本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。茅ヶ崎の海辺からコカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

未鑑賞映画「花束みたいな恋をした」

 

どうもこんばんは。

 

今週、やっと坂元裕二脚本、土井裕康監督映画「花束みたいな恋をした」(以下、略称「花恋」)を鑑賞に行きます。

大好きな坂元裕二作品で、今からワクワクしてます。楽しみすぎて、まだ見てないのに映画のことを考えて、少し文章にしてみました。

 

今のところ、キャスト、スタッフ、タイトル、PR用に公開された数分の映像、それから映画を見る前にフライングして買ってしまったシナリオブックの脚本家のあと書きだけが入ってきている情報で、これしかないのですが、これだけで、この映画について考えてみました。

再三、言いますが、まだみてない映画について考えてます。

 

まず最初の取っ掛かりとして、ヒロインの有村架純さん。

坂本裕二×有村架純というと、真っ先に思い出されるのが、フジテレビのドラマ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」(以下、略称「いつ恋」)でしょう。田舎から出てきた高良健吾さん演じる練と有村架純さん演じる音の二人を中心に、六人の若者が東京で暮らし、夢を追い、それに破れ、恋をしていく物語でした。

有村さん繋がりで「いつ恋」と比較してみると、いくつか共通点を見つけました。まずはタイトルです。

今回の映画は「花束みたいな恋をした」で、ドラマの方が「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」です。どちらにも共通するのは過去形である点です。

しかし、「いつ恋」は、終わった過去の恋を指し示しているようなタイトルなのに最終話では二人の関係にピリオドが打たれることがない。練と音の関係に希望を持たせて、トラックは遠回りをして、筆が置かれています。

まだ見ていない映画なので、なんとも言えませんが、「花恋」も過去を指し示しているていとるですが、必ずしも切ない終わり方をしているとは限らないんじゃないかと。坂元裕二作品の中は希望の見える終わり方をしているものがかなり多くあります。

「問題の多いレストラン」ではビルの屋上でのレストランを閉めて、海辺の廃屋に向かって走り出すシーンで終わっているし、「Mother」でも20歳になったつぐみと奈緒がクリームソーダを挟んで手を取り合って再会のシーンで終わります。

作品では書かれていないその先で登場人物たちは生きている。坂元裕二という脚本家は、私たちが知ることの出来ない彼らのその先の人生を少しだけ明るく照らしてくれるのです。だから、きっと彼らと街ですれ違うんじゃないかという予感が私はいつもしている。

タイトルからだけで、見ていない映画についてこんなふうに考えてしまっています。

 

「花恋」と「いつ恋」の共通点としてもう一つ、ファミレスの印象的なシーンがある。

https://youtu.be/cFrBhxMpMwk

公開されている「花恋」の予告0‘44あたり。ファミレスで二人が向き合う印象的なシーンが公開されている。

ファミレスといえば、「いつ恋」だ。第一話で音は練と一緒に初めてファミレスに入る。そこで、違うハンバーグを頼んでシェアする練の提案にいたく感心する音。ファミレスのシーンは最後にも、もう一度。練と音が再開する場面がファミレスでした。

予告を見る限り「花恋」でもファミレスが象徴的なシーンであることは間違いなさそうです。

 

タイトルと予告だけで考えられることをタラタラと書き連ねてみました。

さて、実際に映画を観てみると、どうでしょうね。楽しみでしょうがないですね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

小木さんとSOCIAL ACTIVEST CLUB、バックラッシュを誘発しかねない大きな失敗

 

どうもおはようございます。

 

朝から、というか私としては前の晩からなんだけど、久しぶりに頭の中をぐるぐる巡るような問題にぶつかったので、整理する意味でもこれを書いていこうと思います。

 

昨年から、私が企画した「読書会」なる集いがあって、前もって決めたテーマについてわらわらと話す会を小さいながらに主宰しています。

前回、ひょんな話の成り行きで参加者がジェンダーの問題について、認識が曖昧だったり、理解が不十分な部分があることが分かったので、それぞれ割り振られた参考図書を読んで、レジュメにまとめようという課題が決まりました。

ちなみに以下の3冊です。

知らないと恥ずかしい ジェンダー入門

炎上CMでよみとくジェンダー論 (光文社新書)

ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた――あなたがあなたらしくいられるための29問

 

