本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。茅ヶ崎の海辺からコカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

本屋さん、ごめんなさい

 

どうもこんばんは。

 

人生を前者と後者の二つに分けるとしたら、私は間違いなく後者だ。

つまり、いるかどうかもわからないレシートをどんどん財布に詰めて、無駄に紙切れを後ろポケットに入れて歩く人種だ。

 

本屋で取り置きをする。控えの伝票を受け取る。受け取りまでになくさないように財布に入れる。控えの伝票は店舗到着の連絡までにレシートとレシートに挟まれる。書店から到着の連絡が来る。控え伝票が必要になる。レジまであたふたしてもレシートにまみれた伝票は見つからない。結局、名前と電話番号からデータを検索してもらう。後ろにできている列。ごめんなさい、本屋さん。

 

ふと、これを書きながら、私が無駄に持ち歩いているレシートの束はどれくらいのカロリーを消費しているのだろうか、と疑問に思った。

地味に毎日持ち歩く財布だ、きっと本屋さんを困らせる以外に何かメリットも働くに違いないと言い訳がましくなったのだ。

私の身長体重では10kgのものを1時間持ち歩いて、516kcal消費するらしい。これはシャトレーゼのショコラモンブラン一つ分。レシートの束は約10gだ。ショコラモンブランの1/1000相当。つまり、あのショコラモンブランを1000個に切ったうちの一つ分は消費しているらしい。シャトレーゼさんには悪いが、あのモンブラン、1000個に分けるにゃ、小さすぎる。

もちろん、シャトレーゼさんだって、1000等分されるとははなから思ってなかっただろう。

(参考サイト)

https://www.eatsmart.jp/do/caloriecheck/work/check

https://www.eatsmart.jp/do/caloriecheck/list/param/amount/516/operatorKbn/01/offset/70/prevCondition/00%252C100101516/nutritionCode/0101/paging/YES/category/00

 

私がレシートを貯めておくばっかりに、本屋さんに列を作るわ、あんなに美味しいシャトレーゼさんに文句つけるわ、たまったもんじゃないね。

くだらないことを書いて時間を過ごしたな。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

ちゃんとした絶望しよう

 

どうもこんにちは。

 

さて、何について書こうかな。

キーボードを前にして、いつも思う。

 

ついさっきまでは、どうでもいいことやくだらないことを考えて、これ掘り下げてブログにしようとか思ってるんだけど、頭の中には見事に残らず、気まぐれで書いたメモが時々、手帳の隅に残るだけ。

人間が考えることなんてそんなもんだってことでしょう。

何を書くか、考えるところだけで、時間は過ぎていく。

 

アルバイトの男の子で、プロのサッカー選手として、ブラジルで契約したものの振るわずに、日本に帰ってきた子がいる。その子は本当はサッカーをしたいんだけど、限界が見えてしまった。仕方なしというか、そうせざる得ないからか、別の道を生きるために不本意な専門学校に通おうとしている。彼はきっと、彼の人生で一番理不尽で残酷な時間を生きてるんだろうなと話を聞いていた。

プロのサッカーってのはちょっと話が大きいが、大人になれば誰でも程度の差こそあれ、絶望に一度は襲われる。自分ではどうにもならない理不尽に見舞われて、思ってもみなかった今を否応なしに生きることになる。

しかし、起きている現実が、今が、全て正解ならば、泥水をすするような毎日を送るしかない。いつしかこの味に慣れて、なんでもない日が来るまで。

彼はきっと初めてすするこの味に悔しさと惨めさとを我慢して飲み込んでいるに違いない。

 

私はいつ、この味に慣れたのだろうか。

今も心のどこかで苦々しい思いと生きているような気もする。彼のプロサッカー選手というような具体的な理想でなく、まだ私にも見えていない生き方が出来ていないことへの辛苦な気もする。

この歳になって「まだ見えていない」というのが情けない。しかし、情けないと私を笑ったあなたに聞きたい。理想の自分が明瞭に見えていて、それに行き着けなかった絶望を経験出来ただろうか?

