本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。茅ヶ崎の海辺からコカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

私の好きなもの100のルーツ #1「サザンオールスターズ」

 

どうもこんにちは。

 

今年は何か一貫したテーマを設けて書きたいと思う。そこで少しだけ考えて、思いついたのが、私が気付いたら好きだったもの、今当たり前のように好きだと公言しているものが、いつから、どうして好きだったのか思い出してみようと。どうせならキリがいいから100個くらい。

そういうわけで「私の好きなもの100のルーツ」と銘打って、100の私が好きなものとの思い出に浸る時間を巡ってみたい。

 

さて、私が好きなものを語るなら、やっぱり第一回は「サザンオールスターズ」しかない。どう考えたってサザンしかない。誰が何と言おうと。

 

大人になってから聞く音楽に与える影響で、一番大きいのは、こどもの頃、車の中で聞いた親の趣味だと思う。

それでいうと、我が家は、母親が英語の通訳をやっていたこともあってか、常に英会話教材の参考音源が流れていた。こんなところに影響されていたのだとしたら、今頃はカーペンターズビートルズか、中学の英語の授業で歌わせられそうな音楽を聴いているに違いない。

私の音楽趣味に大きな影響を及ぼしたのは、中学の頃の部活の同級生たちに違いない。

 

今もサザンを聞くと思い出す原風景がある。

 

夕方、といってももう夜に近くてあたりは薄暗い。相模大野に向かう大きな通りから路地を一本入った先にある小さな公園は「松が枝公園」と呼んでいたと思う。

吹奏楽部の部員が数人、ブランコに乗ったり、ベンチに座ったり、風変わりな形をした滑り台に跨ったりして、話し込んでいる。

指揮者への愚痴、当時裏で隠れて(と言っても周りはみんな知っていたが、面白がって知らないフリして泳がせていた)付き合っていた部長と副部長への悪口、塾に行きたくない、そんな他愛もないことばかりを飽きずに土日の練習が終わるとまっすぐ家に帰らず、公園に自然に集まってはダラダラと話していた。

陽が落ちて、外灯が灯り出す頃、誰が解散をいうわけでもないのに、バラバラの方向に家路に着く。また次の日、7時の朝練で顔合わすのだから、名残惜しくも何ともない。

この時間が、私はすごく好きだった。

 

松が枝公園で、トロンボーンを吹いていた男の子が、学校への持ち込みが校則で禁止されていたiPodを使って流していたのが、サザンオールスターズだった。

サビになるとCMやテレビで聞いたことある曲がずっと流れていた。ちょっと年配の、でも高い声がキレイなおじさんが流れていた。

 

土日の練習がたまに休みになると、午後からみんなで最寄駅界隈で一番安いカラオケに集まった。

みんなが初めに歌うのは当時はやっていたポップスだった。

私とトロンボーンの男の子、打楽器の男の子との三人で、それぞれ配役を決めて矢島美容室を歌ったりしたことがうっすらと思い出される。大したものに抑圧された生活を送っているわけでもない中学生が、何かに解放されたかのようにここぞとばかりに騒いでいた。

それでも、どこかでみんなが飽きてきた空気が部屋中に蔓延して、ドリンクバーに行くのも面倒になって、氷の溶けたグラスをズズッとストローですする音とDAMチャンネルのインタビューの声とで、何とか沈黙だけは避けているみたいな時間が生まれる。

 

そんな時に、思い出したように入る曲が決まってサザンだった。

いつのまにか体に馴染んだメロディ。改めて画面に映る歌詞を見て、その内容の卑猥さに驚いたり、切なさを歌う詞に感傷的になったりした。

時間終了の電話が受付方コールする頃には、みんなサザンが歌い足りなくて、決まって延長した。そして、だれていた時間を毎回、後悔する。

 

私たちが所属していた吹奏楽部は、私たちの学校の中では割と精力的に活動していた方の部活で、顧問も熱心な人だったので、楽な部活とは言えなかった。夏のコンクール前や人前で演奏する直前は根を詰めて合奏したし、部員の集中力も高かった。それゆえに、時に息苦しいような雰囲気が部内に漂うこともあった。

そういう日は、いつもより長く公園にいた。いつもより長くサザンを聞いていた。

今には無いような一生懸命な時間だったな、と感心してしまう今の私。

 