どれもジェンダーの問題を一からわかりやすく、でも、しっかりとこの問題の核となる本質に導いてくれました。ジェンダーの一番の問題はそのことがまだ問題にすらなっていないという点です。私もまだまだ勉強途中の問題で、この問題に対して未熟という意味においてフェミニストとは言い難い立場ですが、それでも曲がりなりにも関心を持ってちょっとかじった人間として、社会が取り組むべき問題の最優先事項の一つであることは間違いないとする立場であることはまずはじめに明確にしておきます。

今、この問題への未熟さを明言しましたが、もし、このことに対して、「未熟な奴が語るな」という立場の人がいるなら、その人はこの問題の本質まで辿り着けていない私以上の未熟者であることを添えておきます。

だって、この問題って男女の隔たりなく、全員が自由に生きることへの妨げのない社会の実現を目指すものであるのだから。その実現に対して、知見の深さで二分してしまう行為は「男女の二分」を「知見の深さの二分」にただフォーマットに乗り換えただけの人ですから。何も実現されていない。

銀行からの借金を消費者金融で借りたお金で返済するのと同じことですから。

 

なんでこんなことを急に言い始めたのか。きっかけは最近急激に広まった新しいSNSツール「clubhouse」にある。

経緯を簡単にまとめるとこうなります。

まずは発端はラジオでの小木さんの発言にあります。その発言を問題視した人たちが「SOCIAL  ACTIVEST CLUB」というclubhouse内でのルームで取り上げました。その議題に当人の小木さんが参加したのですが、その内容や取り上げ方が問題視され、ラジオリスナーをはじめとする小木さん擁護派がTwitterで物議を醸しました。

 

この発言の良し悪しにはついては触れません。深夜ラジオという密封性が高く、パーソナリティとリスナーとの間をそれなりの信頼が取り持っている文化だということも加味する必要があるし、この発言を槍玉に挙げた人たちのどれだけがネットニュースでなく、ちゃんとラジオの音源を聴いたか、でも、やっぱりこれだけコンプライアンスが重視されている昨今の情勢に公共の電波を乗せるふさわしい内容だったのか、などいろんな判断材料が相まってこの発言に対する立場を決めると思うので、その立場に立つことの是非はここでは問いません。

SOCIAL  ACTIVISTという人たちがこの発言を問題視することにも一理あることは違いません。

ただ、その問題視した発言をどう取り上げて、どう発信していくのか、その方法が社会のフェミニストの方々に対する視線を決定づけるのだろうと思います。その意味で、あのルームで行われていたことは、社会のフェミニズムに対する、強いてはジェンダーの問題に対する見方を歪みかねない、というか、Twitterではすでに「バックラッシュ」を誘発しかねないような間違った意見が見られた時点で、この問題を好転させたとはまずもって言えないでしょう。SOCIAL  ACTIVISTの方々の意図とは関係なく、フェミニズムに対する間違った見解を生んでしまったという点であのトークジェンダーの問題をむしろ後退させたとも言えるでしょう。

なぜ、バックラッシュを誘発するような失敗だったのか。小木擁護派があのルームを受けてすべきことは、バックラッシュを誘発するような間違った意見を述べることではないはずです。では、本当にしなくてはいけないことがなんだったのか、考えてみたいと思います。

 

最初に述べたように、ジェンダーの問題は、まだ問題視されていないことが一番の問題だと思うのです。ですから、ジェンダーの問題を公で議論しようとするとき、まずは問題を共有することから始めないと議論にならないことは明白です。

SOCIAL  ACTIVISTの方々の最初の失敗はこの共有が行われていないことです。この共有はこれから議論を交える同士の最低限のマネーのようなものです。それを問題の定義がされる前から、認識していることを前提として、議論が進められていました。それどころか共有されていない問題について進められる話に困惑する小木さんに苦笑するかのような発言や口調も見られました。

これでは聴いているオーディエンス達は、SOCIAL  ACTIVISTの方々に対して、いきなり上から目線で不躾な人たちという印象を持ちかねません。

 

次にSOCIAL  ACTIVISTの方々の小木さんの意見を聞く姿勢です。

小木さんは終始、ネットニュースで活字にされた文章ではなく、実際のラジオを聴いてほしいということを主張していました。しかし、その主張は「活字にされた内容と音声の内容とではその違いはない」という乱暴な理由で耳が貸されることはないのです。