いや、ちゃんと行き着いたから絶望なんか経験していないというなら、それはそれで結構。ただ、多くの人はいつのまにか、何が破れたのかも分からぬままに、まともな絶望も経験せずに、ただ何となしの「こうじゃないんだよな」って人生を生きてやいまいか。

いつのまにか混じっていた泥水が濃くなっても、気付かぬふりして生きてやいまいか。

 

私はちゃんと向き合いたい。どうして泥水が濃く、汚くなっていくのか。

そして、出来れば泥水をすすらずに済む道を探りたい。しかし、人生はもうほとんどが決まったようなもので、抗い難いこともある。必要ならば必要な絶望をしたい。

 

なんだか分りもしないうちに、諦めの泥水をすする大人ばっかり見てきたせいだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

諸雑記

 

どうもこんばんは。

 

毎度のことながら、仕事にかまけて、このブログの更新を怠ったり、読書に勉強が疎かになる。

いや、疎かになるって言ったって、義務ではないし、むしろ、仕事が優先されているんだから、社会人としては至極真っ当だ。

 

そうか、私は社会人だったんだ。すっかり忘れてしまっている。

そもそも社会人とはなんだ?

学校を出て、自分で生計を立てている人のことか?

すると、学校は社会ではないのか?

いやいや、赤の他人と人間関係を築いて、自分の立場を守らなくてはいけないんだから、学校という社会も規模は小さいけれど、それなりに厳しい社会だと思う。だとすれば、学生も社会人じゃないか。

 

閉口するような都知事選の結果。

誰がいい悪いではない。全く機能してない民主主義の根幹の制度。

1933年にドイツでヒトラー率いるナチス党が第1党に躍り出た選挙で、投票率は84%だったそうだ。民主主義がうまく機能したって、ナチス台頭のようなことがありうるのだ。55%なんて、どんな東京になっても何も言えまい。悲しい気もするし、恐ろしい気もする。

どうして、学校でもっと私たちが生きることについてと同義に等しい民主主義、選挙制度について教えてくれないのか。国民が知らない方が都合の良い人間が、保身のために教えないのか。

 

月曜の夜、小田急藤沢駅で途中下車。

ホームの端から、反対の改札まで電車6車両分の長さ、ホームを歩く。自分が乗ってきた相模大野に向かう電車には、家路についたサラーリマンが多い。ほとんどの人間がスマホを覗いている。便利と仮初の娯楽に溺れて、考えることをやめてしまったゾンビみたいな人間が同じ首の角度で並んでいる。気持ちが悪かった。

 

簡単なゲームをして、ポイントを集めて換金するアプリ。良い歳の大人が休憩時間にこぞって一生懸命になっている。ゲームが楽しいのではない。ポイントを集めるのが目的だろう。それだって1時間やって、大した額になるわけではない。それでも、一銭にもならないよりかは、とスマホにかじり付いている。ゲームで得るポイントはどこから出ているのか。アプリ内でこざかしく現れる広告費が出所なんだろう。そんなふうに広告を打たねば、採算の取れない商品なんか世の中にあってもなくてもいい。あってもなくてもいい商品のために、やってもやらなくてもいいアプリが存在しているのだ。飽和した供給が生み出したハリボテの需要。こんな愚かなものが溢れていくのに、地球はどこまで耐え切れるのか。

 

こんなことを思うだけで、どんどん虚しくなる私。

どこにも行きつかない。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

そういや、江ノ島に本屋がなかったなー天狼院書店、「古くてあたらしいしごと」、錦糸町へ向かう車窓でー

 

どうもこんばんは。

 

先月までの在宅無職が懐かしい。いまや、休業中の遅れを取り戻そうと、14時間労働が週に5日か6日も続く。こういう生活の中で、インプットに割く時間もアウトプットする時間も過酷な労働による疲労に飲み込まれてしまう。

