変わることはおそらくない。

むしろ、そんなことがあるなら、そんな軽々しい人生観、無いほうがいいとすら思っている。

 

人生観の形成とは、その経験の新鮮さや大きさに関わらず、経験一つ毎に少しづつ行われていて、アンミカの言う白ぐらい微妙な変化しか起きていないものだと思う。

その小さな変化の積み重ねで、私が私を生きていくための道標を作っているに違いないと思う。

 

仕事の研修で1週間、洋上で生活することがあった。

奄美大島から屋久島、種子島、土佐清水、大分とほとんど陸を踏むことなく、船の上で寝起きをした。

こんな経験はおそらく、私の人生の中でも滅多にない、というか、こんな経験をする人がいないと思う。

周りを見渡しても当たり一面の水平線。陸も島も山も360度見えない。こんな状況になってみると、意外と孤独なもんだと思う。その孤独が不安で、少しづつ恐ろしくすらなってくるのだ。

 

そんな海上で向こうから飛んでくる鳥がある。ずっと先の漂流物に留まって、羽根を休めた。

少し休んで、また見えないはるか先の陸に飛んでいく。

こんな時に見えない陸に飛んでいけるなんて、よっぽど鳥の方が強い。

私はきっと漂流物からは離れられない。

 

こっちは人間だなんて言っても陸が見えないだけで、こんなに不安でいっぱいだ。

 

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海の上で朝を迎えると、目を開けた瞬間にこんな朝日が目一杯に広がっている。

人生でこんな朝を迎えることはもうないだろう。

 

しかし、こんな朝を迎えても私の人生観が何か変わったような心持ちはない。

なんせ、圧倒的な景色と波に差し込む朝日を前に、私なんかのことを考えている隙がない。

こんなところでは私の存在なんかは何でもないのだ。

 

私の存在が何でもなくなったのに、そんな存在の人生観なんぞ、どんなもんでもない。

それほど圧倒的すぎる経験があった。

 

人生観が変わったことを自覚することなんか出来ないのだと思う。

 

じゃあ、海外行って、人生観が変わりましたって言う人はどんな変化を実感しているのだろう。

自分の変化なんて、自分の存在を越えたときに少し起こるくらいで、自覚が出来る変化に大したものなどない。

 

少し揺れるデッキでそんなことを考えた。

せっかくの景色でもっと楽しみ方もあったろうに…

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

桜桃忌2023

 

どうもこんにちは。

 

梅雨の合間の6月19日は今年も性懲りもなくやってきた桜桃忌。

数えてみたら、私は今年で9回目の墓参りだった。 21歳の時から通っているらしい。

 

9時頃、うちを出て、電車に乗る。

新宿で乗り継いで、中央線は三鷹駅で下車する。

車中はずっと「斜陽」を読んでいた。

 

毎年6月半ばには、その時読んでる本をしばし閉じて、太宰作品を読むことにしている。

今年は久しぶりに「斜陽」を読み返していた。

 

もうすぐ電車が吉祥寺に停車しようという頃、隣に座っていた女性二人が慌て出した。

年のころなら60代後半から70前後、いかにも歩くための格好をしていた。

どうやら、吉祥寺駅は目的地よりも行き過ぎてしまっているらしく、急いで降りて折り返そうと話しているらしかった。

手には太宰の名跡を辿る散歩コースが記されたパンフレット。歩こうという格好から、禅林寺にお参りに行くのだろうと想像ついた。

 

「桜桃忌ですか?」

普段、そんなことはしないのだが、きっと太宰に親近感がわいたのか、声をかけていた。

「あら、お兄さんもですか?」

「そしたら、三鷹駅は次ですよ、行きすぎてないですよ」

 

そのあと、電車が三鷹に着くまでの間、少し話をした。

「田舎から出てきてね、一度は行ってみたかったのよ」

というお二人はよくよく聞いてみると横浜からだった。

どこかでお会いできたら、といって三鷹駅のホームで別れた。


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禅林寺に向かう途中、「go café and coffee roastery」で深煎りのブレンドで小休憩。

続きの「斜陽」を読む。

 

太田静子の日記をモデルにしたと言われている、貴族の没落の記録が太宰らしい文体で書かれている。

描写が丁寧で、滑稽なユーモラスな言い回し、それでいて、そっぽを向いたような熱を帯びている。

私のなかで太宰の文章とはそんな印象だ。

 