サザンを聞くと、今もあの頃の若さ、というほど今の私も歳をとったわけじゃないが、を思い出す。あの頃から今現在の出来事まで、何かある度にそこには必ずテーマ曲のようにサザンの曲が流れる。

 

この頃、ちょうど付き合っていた人がいた。

中学生が付き合うというくらいだから、一緒に帰ったり、放課後に会ったりするくらいだった。どこかに出かける度に妹を連れてきていたのは鮮明に覚えている。多分、2人きりを照れていたんだろうと思う。

3年生の秋口に理由も言わずに一方的に振られる形で別れることになった。小さなメモ紙に「ごめんなさい」って丸っこい文字で書いてあった字体まで、くだらないようだけど、覚えている。

急いで、松が枝公園まで自転車を走らせた。いつものようにみんながいるのを見て、私は今、自分が悲しいんだってことに気付いて、思いがけず涙が溢れた。

みんながキョトンとする中で、1人、ホルンを吹いていた察しの良い男の子が「別離したんだな」って賑わう周りを制した。

サザンの比較的新しいアルバムの「キラーストリート」の中に「別離(わかれ)」という曲があった。ちょっとマイナーな曲で、この失恋があるまで私もそんな聞いてこなかった曲だった。どうしてだか、彼はこの曲に掛けたような言い方をした。

それから、一生懸命、毎日何度もこの曲を聞いた。この曲を聞いているわずかな時間だけは、大好きな桑田さんが私の失恋の為だけに憂いて歌ってくれている時間だと、不思議と悲しみを少しだけ癒してくれたからだ。

 

この曲を聞くと、いつもあの日の松が枝公園に戻る。

今、これを書きながら久しぶりに聞いてみた。詞を読んでみた。

 

涙とめどなく溢れくる
ひとりすずかけの並木路
君と幸福になると信じてた
愛の灯火が嗚呼 消えてゆく Hum…

 

まるでどしゃ降りの雨のように
身も心もすべてずぶ濡れさ
あの日去り際に僕の手を撫でて
「ちゃんと食べてる?」と 嗚呼 囁いた Hum…

 

悲しい恋の終わりは
予期せぬ運命(さだめ)のReincarnation
もうこれ以上辛い仕打ちはやめて Oh, so sad.
儚い命捧げた
彼女に最後の Celebration
嗚呼 身体中が弾けて散り
闇に溶けてく

 

君は白い花に埋もれて
微笑むように瞳を閉じていた
こんなお別れは淋し過ぎるけど
君の横顔は 嗚呼 綺麗だなぁ Hum…

 

優しい愛の言葉に
すべて身を任せ Sweet surrender
終わりなき夏に燃え尽きたのは人生さ

 

互いに指をからめて
交わす口づけは Warm and tender
もう帰らないあの日のまま
時間(とき)を止めたよ

 

(セリフ)
涙とめどなく溢れくる
ひとりすずかけの並木路
まるでどしゃ降りの雨のように
身も心もすべてずぶ濡れさ

 

夢の中で出逢えたら
忘れがたきはその胸に抱かれ何を語ろう
永遠(とわ)の愛しい乙女

 

悲しい恋の終わりは
予期せぬ運命(さだめ)のReincarnation
もうこれ以上辛い仕打ちはやめて Oh, so sad.
儚い命捧げた
彼女に最後の Celebration
嗚呼 身体中が弾けて散り
闇に溶けてく

 

今よく読み返してみると、別れてしまった女性はその後、亡くなっているように解釈できる。

中学生の淡い失恋を癒すにはかなりヘビーな内容だった。

 

それでも、あの頃の私は「涙とめどなく溢れ」きていたし、「愛の灯火が消えて」いったし、「身体中が弾けて散り、闇に溶けて」行くようだったのは確かなのだ。

 

高校生になってから2年くらい付き合った人との初めての会話もサザンだった。

今思えばすごい負けず嫌いな人だった。

 

吹奏楽部に入りたくて、受験した高校では、迷うことなく当然、吹奏楽部に入部する。

4月の入部したての頃、パートが決まるまで、定期演奏会に向けての事務作業をすることになっていた私たち一年生。

確か、パンフレットに掲載されていた協賛の広告を訂正するシール貼りをしていた時だった思う。もしくは、アンケートで配布する鉛筆にクリップをつける作業をしていた。

いくつかの机を向かい合わせて、黙々と作業していた。

 