小木さんの意見を聞かない姿勢、というよりも聞くことが出来ない姿勢について考えてみると、その背景にはSOCIAL  ACTIVISTの方々に「フェミニズムに絶対的な正義」の意識があるのだと思います。多様性の尊重がジェンダーの出発点のはずです。その多様性の余白には間違いなくセクシャルマイノリティが含まれています。その多様性を出発点にしたジェンダージェンダーへの見識の浅さを攻撃しては、出発点であるはずの多様性そのものの否定になってしまいます。

つまり、SOCIAL  ACTIVISTの方々が自分たちの主張の絶対的な自信を振りかざして、他の意見に排斥的になるということは、自分たちの主張の出自を失ってしまう逆説的な姿勢であると言えます。

 

SOCIAL  ACTIVISTの方々のclubhouseでのトークの大きな失敗について、大きく二つ理由を挙げました。ジェンダーを扱う最低限の共有すら出来ていなかったことが一つ。それから、自分たちの主張の依拠するところをひっくり返す矛盾が見られる対話姿勢が一つ。

 

さて、次にこのトークを聴いた私たちオーディエンスが考えなくてはいけないことはなんでしょうか。

私が一番言いたいことはここにあります。

別に未熟で中途半端な議論とも呼べないようなネットリンチが行われた理由なんか大した興味はないんです。ただ、これから先を言いたいがための前口上として必要があるから、書いておいただけです。

 

一番やってはいけないことは、SOCIAL  ACTIVISTの方々をして、フェミニストがなんたるかを決めてはいけないということです。

本当に頭のいい人が書いた上のようなちゃんとした本を読めば、あのトークで行われたことがジェンダー問題の本質的な解決にならないことは一目瞭然です。あのトークを聴いて小木さんを擁護する姿勢に何か問題があるとは思いません。ただ、小木さんを擁護することとフェミニストについて間違ったレッテル貼りをすることは全く違う行為です。そして、あのトークからフェミニストのなんたるかを考えることは不可能です。本質まで全く掘り下げられていない議論をもってしてフェミニストについて語る行為は愚かと言わざる終えません。それはネットニュースの書き起こしだけを読んで、ラジオを聞かない姿勢と全く同じだからです。

だから、小木さん擁護派には少しでいいからジェンダーについて、フェミニストの主張について、本質に迫る文章を読むなりすることをお願いしたいんです。

小木さんを擁護することとフェミニストについて間違ったレッテルを貼ることをごっちゃにせず、本質よりうんと浅いところでフェミニストに対する決めつけをして、SOCIAL  ACTIVISTの方々と同じところまで堕ちることがないようにすることが何よりも肝要だと思う。

 

書きたいことの半分も書けたかはわからない。

ということは書きたかったことの半分以下しか伝わらないわけだ。

 

この騒動だけを取り上げると、clubhouseは恐ろしいように思えるが、そんなことばかりではない。

 

私がよく参加させてもらうルームはサザンについて語るだけのもので、すごく和やかで居心地のいいところだ。

サザン好きな人たちだけが集まって、ただその話をするだけで、そこにはつまらないマウントの取り合いもない。

居場所が見つかれば、いいツールだと思う。

 

朝が来てしまったね。

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

私の好きなものも100のルーツ #2「コカコーラ」

 

どうもこんにちは。

 

私の好きなものを100コあげ連ねて、なんで好きになったのかそのルーツを思い起こそうという企画の第2回はコカコーラ。

 

私のことを知る知人たちに、「私という人間から連想するものは?」と聞いて、「コーラ」と答える人は8割を超えるだろうと自負している。いらない自負だけど。そう答える人は、ものの道理が分かる人だ。きっとカツオのタタキを生姜醤油で食べる人だろう。それくらいにはものを知っている。

ただ、私を語るなら、それで満足してもらっては困る。もっと通はいるものだ。同じ質問をしたときに「『赤いコカ』コーラ」と答えらるかどうか、これが本当の通というものだ。脂の乗った寒鰤をリンゴと大根の合わせおろしとポン酢で食べるくらい、通を誇っていい。

 

昨年、「香水」という曲が流行った。

別に君を求めてないけど横にいられると思い出す
君のドルチェ&ガッバーナのその香水のせいだよ

五感に感化されて、過去のことを思い出すという経験は誰でも経験があると思う。

それでいうと、コカコーラのあの強く弾ける炭酸、口の中にくどいくらいに残る化学的な甘みで私のことを思い出す人は、男女問わず、少ないと自負している。これもいらない自負。