何かしたい、何か動かなくては、という気持ちに疲れ切った体はなかなかついてこない。自粛中に買ったギターも練習時間が取れず、ドイツ語の勉強も滞ってしまう。

体力のなさを言い訳に楽な方に行ってしまう自分。でも、本当にやりたいことは、楽な方にはない。この疲労を物ともせず動くことがやりたいことを形にするのに。なんて、いつの間にかの落ちてしまった朝、出勤までのコーヒーを飲みながら、苦い気持ちが染みる。

 

江ノ島の国道沿いに新しく出来たスポット「ENOTOKI」が8日の月曜日にオープンした。

4月にオープン予定が延期になっての、この度のオープンだった。

毎日、灯りが灯ることのない建物の前を自転車で帰る。聞いたことのないカフェや焼肉屋。中で、私がずっと気になっていた看板が「天狼院書店」だった。天狼院書店「湘南天狼院」 |ENOTOKI(エノトキ)ショップ紹介

字面のせいか、なんだかうっすらと雲のかかった月明かりに遠吠える狼の影絵を思わせた。シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」のような。本当に字面だけのイメージで。とても本屋とは思えない。ちょっと魅惑的で怪しげな響き。どんな本を扱っているのだろう。毎度の家路で関心を寄せていた。帰る頃には怪しい本屋の記憶は雲隠れしてしまっているから、わざわざ検索してみることもなかった。だから、オープン当日の昼休み、14時間労働の1時間休憩で足を運ぶまで、概要は一切わからなかった。ただ、イメージの狼だけ。1時間の休憩時間を削ったのには、本屋に行くという気概より、疲労に押し切られている生活の中で、何か自分を説得できる行為のかけらが欲しかったからかもしれない。

 

今ではすっかりお馴染みになった入り口の消毒用アルコール。たまにジェルのように濃度が濃いのは一体何者なんだろうか。そんなものを手にすり込みながら、本棚をぐるりと見渡す。奥はカフェスペースになっているので、扱う本自体はさほど多くないが、並んだ本にびっくりした。

 

「これはうちの本棚か?」

 

大好きなラーメンズ小林賢太郎の本、井上ひさし老師や谷崎潤一郎の「文章読本」、うちの本棚の顔ぶれがドッペルゲンガーのように並んでいた。

その隣の棚は動画制作に関する本、自己啓発本、などが並んでいる。

 

入り口を挟むように壁に沿っている左右に背の高い本棚。入り口正面にも同じタッパの本棚が両面に本を抱えている。ここにある本棚はそれだけだった。本に囲まれて、本から声をかけれるには少ないが、その代わり、私が一度買おうか迷って手にした本が至る所に並んでいる。次あったら、買おうねって約束をした本たちだ。それがこんなにいっぺんに現れてはどうにも約束は果たせまい。私の不義理を許してほしい、約束の本たちよ。

面白いコンセプトで売られているガチャガチャのような中身のわからない本。書店にまつわることを書いた本だけが集まっているコーナーもある。

その中で、目と心に訴えきたのが「古くてあたらしい仕事」(島田潤一郎)だった。時々Twitterなんかで目にしていたので、なんとなく話題だという情報はキャッチしていたのだが、そこで止まってしまっていた本だった。元々、本をネットで買わない私は、口コミの評価をあてにしないし、書店で手にとって実物とのインスピレーション(恥ずかしいくらいカッコつけた言い方に当人もびっくりしている)で選びたかった。だから、SNSで話題でも、書店に並んだ実物でなければ、私にとって本と出会ったとは言わない。

この本も本当の意味で私とはまだ未邂逅だったのだ。

それが私の第二の書庫とも言えるこの書店でいよいよ巡り合った。これは買わないなんて不埒なことはできない。

再会した本を4冊、初のお目見えのこの本、計5冊を手にしてレジに向かう。

 