何かのきっかけで、私たちは好きな曲の話を雑談がてらしていた。私はもちろん、サザンが好きだということを 自信を持って明言した。

すると、端の方に座っていた女の子が、「私もサザン好き」と食いついてきた。

私が「何が好きなの?」と聞くと、その子は「『Mr.ブラック・ジャック』って知ってる?」と自信満々にちょっと挑発的にすら思える語尾の上げ方で聞いてきた。

私は内心、こいつ嫌なやつだなと思った。というのも、サザンの中でもマイナー中のマイナーで、ファンでも歌える人は少ないだろう曲を上げてきたのだ。こうなると、私の中の嫌なやつも顔を出して、対抗したくなる。

「あー『キラーストリート』のディスク2のトラック6だ」とアルバム名だけでなく、2枚組のうちのどちらのディスクか、また何番目かまで、私は言い当てた。

向こうは、私のちょっと聞くなんて程度では無い、結構ガチなサザン好きを確認して、少し悔しそうに、「そうそう、あの曲いいよね」と話を終わらせた。

それ以来、私は、その子の中で、アルバムの順番まで熟知したサザンファンということになり、交際が始まってから、サザンに関して私に挑発してくることはなかった。

 

白状すれば、私はこの曲を当然知ってはいたが、そんなに聞いてこなかった。まして、キラーストリートに入ってる曲くらいにしか認識していなかった。

ただ、前述の「別離」の2曲先がこの曲だったので、私は何とか思い出せたのだ。

そのことは交際が始まってからは、おろか、つゆぞ彼女に話すことはなかった。

 

よくも10年も昔のことをこんなに覚えている。

久しぶりに「Mr.ブラック・ジャック」を聞いてみると、長かったようで、あっという間だった高校生の頃が蘇る。

やはりあの頃も一生懸命だったのだ。

一生懸命に部活をしていたし、一生懸命に恋愛もしていたと思う。

今、手を抜いているわけでは無いが、あの頃の一生懸命さとはベクトルがどこか違う。前に進んでいるようで、そうやってもがいているようで、実はずっと同じところにいたんだって、今になってわかるような気がする。

 

私の人生に起こる出来事には必ずBGMにサザンや桑田さんが流れる。

 

自分が何をしているのか、わからなくなることがあった。何がしたくて、どこに行こうとしているのか。

そんな時期によく、高校の同級生と深夜にカラオケに行った。そいつは今、八王子にいるので、回数はめっきり減ったが、たまに相模線の端から端まで遥々と行くことがある。

 

あの時間は何かを解決して、どうやって抱えているものを解き放とうかと思案する時間だったのでは無い。ただ、どうしようもない不安を騒いで忘れてしまいたいだけの時間だったのだと思う。

その後、眠さと気怠さと枯れた声と一緒に、6時からチェーンのカフェで働いていた。体力的にも恐ろしく若かった。

 

どちらからそう決めたわけでもないが、3時を回る頃になると、サザンと桑田さんしか歌わなくなった。

毎度、涙が出そうになるようなバラードも、悪ふざけで作ったようなエロい曲も、何でもよかった。

最後の方には必ず『Bye  Bye  My  Love』を歌うのだ。もはやマイクも使わずに、張り裂けそうな程の目一杯の声で叫ぶように歌った。

私はこの曲が好きだが、そいつと叫びながら歌うこの曲が一番好きだ。どうしてそいつがサザンを知っていたのかはよく考えればわからない。カラオケに行くようになった頃から、ずっと歌っていた。

 

私の中で『Bye  Bye  My  Love』という曲は、20代の頭の私とそいつのテーマ曲のような愛着がある。

何を血迷ったのか、私もそいつも、同じような時期に大学を辞めて、同じような時期に実家を出ている。

お互いに今も10年後はおろか、5年後くらい先のことすら、未定にしている。何かあれば、その時に悩んめばいいと思っているのだ。何かに耐え難いものに襲われた時は、深夜に叫びながら、私たちのテーマ曲を歌えばいいのだ。そうすれば、いつのまにか、どうにかなっているものだ。

 

サザンが好きで、なんで好きになったか、思い当たる節を手帳に書き連ねたら、結構な量のエピソードが出てきて驚いた。

本当はもう2、3くらい書きたいものがあったのだが、もうすでにそこそこの量書いてしまった。

書くほうも疲れたが、読む方はもっとお疲れのことでしょう。

 

なんか書いてて楽しかった。

 

では、こりゃまた失礼いたいしました。

 