中には赤い自販機の中で売られているコカコーラを見るたびに、私がフラッシュバックする人もいることでしょう。

 

私ほどおいしそうにコカコーラを飲む人間もいない。いまだに私にところにCMのオファーが来ないことが不思議なくらいだ。

瑛人さんがコカコーラのCMソングを歌うそうだが、早熟極まりないと思う。ぜひ、彼にはドルガバで元カノを思い出す人間になる前に、コカコーラで元カノに思い出される人間になってほしいと思う。

 

そんな私の血管にコーラが流れるようになったのは、いつのことからか。思い出してみる。

 

幼少期、我が家ではコーラはおろか、基本的にジュースを飲むことがよしとされていなかった。

よしとされていなかった、というよりも冷蔵庫の中にジュースが入っていることがほとんどなかった。中学生になってお小遣いの配給が始まるまでは、家にあるものを食べるしかないわけで、自分で買うことも出来ない。たまに飲む機会があったとすれば、祖父母の家や友達の家にお邪魔したとき、それから、外食の時くらいだった。外食の時と言っても、食事中はお茶と決まっているので、食後に親がコーヒーを飲んでる隣でやっと飲めたのがジュースだった。それでも、高学年になるまでは炭酸も禁止されていたので、私がコーラと出会うのは、小学校の高学年になってからのことだ。今ではこんなにコーラで活躍している私も、実は随分遅咲きのデビューだった。

 

人間は大きな抑圧があると、大抵、それから解放された時のその反動は大きい。私のコーラも然りだった。

 

中学生になった私がコーラに向かって解放されたのには二つの大きな理由があった。

一つにはお小遣い制度の始まりがある。

使い道に制限がなく、誰かに管理されることもない自由なお金。それまでのコーラへの抑圧が強かった分だけ、それは羨望に変わり、憧れになって、お小遣いを食い荒らしていく。歯止めは効かないし、効かす必要もない。部活の帰りによく飲みながら帰った。

今でこそ、自販機で買うと500mlのペットボトルサイズで160円だ。それが当時はコンビニで500mlの缶というのが売っていて、それは100円で買えた。あの頃は、今よりも税金も大切に使われていたのか消費税も5%だったので、少ない中学生のお小遣いでもどうにかなった。コーラ一つで、税率の推移まで見えてくるのだから、コーラはやめられない。

もう一つ挙げられる理由に中学のお弁当制度だ。

小学生までの給食が終焉を迎え、中学生からはお弁当になる。普段は母親が作った弁当を持っていくのだか、幸か不幸かうちの母親は朝が弱かった。それに加えて、私の所蔵する吹奏楽部は毎朝朝練があり、しかも、我が家から中学まで徒歩で30分以上かかった。これらの要因がどうコーラにつながるのか。つまり、ただでさえ通学に時間がかかるのに、朝練で7時ごろには家を発つ私に朝の弱い母親のお弁当が間に合わないことが往々にしてあるわけである。そうなると、寝ぼけ眼の母親から昼食代として、500円支給される。

コンビニでおにぎりやパンが100円で買えた時代のことだ。パンを一つ惜しめば、コーラが買える。これが私にとってどれほど魅力的で妖艶な誘いだったことだろう。

チョコチップが練り込まれた細長いパンが5本入って150円のものを2袋とコーラを2本。これが私の500円の使い道だった。午前中に1本、午後に緩くなったコーラが1本と1日に2本も飲めたのだ。

 

この二つの理由が災いして、私の心臓はコーラを体に駆け巡らすポンプとなったのだ。おかげで、毎月我が家にはコーラが段ボールで届けられる。2階の角部屋まで運ぶ運送会社の方には本当にご足労かけている。

 

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地域限定デザインのコーラのボトルがある。

この写真は少し古いもので、今ではこの数倍あるが、私の部屋には飾りきらないのでしまってある。

私が買い集めたものもあるが、それ以上に貰い物が多い。知り合いが地方に出かけて、コーラのボトルを見ると、私を思い出すらしい。時々、「これもってる?」と写真を送ってくれさえする。そのことについてこの場を借りて言っておきたいことがある。そのデザインのコーラを持っているかどうかは問題ない。たとえ、デザインが被っていようが、中身はコーラなのである。それを私が飲まないわけがない。いただければ、飲むのだ。なので、私の持っているボトルのデザインと被るかどうかなど、気になされずにレジを通していただければと思う。いつもありがとうございます。