1時間の休憩はあっという間に終わって、仕事に戻る。

普段、ご飯と仮眠で終わってしまう1時間を本屋で本を買うという有意義な時間に変えられたことだけで、気持ちが前を向く。買った本のページは一枚もめくっていない。この本が私をどう変えてくれるか、読む時間を後悔しない本かどうかも分からない。ただ、本を買ったというだけで、何かに一歩前進した気になれた。

 

仕事が終わって、20時過ぎ。海沿いの大手のコーヒーチェーンで一番安いサイズのアイスコーヒーを買って、ページをめくる。

一人で、復刊する本の選書から、関係者への連絡、販売までする著者が出版業界に乗り出すまでのプロローグを読んで、ページをめくる手が止まる。今の私と、今進行している、この本のページをめくる私と同じ人間がそこにいたのだ。

 

陰鬱とした著者はその気分に耐えられず、古本屋に行く。そこで本を買う。そうすると、本を買ったという事実、家に本が一冊物理的に増えているということが、何か物事を進めた気にしてくれた、というのだ。

 

分かる。その気持ち。その本との出会いがもたらしてくれる変化ではない。本が増えた、ということだけで、私にとって大きな変化な時があるのだ。

それは世界になんの変化も与えない。一冊の本がある本棚からある本棚に数キロ移動したに過ぎない。この変化を知るのは買った私と売った店員さん、そして、パソコン上の売り上げデータだけ。小さい小さい変化だ。

それだけで満足する著者。その気持ちがよく分かる。

何を隠そう、私はその微塵の変化をこの本に求めたのだ。同じことをこの本に求めていた。

 

このエピソードだけで、私はこの本を買ってよかった。天狼院書店を覗いてよかった。

小さい変化のつもりが、私の気持ちを大きく前に進めてくれた。

 

まだ、しばらく、身動きの取れない、もどかしい14時間労働の日々は続く。

本当はもっとコーヒーに関わる仕事に動きたいな、なんて思っていたのだか、このご時世で生活の舵を大きく切るには、勇気がいる。その意味で、生活の半分を仕事に浪費している生活から身動きが取れない。

それでも、この本との出会いは身動きが取れないながらに、動ける範囲で歩き回る精神的体力を回復してくれた。それさえ、回復していしまえば身体的体力は多少無理が効く。

 

そんな体力で、今、1週間で唯一の休みを使って、コーヒーの焙煎の師匠のもとへ向かう。

今動ける一番遠い錦糸町へ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

コロナの後をちっとは楽しく生きたい

どうもこんにちは。


仕事のない「おうち時間」は退屈を極めるのだが、仕事が始まると、途端に休みたくなる。

仕事といっても、営業を再開したばかりの江ノ島のお店にはお客さんは多くない。ガランとした客席が平気で1、2時間続く。


お店の外に出て、気持ちの良い陽の光を浴びると、右手のずっと先に煌々と輝く海が見える。船宿が並んで、防波堤があって、その先に小さく海が見える。それでも小ささの割に実に眩しいくらいに海は光っている。三島由紀夫の「潮騒」の比喩が浮かんでくる。

今まで、店先から見える小さな海の水面がこんなに輝いているとは知らなかった。思えば、ついこの間まで、店の外に出るなんてのは長い行列のお客さんを案内する時で、店先で目にする水面といえばお客さんに配る紙コップの水くらいなものであった。

ちょっと先の輝く海の水面になど、目も暮れる余裕がなかったのだ。

私が入社してから、こんなに店の周りをゆっくり見渡せたことがなかった。海の水面に気付けたのは、こんなご時世だからだろう。

「コロナのせいで」と言いたいことは山ほどある。観にいくつもりで買った芝居のチケットが何枚無駄になったことだろう。何人の友人との約束が延期になったことだろう。

そんなどこにもぶつけようのない苛立ちを抱え込んでもしょうがない。そんなことよりも「コロナだから」と言える海の水面を見つけることの方が肝心ではないか。

店内のあちこちにある「コロナだから」見つけられた「海の水面」を大切にして、お客様をお待ちしていることが、お客様と我々とを繋ぎ合わせるために、我々にできることではないかと思う。