改めて、私はなんで無意味な勉強をしているのだろう

 

どうもこんばんは。

 

世の中が20時を境に真っ暗になることに嫌気がさしている。

何も大人の作ったコロナ対策に正面切って反抗したいなんて、私の中の尾崎豊が疼いているわけではない。それだったら、とっくにバイクを盗んでいる。

仕事帰りに本を読んだり、勉強したりする場所だった喫茶店やファミレスは私が帰る頃には真っ暗なのだ。年末、私の狭い部屋に押し込めるように勉強机を買って組み立て置いてよかった。

 

20時になると街は真っ暗になる。名指しで感染の巣窟とされた飲食店は泣く泣く灯りを落とす。私が仕事の帰りにちょくちょく通うスーパー銭湯まで20時になると灯りを落とす始末だ。サウナにも自由に入れない世の中になった。

こうなると、感染を封じ込めたいのか、世間から向けられる飲食店のとばっちりを受けたくないだけのか、わからない。

店を閉めろと言うのは、憲法に示されている「経済活動の自由」を犯していないのか。不勉強の分野で大きな声で言えないから、誰か教えて欲しい。まず、初歩段階に何から勉強したらいいのだろうか。初めの一歩すら分からないくらい暗い分野で困った。

 

20時の街も私の法学分野の不勉強も真っ暗で嫌になる。

 

コロナ関係の疑問を調べてみると、どんな疑問の回答にも両極端の意見や見解があって、訳がわからなくなる。

どちらも科学的(らしい)明確な数字を証拠として並べているのに、言うことが全く正反対なんてことがあるものなのか。結局のところ、新型のコロナはやばいのかやばくないのか、コロナ対策と経済活動とどちらを優先させた方がいいものなのか、みんなが全くの正反対のことを言うから、私は調べれば調べるほど分からなくなる。

こうなると、緊急事態宣言下の自粛要請に応じるのが正しいのか、本当は正しくないのか、分からない。

分からないものだから、身動きが取れないのだ。

 

しかし、考えてみると、私を惑わすように正反対のことを言う人たちは、本当のことが分かっているからものを言っているのだろう。

冷静に考えれば、正反対の意見が対立している時点で、一方は本当のことを知っていて、他方は本当ではないことを本当のことのように知っているつもりになっている訳だ。

ワクチンの接種がやっと始まったばかりの未知のウイルスに対して、どちらかが本当で、どちらかが正しくないと言うことを見極めることが私にはできない。毎日毎日数字ばかりが並んで、真相が分からない言説だけが、さも私が本当だ、と言わんばかりの厚顔で、いくらスワイプしても絶えることなく現れる。目まぐるしい。気味が悪い。

 

分からないことに対しては、分からない、という当たり前の立場を見栄を張らずに取りたい。

分からない、と言うことを出発地点として、ものを考えたい。周りが当たり前のように知っていることも一から勉強しようと思う。

 

私が一緒におしゃべりしたらば、楽しかろうと思う人たちを集めて始めた読書会なる企画がある。

月に一度くらいのペースで、お題を決めて、食事をしながら、おしゃべりをする。私の知らないことに造詣が深い人から話を聞くのも面白いし、逆に私がよく知ることを全く知らない人に順を追って整理しながらしゃべるのも楽しい。

知らないことを知らないという立場を明確にするところから始めるおしゃべりは楽しい。

前回の集まりで、参加者の誰もが「ジェンダー」という問題に疎いことが分かった。そこで、次回に向けて、ジェンダーに関して入門的な3冊の参考図書を、どれか一冊担当して、読んで一枚にまとめて持ち寄ることになった。

自分の担当する本を読み切ったところで、全く知らなかった世界が広がって、当たり前のことが当たり前でなくなり、もっと疑問が膨らんだ。

勉強することはやっぱり楽しいことなのだ。

 

こうして考えると、改めて、ソクラテスという人が考えることは本当なんだな。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

2021年 年頭言

 

どうもこんばんは。

あけましておめでとうございます。今年も気力の限りに書きたいと思います。

お付き合いのほど願っておきます。

 

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上の写真は去年の手帳に書きためた記録です。

映画や本など、一年の記録を付けたものです。

展覧会や演劇が例年に比べて異常に少ないのがまさに2020年の象徴とも言えますね。演劇の欄に入れてるけども、半分くらいは配信作品だったりしますし。

代わりに家でも観れる映画は割と観た方だと思います。Netflixと映画の配信サイト「シネマディスカバリーhttps://cinemadiscoveries.co.jp)」をメインに漁っています。漁ると言うほどでもないか。

