本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。茅ヶ崎の海辺からコカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

青春を結んだむつみ荘

 

どうもこんばんは。

 

突然だが、お尻に割り箸を指した遊びをしている大人を想像して欲しい。

場所は深夜の公園。お酒も入り大騒ぎだ。

想像出来ただろうか?目に浮かんだだろうか?くれぐれも想像して欲しいのは大人だ。中高生でもない。

 

先週の土曜日、8月31日に見届けた、というか聞き届けた一つの青春の終わりについて、私は未だに冷めない熱量でいる。

青春を終わらせたのは、青春なんて響きからかけ離れた、四十も近いおじさんコンビ、オードリーだ。

毎週土曜の深夜に生放送で届けられる「オードリーのANN」は10年の大台に乗り、武道館でのイベントも大成功を収めた。私生活の方も、春日さんは結婚、若林さんも当人ではないが、好敵手南海キャンディーズの山里さんの大女優との結婚と右肩上がりだ。

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そんな2人の夏の終わりの放送は、春日さんが20年近く暮らした「むつみ荘」から放送された。売れずにくすぶって、ふてくされて、屈折して、ただ笑っただけの時間が流れたむつみ荘。

オードリーのラジオリスナーのことを「リトルトゥース」と呼んでいる。そして、若林さんは自身を「リトルトゥース第一号」と呼ぶほど、この番組を、聞いているリスナーを愛している。その番組を春日さんが亡き(引っ越しただけ、死んではない)むつみ荘から放送することの意味は大きい。当然、我々のようなリトルトゥースにとってもだ。

 

いつもの声の張りをすっかり失った、静かなタイトルコールから始まる。

引っ越しが完了し、すでにクミさん(元春日さんが狙ってる女)とマンションで暮らしているため、春日さんが暮らした部屋はもぬけの殻だった。若林さんはその様子を見て、初めてこの部屋に訪れた時のことを思い出してた。

俺、部屋見たいって見にきたときと同じ感じ。見たいんだけどつって、こんな感じの状態でいて、「へー、ここが3万9千円なんだ、どうしようかな、俺は」なんつって話したら、春日が「物件って探してると、ここに住んで欲しいって部屋から言われるよ」って言われたの覚えてて、その時「きっつぅ」って思ったの覚えてるんだよね

と、その頃を思い返していた。

 

それから、2人は自然と2008年のMー1で売れるまでの思い出話に入る。

 

ラブホテルに泊まる予算も持ち合わさない若手時代のクリスマス。仕方のない若林さんはクリスマスケーキと当時の彼女を両手に春日さんの部屋を3時間借りる。漫画喫茶に移動する春日さん。

むつみ荘の古さのせいか、彼女とのセックスのあと、その揺れで倒れたケーキの上にのったサンタをみて、映画「ファーゴ」のポスターを思う若林さん。

このエピソードにここだけにしかない感覚が響いてくる。ほかでいくら探しても見つからないものがこの部屋とこの2人はあるのだ。

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深夜の公園。オードリーの2人に、一緒にくすぶっていた先輩たちと深夜の公園でやっていたのが「ケツチャン」と呼ばれる遊び。

これはお尻に割り箸を突っ込んで、相手の背中に「×」を付けるというもので、いい大人がやる遊びじゃない(笑)

近所の子供たちが登校する時間まで続けてたというのだから、相当時間を持て余してたんだろうな、と想像する。とにかく仕事がないから、時間を潰すのに精一杯なのか、遊びという遊びがバカバカしく、深夜のリスナーの肩を震わすのにちょうどいいのだ。

 

ケツチャンが終わって、明け方のむつみ荘に戻ってくる。うつ伏せで爆睡する大人たち。その背中には大きな「×」が書かれている。若林さんは、それをみて、

人間としてダメだと言われてるみたい

だと感じたらしい。

 