戦後という、突然やってきた社会変革に理不尽に振り回されて、そこから這い上がった日本人は東京オリンピック、高度経済成長と、見事に日本を再起させた、という前向きな物語が日本史の中心に鎮座している。

この物語は嘘ではないだろうが、この時代の全てではない。

 

ここからこぼれ落ちた人間に光を当てて、丁寧に書き上げる太宰に太宰らしい、弱さのようなものが垣間見れる気がする。

決して、優しさではない。

捨て置くことで、自分が苦しむことから逃げたいという、弱さのような気がする。

 

深煎りの、しかし、甘味を感じる珈琲で一息ついたあと、禅林寺の太宰の墓前へ。

 

毎年、墓の前に来ると思うのだが、人様の墓の前ですることなんかないのだ。

私は酒を飲むわけでもない、タバコをやるわけではない。そんな私が酒やタバコを赤の他人の墓の前でやるなんて、厚かましいにも程がある気がしてしまう。

かといって、桜桃忌にかこつけて、さくらんぼを供るのも、あとで片付けるお寺さんのことを思うと、食べ物を持参するのは忍びない。

結局、毎年、遠路はるばる電車を乗り継ぐ割に、墓前ですることは何もない。少し手を合わせて、周りに集まる太宰が好きだということしか知らない人に、会釈して、なぜか毎年いる、生前の太宰にあったことがあるというおじさんの話を上の空で聞いて帰ってくる。

 

帰りに事務所に貼ってあるポスターで黄檗宗という文字を見て、黄檗宗ってなんだったかしらと、調べながら、山門をくぐって帰る。

 

お寺の目の前の道はここ数年、ずっと工事している。

三鷹の下北沢かよ」と思ったけど、こんな場合の「下北沢」は「サクラダファミリア」と同じくらい使い古させれている。

今、ここでいう「サクラダファミリア」は使い古されているものの例えであって、完成しないものの例えではない。

 

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M・C、マイ・コメディアン

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

ファミレス原風景

どうもこんにちは。

一つの作品を長いこと書いていると、あ、次これ書きたいな、みたいなものを思いつくのだが、そんなことばかりで進まない時がある。 今月末が公募の締め切りで、今一番書きたいはずのシーンを書いてるのに、いざ書き出すと、ここ最近で一番進まない。 まず、前に反省したように、主人公に言わせたいことを言わせるための状況がうまく作れてない気がしてならない。 そんなことを考えながら、今日1日は公募用のシナリオを離れて、次に書きたいことを書いてみる。

この間、やっとファミレスで朝を迎えることができた。 学生の頃みたいに、なんの話をするわけでもない時間をドリンクバーだけで過ごした。 どうでもいい話こそ、熱を帯びて、議論が白熱する。

このことを軸に、学生時代にファミレスで朝を迎えていた時を回想しながら、今と昔のファミレスを行ったり来たりしながら、学生時代の頃のなんかしらの誤解かトラブルを解決する、という流れにしよう。

この間のダウ90000の「また点滅に戻るだけ」や東京03の「何かありそうな日」、ドラマ「ブラッシュアップライフ」みたいなものをイメージしている。

伏線と回収かぁ…。 気持ちのいい回収出来るかなぁ…。

伏線と回収には気持ちのいい回収と、スッキリしない回収とがある。 前者は伏線だと気付かずに張られていて、回収された時に、あ、あれかぁ!と一本取られた気になる。 逆に後者は伏線の段階で、あ、これは張ってんなぁ…と気付いてしまう。だから、回収の時に、でしょうね、というため息が出る。

そりゃ観る側に回れば、こんなことはいくらでも言える。それを逆手に取って、伏線張りまくり系考察ドラマみたいなジャンルすら確立されつつある。 そういうドラマってみんな見返すのだろうか。結末を知っても、ネタバレされていても観るのだろうか。

ファミレスで迎える朝、にどれだけの共感があるのだろうか。 もし、共感されないならば、何か共感してもらえるような工夫が必要だ。逆に具体的にしすぎず、広く捨象していく必要があるかもしれない。

こうして、この二人はこの後どうなるのだろうか。関係を続けるのか、破綻するのか、もしくは変容させるのか。 いや、変容しそうで、やっぱりしないのがいいかもしれない。なにも変わらずに、出勤するサラリーマンたちに混じって寝床に帰る、というのが好きそうだ。

では、こりゃまた失礼致しました。