後者は面白いサイトで、作品紹介がやたらと細かい。さらに作品レビューや監督インタビューなどのサブコンテンツが豊富なので、まず一度目に作品を観て、サブコンテンツを読んでから、二度目の奥域の広がった鑑賞と言う楽しみ方ができるのがいい。

 

今年は(なんて毎年言ってますけど)もっと精力的に勉強していこうと思います。

作品を読んだり、観たり、とにかく足を動かして、時間も労力もお金も惜しまずに。

 

たまに人に映画や本なんかを紹介すると、「どうしてこんな作品知ってるの?」と聞かれることがある。

きっと質問者の真意は「どうやっていい作品に巡り合うの?」と言うことだと思う。

いい作品に巡り合っていると言うのは厳密には正しくない。理由は二つある。

 

まずもって、それに出会うまでには結構なハズレ(もちろん、個人的にはと言う意味の)を引いていると言うことだ。と言うか、ハズレの方が多いと言う方が正しいくらいでしょう。

世の中でありふれている作品の数がこんなにもおびただしいことを考えれば、当たり前のことだ。ガンジス川の砂の中から間違えて落とした硬貨を探すに等しい。

決していい作品に巡り合っているわけではない。

 

もう一つ。

私がガンジス川の砂を硬貨にしてしまう、と言う側面もある。

300ページの分厚い本を読んだとして、たった一行でも私が揺り動かされる一文があれば、他の299ページはハズレでも、この本は私にとって硬貨になる。

三時間の長時間の映画も同様。たった1秒でもハッとするシーンに巡り合えれば、10,799秒がハズレでも、私はこの映画を硬貨だとする。

作品のどこを好きになって、どこに愛着が湧くかなんて、ハズレを引く覚悟で、触れなければ、わからないのだ。

 

こんなことから、最初の質問には

「時間と労力とかけたお金に比例するんじゃない?」

と、大抵、答えている。

わかる人とわからない人といる。わかる人とだけ話をしたい思う。

 

要するに、今年は横着せずに、近道を行こうとせずに、ハズレを堂々と引こう。

そのあとで、何がハズレだったのか?どこをハズレだと思ったのか?

それを深く考えて、言葉にする活動をここでしていこう。

 

考えてみれば、2020年と言う一年が多くの人にとって「ハズレ年」だった。

その理由にミジンコみたいな外的要因を挙げ連ねて、自分の中に振り返らないのでは進歩がない。

私の人生はガンジス河の砂ほどの時間はないのだ。だったら、去年拾った砂を硬貨に変えてしまう方がいいではないか。

 

そんなことを考えながら、今、生きています。

どうも私は今年、錬金せにゃならんようだ。

 

10の56乗。

 

そんなこんなで、今年も駄文を無限空間に散らして行きます。

よろしくお付き合いください。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

何をするにも億劫だってこと、クリスマスとの交換

 

どうもこんばんは。

 

昨晩は会社の忘年会で、この時期にちゃんとやってしまうところにびっくりなんだけども、鎌倉は長谷の割烹蕎麦屋さんへ。

丁寧な仕事と行き届いた接客、これで社長への緊張感がなければいいのだが…

会社のお金でご馳走になっていれば、そうもいくまい。

 

社長や上司から期待や今後のことの声が重たい。

今後の人事について、私に仕事を任すと言うことについて、あんなに蕎麦が喉を通らないこともない。

帰りのタクシーで今後のことについて少し揺れてしまう。

それでも、今の私に必要なことは勉強することなんだろうと思う。今、この会社に留まり続けることは簡単だけれでも、それが楽な道ではあるけでも、やっぱり勉強したいと思う。

 

最近、近しい人に今後の話をすると、「大学出て何するの?」と言われてしまう。

みんな私がなんらかの資格のための進学だと思っているようなのだ。大学を卒業しないと出来ないことのために、なんらかの手段としての大学進学を想像しているのだ。

私は大学進学後に何かを決めていることはない。強いて言えば、最終的に自分の喫茶店を持ちたい。別段、喫茶店店主に大学卒業の資格は要らない。

 

最近、この環境を変えることに関しての億劫さが何をするにも先立つ。

洗濯機を回すにも、米を研ぐにも、何をするにも、まずこのことが頭をよぎる。

 