今も2人は「×」印をその背中に背負ってテレビを通して多くの人を笑わせている。それが「×」印だから笑えるのであって、○や☆では違ったような気がする。よかった、「×」が報われて。

 

番組の最後は若林さんがうっかり春日さんのアパートをむつみ荘だと口を滑らした時のリフレインで結ばれる。

青春とは後で振り返った時に恋しくなる時代をいうのだと思う。たとえ、その時が苦しくても、そんな頃が恋しくなることもきっと来る。

もう誰も住んでいないむつみ荘。そこからの最後の放送でオードリーはむつみ荘の思い出を恋しく振り返った。その瞬間に一つの青春が終わった。何故だかリトルトゥースもオードリーの2人と同じくらいその頃を恋しく思った。リトルトゥースの青春も一緒に終わったような気がする。

 

そして、明日の放送から、きっといつか振り返ると恋しくなるような放送を届けてくれるに違いない。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

 

 

そういうわけで、今私が読みたいことを書いてみた

 

どうもこんばんは。

 

先日、青年失業家の田中泰延さんの「読みたいことを、書けばいい。 人生が変わるシンプルな文章術」を読んでみた。

「書きたい」という供給と「読みたい」という需要は、誰もが書いた雑文が垂れ流されるインターネットという場の誕生のおかげでめちゃくちゃなアンバランスだ。地方競馬場で3万も馬券買えば狂ってしまうオッズみたいなものだ。馬券を買うことはおろか、競馬場に行ったことすら私はないが。

 

かくいう、この乱文だって、インターネットが狂わしてくれたオッズのおかげで垂れ流されているわけだし、ほんの数名の物好きな方が読んでくださっている。本当にごくごく寸毫の方だ。私はそれで構わない。別に何か仰々しいことを世間に表現したいとか、世界を変えるような大義名分があるわけでもないから、読者の人数は問題ではない。ただ、私が思ったことを後で読む私のために残しておきたいと思うから書くわけだ。

内容よりも読者の人数のことを考えれば「N○Kをぶっ壊す!」と言っている方がおそらく数はいくだろうし、滝川クリステルと結婚した方が、話題性がある。当然この場合は石破さんがいい顔をしないことを考慮する必要はあるけど。

 

読み手を想定せずに、自分が読んで楽しいものを書きなさいということについては実践済みだった。この本を買って読むまでもなかったな、と見くびっておく。

次に足を使って調べた事象に対して生まれる心象を起承転結で書きなさいというのだ。

これは目から鱗、鼻から鶏冠、ついでに、口から水掻きだった。特に、軍靴が聞こえてくるコード進行は、往年のビートルズのように聞こえ、それでいてどこかモーツァルトの落ち着いた響きを持って、三善晃の身の毛のよだつ不気味な音もした。そんなわけはない。そんな音楽を創れるなら田中さんは失業している場合ではない、すぐに伊福部昭の「管弦楽法」でも読むべきだ。

軍靴のコード進行は例えの引用だ。この本を読んでいない人は訳が分からないだろうから、音楽の勉強のつもりで読むことをお勧めします。読んだとて、三和音すら理解は出来ないだろうけど、それよか面白いことは見つかるでしょう。

 

では、今、私は何が読みたいかなと考えてみる。

実はここからが本題だったりする。とんでもなく長い枕だ。寄席の噺家だったら、これだけで高座を降りる時間だ。こんな噺、前座はなんとネタ帳をつければいいのやら。

 

職場のバイト君が夏目漱石の「こころ」について私に意見を求めてきた。

急なことだったので、「別に最高裁が何も言わないんだから、現行の憲法に反してないんじゃないかな?」と答える私。それは「違憲」だ。そんなこと言っていない。

本当のことを言えば、同じ頃に学習院漱石が講演した「私の個人主義」を引き合いに出して、個人に根ざした「自我」について互いに思うことを交換した。引き合いに出しておいて、「私の個人主義」を読んだのは高校生の頃で、マンモスと戦ってた頃の話だ。覚えているわけもない。そこで読み返してみた。