というのは、お店で発行する新聞用に書いた軽いエッセイです。

なんとも当たり障りのない平べったい文章で、自分の保身の卑しさが滲んでいる。


でも、内容はそんなに悪くないのではないかと思う。

コロナのせいで失われたものばかり追っていてもしょうがない。大きな代価は払ったものの得たものも少なからずあるのだ。今はその希有な希望で、次にいくしかないと思う。

これは、お店用に「お客様と我々」なんて言ったが、生活全般におけることだと思う。

コロナのせいで夏のボーナスは失ったが、ギターを買う機会を得た。新しい音楽の道を得たのだ。

コロナのせいで「桜の園」「欲望」と2作もケラ作品を見損なってしまったが、「12人の優しい日本人」の朗読版を、ほぼ初演キャストで見ることができた。

そういうことだ。

総理大臣の一挙手一投足が、我々の生活に直結することを改めて感じることができ、為政者の選び方について、思い直すきっかけになったではないか。


もう失ったものに苛立つのはやめて、得られたものについて考えたい。そうでなくては、次に行けないではないか。


では、こりゃまた失礼いたしました。

 

文化自給自足生活

どうもこんにちは。

 

文化的自給自足をしたいと思う。

自分で享受する文化的なものを自分で賄いたいのだ。


家で野菜を育てれば、何か身になる資格勉強をしていれば、人はその時間を有意義だと言う。

なんかしらの結果が得られるからだ。その結果を生まない時間は、世間では無駄なのだ。

それこそ、流行作家になったり、名声のあるピアニストにならなければ、文化的な時間は無駄なのだ。そう、無駄。

私がこれを書く時間も、それを読むみなさんも、共に無駄な時間を過ごしているのだ。そう言うことになる。


結果を生まないことが無駄だという考え方は、私のそれとは相反する。

行為そのものを楽しむことに、どうして意義が認められないのか。なかなかもどかしい。


この自粛生活でどれだけのその無駄が失われたか。どれだけ踏み付けにされて再生が難しくなったことか。


本当に我々はあれだけ多くの犠牲を払って自粛する必要があったのか。

一度、そこに立ち返って、この対応を反省する必要があるのではないかと思う。あまりにも失われてしまったものが多すぎる。決して、命の重さを軽んじているわけではない。確かに新型コロナで失われた尊い命に対しては、最大限の喪に服すべきだ。

しかし、それをいい看板に、我々は正確な情報のもと、正確な対応をしていたのか。

マスクのために大枚をドブに捨てる、給付金の対応が遅い、休業補償の給付がホンの微々たるパーセンテージだとか、確かに政府は何もしていない。何もできていない。一つもだ。それもそれで愚かしいと思う。


でも、そんなことよりも必要以上の自粛脅迫で、我々は失わずに済むものまで奪われたのではないか、と思う。何もしない自分たちを棚に上げて、我々は身を切ることのみを強要された。その結果、死守しなくてはいけないものを、易々と国は奪っていった。


それをどういう手を使っても取り戻すべきではないか。取り戻さなくてはいけないのではないか。そんなことを最近考えている。


コロナと生きていくための新しい生活という、さも我々に寄り添ったかのような浅はかな提案。我々が求めているのは、そんな茶番にもならない馬鹿げた冗談ではない。再生が不可能になりつつあるつい数ヶ月前の文化的な生活だ。国に殺され、戻ってこない生活だ。私はそれをなんとかして、生き返らせたい。


なぜなら、それは無駄ではないからだ。

長い時間をかけて、人間生活の営みの中で不必要なものが育まれるわけがない。ギリシャ悲劇が生まれて、すぐに今の多様な表現で、深みのある演劇になったわけがない。何千年とかけて、歴史に残らない駄作が大量に生まれて、その中から、太平洋のど真ん中に落ちた100円玉を見つけるようなわずかな確率で名作が生まれ、そのわずかな確率を重ねて重ねて、長い年月をかけて築かれたものなのだ。