あと、関係ないけど、今飲んでいるコーヒーがまずい。

どことは言いませんけど、よく店名のロゴがトートバックとかタンブラーのデザインになっているチェーン店。何かとパンが高いカフェ。

見回すと、スマホを覗いた女性しかいないようなカフェ。だから、どうでもないんだけども。

スマホを覗くだけなら、家でも良かろうに、わざわざ駅から歩いたここまで来るなんて、どうしたんでしょう。

 

町中にクリスマスソングが鳴り響く。

クリスマスソングというと、何故だかトランペットが張り切るアレンジが多いので、だんだん耳が痛くなって来る。

どれだけの人が浮かれているんだろうか。私の方はというと、もう何年もクリスマスで浮かれていない。

浮かれるということがどういうことだったのかもはや覚えていない。

過去にはクリスマスに泊まりでディズニーに行ったり、余力が生まれてお金をかけたクリスマスを過ごしたりもしたが、一番鮮やかな記憶は、二人乗りで近所のイルミネーション巡りをした高校時代だろう。電気代が気になってしまうほど家中を電灯で張り巡らした家もあれば、玄関先の植木に申し訳程度の明かりを灯す家もあった。

12月の寒さと背中に感じる温もりと、ああいう時間は帰らないのだろうな、と思う。

いつのまにか、大人になるにつれて何かと交換に淡い記憶と石化させてしまったようだ。

 

終わらない億劫は当分続くことでしょう。

そんなことより、英単語やろう。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

「危険なビーナス」と受験理由

 

どうもこんばんは。

 

今クールのドラマがほぼほぼ終わってしまった。

意外と「危険なビーナス」を最後まで見てしまった。

東野圭吾原作作品に吉高由里子さんがキャスティングされていたところからして、このドラマの大きな仕掛けだったのだ。

それから、冒頭でお決まりだった妄想からの「こんな事が起きるはずがない…とも言い切れない」というオチがラストシーンで生かされていた。

昔の母親の死と現在の弟の失踪との二つの事件を重ねながら、いきなり目の前に現れた「失踪した弟のお嫁さん」という人物と謎の多い矢神家を探っていく物語。その謎にはいかにも理系の大学卒の東野圭吾さんらしい聞いたこともない数学やサヴァン症候群といった理系の要素が絡まっていく。

 

テレビドラマはやっぱり面白い。もっと勉強して、体系的に語れるようになりたい。

 

全く関係ないけど…

コロナで世の中は確かに変わった。変わった世の中に誰も追いつけていない。何が起きているのか、どうなっていくのか、誰がわかっているのか、分かったようなこと言う人間の正体、メディアの正確さ。わからないことだけが蔓延るようになった。

 

それを分かりたいと思うのもわかる。私もそれを知りたいと思う。

ただ、それに振り回されている人間が多いように思えてならない。

生きることは、当たり前だけど、世の中で存在することに他ならない。コロナに大きく飲み込まれた世の中で生きていくと言うことで、存在すると言うことで、時代のパラダイムに立たされることになる。歴史の教科書で何度も見てきたパラダイムに今、私は立っているのだ。中大兄皇子蘇我氏を倒した時、平清盛武家初の太政大臣になった時、種子島に鉄砲が伝来した時、ペリーが浦賀にきた時、ポツダム宣言を受諾した時、私たちは何度とないパラダイムを教科書で見てきた。今、私たちはその時に立っているのだ。教科書に刻まれるその時にいるのだ。

 

ただ知識として知っていることに意味はない。

 

ずっと考えてきた事だ。

このまま、このパラダイムに飲み込まれてしまっては、ずっと考えてきたこの言葉そのものが知識として形骸化してしまう。

そうならないために、やっぱり勉強したい。

そのために決めた大学再進学だった。

 

それでも、周りに理解される必要はないけど、説得しなくちゃいけない人たちはいる。会社も辞めなきゃいけない。

人事の仕事を任されて、名刺も作ってもらって、仕事を背負うようになったこのタイミングで止める必要があるのだろうか。そんなことを思わないでもない。

それでも、今、このタイミングで勉強することに意味がある。少なくても私は意味を見出したのだ。

 

あーここにだったらいくらでも書けるのに。

これを周りに伝えることに労力がいる。環境を変えることに必要な労力が、一番億劫だ。

 