 

冒頭の漱石学習院で講演をやるまでのはこびの件はおいておく。そして、漱石は学校を出て、教員時代の不愉快の話をする。別に、教育者としての志があったわけではない漱石。ただ、語学に長けていただけでやり過ごす教員生活は「なにかをやり遂げたい」と思う漱石にとって、漱石を閉じ込め、身を封じる「嚢(ふくろ)」だったのだ。この嚢にとじこめられ、先の見えない心持ちが不愉快だったのだ。漱石が28歳。のちに「坊ちゃん」の逸話となる松山での頃の話だ。

そんな袋小路の漱石は国からの勧めで、何の目的もなしにロンドンへ留学する。そこで、日本人ということを再認識し、日本人としての自我、自己本位、そして、帝国大学で学んだ英文学の無意味を思い知り、文学の本義を問いただそうと試みる。それこそが「嚢を破る錐」であると。何を成し遂げようか見つけられず、陰鬱とした漱石。やっとロンドンでその懊悩の濃霧が晴れた。この時、漱石33歳。

 

ああ、今私は教員なんだ。私は今松山にいる。嚢の中だ。懊悩の濃霧だ。

 

ちょっと前に「やりたくないこと」が多すぎるとぼやいた。

理不尽の握り - AM1:00-3:00

 

しかし、これは私を不愉快の中に閉じ込める嚢を破る錐を本気になって探してないんじゃないか。お札になるような人だって33歳までうだつが上がらず、鉱脈を掘り当てようと鶴嘴を振り下ろしていたのだ。25歳の私よ、せめて鶴嘴ぐらい握れよ。

その後、漱石は38歳で「吾輩は猫である」を発表する。

 

いま、私が読みたかったものは、今の自分の状況を偉人と比べてさほど劣っていないし、卑下することもない。ただ、本当に自分のやるべきことをやっているのかと問答し、鼓舞する文章だったのだろう。

 

これからも自分が読みたいことのために書き続けます。それがたまさかみなさんも読みたいものであったらいいなと。まあ、ハレー彗星に跨った恵比寿天が、ディープインパクトに跨った武豊に勝つくらいな奇跡でしょう。

意味がわからん例えだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

「太宰治を全部読む」併設のお知らせ

 

どうもこんばんは。

 

この記事はただの宣伝です。

この度、敬愛する作家太宰治を全部、順を追って読もうということで、

太宰治を全部読む

というブログを併設する運びとなりました。

 

こちらは、今まで通りに日々のこと、習作(最近、めっきり机に向かってないけど)、思索の断片を残します。

あちらはただ、太宰の全集を頭から読んで感想を書いていきます。

宜しかったら、合わせてどうぞ

 

ただの宣伝でございました。

 

はじめに - 太宰治を全部読む

KERA CROSS第一弾 「フローズンビーチ」(@シアタークリエ)

 

どうもこんばんは。

 

先日、日比谷のシアタークリエにて「フローズンビーチ」を観劇。

私の大好きな劇作家ケラリーノサンドロヴィッチさんの過去の戯曲に新たな演出家の元で違う形を与えようという企画、「KERA CROSS」の第一弾。岸田戯曲賞を受賞した「フローズンビーチ」を鈴木裕美さんが演出。

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まずもって、役者陣が良かった。

普段は稽古をしながら、ほぼ当て書きのように脚本を書くケラさん。私はそんなケラさんのスタイルから、初演のキャストが一番芝居を面白くするんだろうと思っていたので、ケラさん以外の演出家が初演のキャスト以外で打つこの企画自体をちょっと懐疑的にみていた。

 