それを何者できない愚かしい一部の人間によって、たった一瞬にして、また太平洋に100円玉を投げ返すがごとく、失われていいはずがない。文化を守るという仕事は、個人の仕事ではない。今まで何千年という長い間に、関わってきた全人類を背負い、未来永劫の全ての人類に引き継ぐ仕事なのだ。マスクも配れない浅ましい人間ができる仕事ではない。

今、失えば、この灯火を吹き消してしまえば、また、火が灯るまでに途方もない時間を有する。


自粛脅迫にはその責任と覚悟があったのか。

あるわけがない。そんなことに考えが及ぶ人間ではないのだから。目先のことしか見えない取るに足りない人間なのだから。


守るためには、文化のピラミッドを崩さないためには、裾野を削らないことだ。

自粛によって経済も末路を辿り始め、裾野で営まれていた文化は困窮に瀕している。これをなんとか少なわければ、ピラミッドの頂はバベルの塔も同然だ。

そのために、私は自分の文化を自分でまかない、進んでその裾野となりたい。


そんなことを考える。

戯言に過ぎないな。


では、こりゃまた失礼いたしました。

私もすっかり日大二高、97年卒

 

どうもこんにちは。

 

今週は土曜日の衝撃的で歓喜的な告白のおかげで、気持ちの全部を憂鬱に圧迫されることなく、過ごせそうだ。

オードリー春日さんの第一子誕生報告だ。

番組の後半、いつも通り若林さんのトークの後で、のらりくらりと話を始める春日さん。

あのー、まあ、ちょっと先週の話になっちゃって申し訳ないんだけど、今週、そのことよりもデカいことが起きなったからさ

先週の金曜日だな、5.8だな。春日、父になりましてね

父というか、ダディね

さも、なんでもなく、まるで、いつも通りリモート収録をしたかのようなトーンで話をしている。スーパーのレジ前で会計を待つ母親が買い忘れた牛乳を思い出すかのようなささやかさで、さらりと言った。

この一年、オードリーの2人のトークの中に奥さんの話が出てくると、たまらなく嬉しくなってしまう。

これから、春日さんのトークにお子さんの話が出てくること、今からどれだけ楽しみなことか。

いろんな芸人さんのラジオ番組があり、それぞれの形があって、それぞれの繋がり方で私たちを楽しませてくれる。深夜ラジオは繋がりそのものだ。いつもテレビで笑わせてくれている彼らとの繋がり、そのものを楽しんでいるのだ。

 

先週、高校時代の友人がプロポーズされたと連絡をくれた。同時にその彼からプロポーズしたと連絡を受けた。

2人は高校時代、僭越ながら私がキューピットを務めたカップルで、万丈とは言わないまでの波乱はあったものの8年間ずっと一緒に来たのだ。隣で見ていた私なんぞは、「やっとか」という方が大きいくらい待たされたプロポーズだった。

でも、嬉しかった。気があって、昔から知っている友人が幸せになるというのはたまらなく嬉しいことだ。今から結婚式のスピーチをどうしようかウキウキしながら、考えている。パワポを使って、思う存分、祝ってあげるつもりだ。

 

春日さんの第一子誕生もこんな嬉しさだった。古い友人たちの幸せを喜ぶことに似ているのだ。いい意味でカリスマ性のない2人は憧れの存在というよりも、ずっと一緒にバカをやってきた悪友という感覚が近いのかもしれない。それはきっと2人のトークの随所に現れる高校時代の「おなじみ」が身体に染みついているからだろう。いつの間にか土曜の深夜は、私も日大二高97年の卒業生になっている。

そんな昔からの馴れ合いのような感覚がオードリーとの繋がりだ。土曜の深夜の繋がりなのだ。

 

自分のことで手一杯で人のことに構っていられない必死な世の中になりつつある。それでも、リスナーみんなの同級生の出産報告は自分のことを片手間に祝える幸福な報告だった。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。