とか思いながら、受験勉強もしないと。

 

では、こりゃまた失礼いたしまいした。

 

 

まあ、理解を求めているわけじゃないんですけどね、自分のために一応しておきますよ宣言

 

どうもこんにちは。

 

毎回「どうもこんにちは」から始めていて、この一行目はいつもすんなり打てるのに、エンターキーを二回押して、改行してから先が進まない。書きたいこと、考えていることは確かにあるのに、なんて一言で始めればいいのだろうか、考え出して、数分経つ。

結局、不本意で濁したような言葉を並べて、ウォーミングアップしている。

 

海に出て、冷たい風を受けながら、「この人生、ドロップアウトだな」と声にしてみた。

それで一気に気持ちが切り替わって、とりあえず、今のうちに言葉にしておこうと、急いで帰って、ここにいる。

 

ここ数年ずっと、もっと勉強したいという思いを強くもっていて、そのために、足繁く本屋に通ったり、見たり聞いたりしてきた。でも、それではどこか物足りなさ、つまり、中途半端さが残っていて、でも、その半端さが私の現在の生活から捻出できる最大限のものであるし、かと言って満たされないことへの不満はあるし…なんていう風に欲求と言い訳を読点で繋いできた。

こんな正しくないだろう読点の使い方に疲れてきたし、徐々に言い訳がバカらしくなってきた。

 

誰に対しての言い訳なのか。

 ー抑圧された私自身に対する言い訳だ。

何で自分自身を抑圧するのか。

 ー……。

いつのまにか目の前にあるものを投げ打ってしまうことに恐ろしさを抱いているんじゃないか。

 ーもう何も聞きたくない。

自分を抑圧している自分に抑圧を強いているものなんだ。

 ー私がやりたいことをやることを誰にも理解されないだろうという懸念みたいなものだよ。

そんなもの要らないじゃないか。目の前の欲求のために投げ出す目の前のものに投げ出すことを理解されなくても何も困らないだろ、理解されて何になるんだよ。

 ーこの人生、ドロップアウトだな

 

一人で寂しく、こんな小芝居をしているわけだ。頭の中の劇場には、観客が私一人しかいない。

観客は最後のセリフを聞いて、思わずスタンディングオーベーションして、拍手喝采している。

 

そういうわけで、私は何の計画も試算もないままにもう一度大学受験しようと思っている。

 

正社員として、社会人として、それなりの生活しているのにそれを投げ打って、どうなるかわからない学生を志すことは理解されないかもしれない。でも、そうしたいと思ってしまうのだから、どうにもならない。思うことをやめられない。思うことを閉じ込めて生きていくのか、それとも苦労しながらそれに付き合うのか。

とことんまで付き合った方が断然いいに決まっている。それしかないに決まっている。それを阻む要素は除いた方がいいに決まっている。

こんな簡単なことが、分かりきったことが出来ないなんて愚かすぎる。

 

小田急線沿いの大学を途中で辞めて、芸能事の真似事に片足を突っ込んで、それも辞めて茅ヶ崎に越してきた。茅ヶ崎に来るまでに何度もドロップアウトしてきた。

そんなでも、ありがたい事に今の会社に拾ってもらい、なんとかドロップアウトしてしまったラインに戻してもらえた。それを分かっていながら、それをまたドロップアウトしようとしている。普通はラインに戻してもらえたら、そのラインにしがみついてでも離れまいとするものだろう。何故か私はそれからまた落ちて行こうとしてしまう。あー分かってもらえないんだろうな、と思っている。

それでも私は理解されないドロップアウトの道をいく決心をしてしまった。

生活がどうなるかもわからない。学費はどうするのかもわからない。何か手立てはあるだろうか。

考えなくちゃいけないことは山ほどある。でも、そんなことを考えていては先に行けないじゃないか。考えることをやめて、やっちゃった方が何とかなることも多い。どうにでもなる。どんなに考えても現実には、どうにかなることしか目の前に現れないのだ。どうにもならないことは考えても行動に移してみてもどうにもならない。だったら、行動に移してどうにかしてしまおう。どうにかなることしか起きない人生、どうにもならないは存在しないのだから。

 

今はこんな心境です。

これを理解してもらう必要もない。

 

ただ、自分のために言葉にしておく。

 

そんなものを読ませてしまい申し訳ないです。

 

では、こりゃまた失礼いたしまいした。

 

 

雑記 〜佐平次、のんとも。M「明日があるさ」〜

 