それがだ、新しいキャストでもかなり面白かった。

特に今回が初舞台というブルゾンちえみさん。初演では犬山イヌコさんが演じた役。ちょっと思考の方向が斜め上で、思ったこと、感じたことに素直すぎるが故に行動にも突拍子のにところがある市子という難しい役だ。それを見事に演じ切ったブルゾンさん。初舞台の域をはるかに超えた大熱演。それも、犬山さんの踏襲でなく、新しい市子を見事に人物像から作りだし。サイコがかった発言に幾らかの愛嬌と説得力を持たせるのはすごく難しいことだ。

 

時代設定が1987年から8年ごとに3幕にまたがるため、話題の中にはバブル期を思わせるものや、昔懐かしいような時事的なセリフが随所に散りばめられている。しかし、今回の演出はあえてそのまま残したものであったが、当時のギャグがちゃんとおもしろく、特にブラックユーモアを笑わせる空気感が出来上がっていた。

「めくら」という今では差別用語と糾弾もされかねない言葉で笑わせ、オウム真理教に入信した千津をいじって笑わせる。

 

ブルゾンさんの熱演といい、ブラックユーモアといい、舞台上の演劇の完成度が客席の空気感までもを作り上げていた今回の作品。舞台から空気をつくことが何よりも難しい、いかに観客を舞台上の世界観に取り込み、同じ空気にするか。言い換えれば白けさせないか。

難しい台本を丁寧に読み込んだ故に出来上がったなんとも言えないあの空気は、今回の鈴木ひろみさん率いるカンパニーの大成功だった。素晴らしかった。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

 

理不尽の握り

 

どうもこんにちは。

 

最近、やりたくないこととどう向き合うのか。それが私の中で大きな課題になっている。

人生はやりたいことがアホほどある。それにしてもこの量はアホだ。

しかし、それと同じくらいやらねばならないこともある。こちらもアホほどある。アホとアホとがせめぎ合う。こりゃ、新喜劇だ。ドリルすんのかい。

 

やらねばならないことの半分くらいはやりたくないことだ。やりたくないのにやらねばならない。やりたくないことをなんとかやっても、もうすぐ目の前には次のやりたくないことが構えている。仕方がないと、それに取り掛かっているうちに脇をやりたいことが何食わぬ顔で通り過ぎていく。やりたくないことを片付けた時には時すでにお寿司、いや遅し、何食わぬ顔で私の脇を行くやりたいことは背中すら見えない。見えるのは前からズシンズシンとやってくる次のやりたくないことだ。

 

言い間違いのついでにお寿司の思い出。

昔、家族で回転寿司に行くと、私はまずかけうどんを食べることから始めるのだ。寿司屋に行ってうどんが食べたいわけがない。それでも、両親は食べ盛りの私がいきなり寿司を食べるよりも、うどんをお腹に入れてからの方が経済的だと言うのだろう。食べたくもないうどんを食べさせられる私。うどんを食べる私の脇を流れるカンパチ、鰹のタタキ、赤身のマグロの握りたち。目の前の食べたくないうどん。

 

まさに今、私の目の前に列をなすやりたくないこと、脇を流れるやりたいことと同じじゃないか。

なるほど、あの時の両親は回転寿司を通して、不条理なやりたくないことに満ち満ちた大人の生き方を訓化していたわけだ。ありがたいうどんよ。

 

いやいや、んなわけあるか。本当に私のことを思うなら、うどんを食べずに空の胃袋に一皿目の寿司を入れる方法を教えて欲しかった。

 

私が今模索しているものはそれだ。

目の前のうどんは要らない。欲しいのは寿司だ。

しかし、社会というこんなに狭苦しいところで生きていると器が空になったと思ったそばから、うどんが追加される。そばからうどんだ。ややこしい。一応「、」入れたけど。

 

この問題、何がおっくうだって、99%はやりたくないし、煩わしいし、顔も見たくないというネガティブな感情なのだが、たった1%の愛着が湧いてしまっているのだ。こうなってしまうと、やりたくないことが振り切れない。

仕事なんか今すぐやめたい。もう明日から行かない。これからはずっと家にいる。なんてことは可能不可能で言えば、実は可能なんだけど、これが不可能なわけだ。職場でお世話になった人への感謝とか、慕ってくれるアルバイトたち、このたったの1%が可能を不可能にする。

不可能を可能にする1%はエジソンの努力、可能を不可能にする1%は私の愛着。

 

しかし、この振り切れない愛着って、響きがいいようだけど、周りを敵にしたくないと言う自分可愛さからきているものでしょ。振り切ろうとすれば、愛着が短刀に突然に変わる。私は必ず傷付く。でも、ストレスを抱えて、脇を流れるやりたいことに目をつぶることだって自傷していることと相違ない。とくとくと血が垂れている。

 

そう、どちらにしても、私は必ず傷付く。血は見るのだ。

 

これには抗えない。では、私はどうするのだ。

会社の人手不足という都合で、やりたかった調理を離れ、接客をさせられる。圧倒的に増える就業時間。脇を流れるやりたいことは前よりもその速度を速めていく。回転寿司なら遠心力で寿司はすっ飛んでいる。

仕事で埋まっていくスケジュール。気付くと終わっている行きたかった芝居。

 

要するに私は疲れている。

これ以上、流れる血がないよ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

KERA MAP#009「キネマと恋人」@世田谷パブリックシアター

 

どうもこんにちは。

 

木曜から金曜にかけての話。

 

麻痺して感覚のなくなった睡魔と疲労とを連れだって金曜昼間の八王子から三軒茶屋へ。

木曜の深夜、江ノ島の職場から終電で八王子へ。コンビニを経営する同級生を訪ねて、朝までカラオケ。立ち食いそばを食べてから、殺伐とした街中の殺伐としたビルの中の出来合いみたいなスーパー銭湯へ。くだらないことから、互いの未来のことを語る。はたから見ればくだらないことが当人たちには最もらしいことだったりする。

金曜の八王子の朝は、私たちと違う意識の中で生きる人たちが意識のない曇り空の下を歩いていた。

 

京王線の下高井戸から世田谷線へ。

車窓から見える東京人の暮らし。すぐそこの手の届きそうな無愛想な紫陽花。手入れされてない感じがいかにも東京だった。同じく人の生活の中を織り行く江ノ電の紫陽花はそうは行かない。観光客のために三つ指をついて咲いている。

そんなことを思っていると、読もうと思ってカバンから出していた本を開く間も無く終点三軒茶屋に着く。

 

三軒茶屋世田谷パブリックシアターKERA・MAP#009「キネマと恋人」を観劇。

木曜の昼間に電話して、なんとか当日券を取った席。補助席といえ一階席の一番後ろの席。立ち見が多い中で、座れただけでも儲けもんだ。

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3年ぶりの再演。キャストが初演と同じメンバー。箱が少し大きくなる。

そんなことはどうでもいい。

 

架空の方言がこだまする架空の地方の島。映画に恋するヒロインが映画の中から飛び出す侍とその侍を演ずる役者との間の恋心に揺れる物語。現実には存在しない侍。華やかな東京で暮らす高嶺の花的役者。人格は全く違うのに、並んだ顔は全く同じ。

映画への愛、恐慌の荒んだ世相、時代を思わせるロクでもない亭主との愛のない生活、怒られてばかりのレストランの給仕、田舎町特有の閑散とした変わり映えのしない未来。細かいことが隅々まで書かれて、演じられている。ヒロインにとって映画は面白くない現実から逃避するための桃源郷なのだ。

舞台に現れたスクリーンと生身の人間の芝居との見事な融合。CGを使わずに目の前で起こる素敵な奇跡に私たちは終始ワクワクする。スクリーンの中の役者がスクリーンの外の生身の役者を目で追う時まできっちりと演出されていて、本当に2つの異次元が1つになった不思議な舞台上。