どうもこんばんは。

 

何がきっかけだったか、ここのところYouTube古典落語居残り佐平次」を聴き漁っている。圓生志ん生小満ん、談志、志ん朝、文朝、小三治、右朝、喜多八、白酒、一之輔ととにかく聞いた。

 

無一文なしで女郎買いに来て、払いができるまで家には返してもらえない佐平次は布団部屋へ通される。一生懸命支払いの金策に走るかと思いきや、お店のお客や花魁たちに取り入ってお座敷に上がっちゃう。元々口先が上手くて、ヨイショが上手、そして何より人から可愛がられる性格から、いつのまにかお客の方からお呼びがかかるほどの人気者に。お座敷に呼ばれて、お客に取り入ってお祝儀を貰っちゃう。

こうなると面白くないのはお店の若い衆。自分の仕事は取られるし、お祝儀をくれる太客も奪われちゃう。そこで御内所、今でいう店のオーナーみたいな人に相談する。温和な人柄の旦那はとりあえず帰ることを促すが、聞くとこの佐平治という男、外で悪事を働いて、追手がついた身分だとか。そんなことを知ってしまっては、居残りが罪人だなんて、お店の看板に傷がついてしまうことを心配して、逃亡の資金から新しい着物まで一通り佐平次に用意して逃しちまう。

しかし、この男は罪人でもなんでもない、居残りを家業にする男だった。

 

というのが、だいたいのあらすじ。

サゲが今では使わない言い回しなので、人によって変えてあったりする。

 

佐平次が次々に花魁やお客に取り巻く場面が実におかしい。

佐平次の調子のいい言葉にどんどんひとが踊らせていていく。最初は訝しんでいる人たちも徐々に佐平次の人柄に取り巻かれる。

こんな人間いるだろうか。落語の世界だから、と言って、フィクションにしてしまえば、それまでなのだが。

人柄だけで生きていける人間というのは、いくらかいる。仕事ができるわけでもなし、何か特別な技術があるわけでもない。それでも、どういうわけだか上の人間に好かれて、うまいことやる人がいる。必ずしもそういう人生が成功だとは言えないだろうが、楽に生きていくという観点に立てば、立派な成功だ。

 

演る人によって佐平次がまるっきり違う人間なのだが、私が好きな佐平次ほど、佐平次に人気が上がる場面で客席の笑いの声量も上がる。つまり、佐平次の人柄が人懐っこければ人懐っこいほど、落語として面白くなるのだ。

きっと、こういう佐平次ほど、楽に生きていけているのだろうと思う。

演ることと生きることは違うので、人懐っこい佐平次を演じる噺家が佐平次みたいに生きているわけではあるまい。

もう少し、敵を少なに、それでも自分を通して、生きてみたいと思う。周りを取り巻いて。

 

女優で歌手ののんさんがYouTubeに一つのMVをアップした。

https://youtu.be/rRqlGT_0r_Y

坂本九さんの「明日があるさ」をカバーしたもの。何よりもゲストボーカリストが最高だ。

小泉今日子さんに尾美としのりさん、渡辺えりさんに片桐はいりさんが集まった。

そう、「あまちゃん」のキャストが集合しているのだ。

もうこれだけで嬉しくなる。天野家の三人が、スリーJプロダクションの三人が集まって、マイクの前で歌っている。自然と涙が出てくる。

やっぱり、のんという人間の行動力や周りを巻き込む力はとんでもないのだ。憧れてしまう。

彼女のどういう部分が周りをあんなにも動かすのだろうか。やりたいことを形にするだけでも気力も体力もいる大変なことなのだ。それを周りの人間を巻き込んで、あんなに楽しそうに、それでいて見ている私たちにも身体中に活力を与えてくれる。どうやったら、そんなにことができるのだろうか。

 

もうすっかり昨日から何度も聞いている。

アキが歌う。春子が歌う。パパが歌う。三人の声が重なる。この瞬間にたまらなくなる。胸が熱くなる。足の裏から、手先から、じっとしていられなくなり、たまらず走り出してしまいたくなる。

身体中を衝動が駆け巡る。私には何ができるだろうか。何をしたらいいのだろうか。何かを形にしたいのに、創り出したいのに、どうしたらいいのだろう。

 

彼女の周りの人間を引き込むその魅力は、まさに佐平次だ。

やっぱり、私は佐平次になりたい。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。