映画が起こす奇跡に翻弄され、映画に狂わされるも、やっぱり映画に救われるヒロインのその純情さがなによりも美しかった。どんな時も映画を思う気持ちだけが前向きに彼女を突き動かす。

 

映画も芝居も実生活には要らない。なくては死んでしまう人間などいない。

でも、なくてはいけない。誰かの人生にはなくてはいけない。

タバコが吸われるように、酒が飲まれるように、音楽をイヤホンで聞き歩くように、束の間にコーヒーを飲むように、何かの折に映画を、芝居を観に行く。

そんなことで、生活の憂さが解決することはない。観たことで仕事ができるようになるわけでも、銀行預金が増えるわけでも、嫌いなネギが食べれるようになるわけでもない。観劇中の3時間のワクワクとその感動の余韻が数日残るだけだ。

でも、生活において、大切なことは生産性があることだけではない。

何も残らなくても、意味のあることはある。

 

ラストシーン、取り残されたヒロインが暗い顔で入る映画館。スクリーンを見上げているといつのまにか笑顔になっている。妹と一緒に声を上げて笑っている。

きっと、映画館を一歩出れば、映画俳優に取り残された切なさや、やるせない旦那との生活が戻ってくる。それはスクリーンの中では演じられない生活だ。

それらを忘れるほんの些細な時間はヒロインにも、私たちにも大切なはずだ。

キネマと恋人

キネマと恋人

 

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

桜桃忌

 

どうもこんばんは。

 

中学生の夏、初めて太宰治を手に取った。数ページ読んで閉じた。何が何だかわからない。彼は何に失格したのだろうか。

 

高3の夏。2年付き合った彼女と別れた。人生100年の2年ならば、さほどでもないが、高校生活3年の2年は大きい。私はすがるものが欲しかった。

予備校をサボって入った市役所通りのTSUTAYA。たまたま目に入る太宰治。手に取ってレジに行く。彼女との夏祭りで使うはずだったお小遣いはもう用無しだ。これで傑作選を買う。最初のページをめくると、いつか挫折した「人間失格」がページの中央に黒々と印刷されていた。

当時の私がすがるには物を知らない若さも手伝って格好の杭だった。青春の傷を麻痺させるには麻酔が効きすぎるほどの特効薬だった。

 

それ以来、太宰の全集を求めて、読み漁った。代表作から初めて聞く短編まで、全部読むのに1年はかからなかった。

人間失格」「斜陽」の太宰は陰気で根暗だが、「トカトントン」の太宰はちょっとユーモラスでかわいらしかった。色々読んでいくと、太宰ってなんだか思っていた人間じゃない。基本は照れ屋で、恐る恐る冗談を言う。「大丈夫、面白いセンスだから自信をお持ちよ」と励ましたくなる。かと思えば、登場人物に任せて批評家や世間にものを申す。そんな時には結構大胆な事を言う太宰だ。


そんな太宰が生まれてから今年が110年目。

今日は、といっても日付が変わってしまったから昨日だ、愛人と三鷹玉川上水に入水した太宰が見つかった日。ファンは今日を作品名にちなんで「桜桃忌」と語る。きしくも誕生日だった。

10人の愛人と手を切っている最中の田島を朝日新聞の紙面に残して、グッドバイした。

 

桜桃忌には極力、三鷹禅林寺で太宰の菩提を弔う。

帰り道には玉川上水をちょっとぐるっと回って駅に向かう。眩しいくらいの日差しを懸命に反射する水面とその脇の紫陽花から強い生命力を感じる。その生命力に対峙するように、でも、同時に感じさせる川の流れの穏やかさ。こんな優しい川で人が死ねるものだろうか。優しい川だからこそ、太宰は死ねたのか。

 

太宰はいい季節に死んだ。

その季節は、ひとりの気弱な男が時には酒に逃げ、時には女に逃げながら、ひっそりと世間と戦った奮闘記を読むにはいい季節だ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。