 

飲み物としてのコーラへの愛がいつのまにかブランドとしてのコカコーラへと変わっていった。

コーラのデザインのものを集め、部屋が赤く染まる。赤い部屋というと江戸川乱歩が思い出されるが、私の部屋で自殺があったりなんかはしない。

コカコーラなんかいくらでもグッズがあり、そのうちコカコーラデザインのものだけで、生活できるようになるのではないか。私はそれを強く望んでいる。贅沢を言えば、コカコーラで真っ赤な部屋とサザンのポスターが張り巡らされた部屋とがあるんて最高だと思う。

 

今日はこのあと歯医者だ。

歯科医には一目で甘党が見透かされ、コーラを止めるように指摘されたが、それだけはできない。

歯を守るためにコーラを飲まずして、鬱病になるくらいなら、私は喜んでコーラで歯を溶かす。

 

では、こりゃまた失礼いたいしました。

 

 

2021年1月クールのドラマ、クドカン多め

 

どうもこんにちは。

 

家に帰ると、毎日タブレットTverを起動しては(アプリは起動でいいのか?)ドラマを観ている。

なんせ、今クールは面白いドラマが多い。それもそのはず、各局、顔を連ねる製作陣は名作を生んだ人たちばかりだ。

テレビのない我が家で、ドラマを見るにはTVerの見逃し配信しかない。しかし、それも一週間しか時間がない。

今クールのような面白いドラマが多いクールは、帰宅してから、忙しくてしょうがない。もう1ヶ月もこんな生活をしている。まだ、3ヶ月は続く生活だ。

 

金曜のTBS。

クドカン×長瀬智也×磯山晶×金子文紀という今まで名作しか生んでこなかった顔ぶれが手掛けた「俺の家の話」は第一話からワクワクが止まらなかった。

ヤクザと落語家、刑事と恋多き男、おばちゃんの井戸端会議と復讐という両極端の世界観を力づくのようで、ちゃんと説得力を持たせて重ね、破天荒な設定を成立させてきた「タイガー&ドラゴン」「うぬぼれ刑事」に「監獄のお姫様」

それに、今や伝説と言っていい平成を代表するドラマ「池袋ウエストゲートパーク」など、この四人が手掛けたドラマはどれも名作ばかり。

 

今作も「プロレス」と「能」という正反対の世界観を掛け合わせた設定がクドカンらしい。

なんで?とツッコミたくなるような状況を作っては、その状況を当たり前の前提として登場人物達が行き交う。別役実さんの世界観の根底と通じる部分を感じる。その状況をツッコんではいけない。そこはツッコまず、その状況で当たり前のように過ごしている登場人物達にツッコミが生まれる。

 

ロープに投げられている最中に俺の家の話についてのナレーションから始まる。早速「なんで?」から始まるクドカンらしい第一声に私はワクワクする。

能を介したせいで破綻状態の親子関係を25年の年を経て、介護を通じて修復しようとする物語だ。安定の役者陣によるキャスティングでクドカンの持ち味である会話劇としての楽しみはいかんなく発揮され、毎シーンごとが楽しくてしょうがない。

 

クドカン脚本の特徴の一つだと、私が勝手に思うものの一つに、主軸関係と副軸関係のメタ的なつながりというものがある。

随分と大仰な言い方をしたけど、早い話が、物語の軸となる登場人物の関係性と似たものが別の関係性に見られるのである。で、それが物語全体の展開に推進力を持たせいる、という話である。全く早くないけど。

今作でいえば、主軸関係として寿三郎(西田敏行)と寿一(長瀬智也)の親子関係に対して、メタ的な副軸関係として、寿一と秀生(羽村仁成)の関係が並行して描かれる。

 

物凄い余談だが、秀生役の羽村仁成くんは「じんせい」と読むのか「ひとなり」と読むのか、どちらか悩んでしまう。愛が欲しいわけではないけど。

 

この関係は過去作にも多く見つかる。

あまちゃん」ではアキ(当時、能年玲奈)と春子(小泉今日子)の主軸関係に対して、春子と夏(宮本信子)の副軸関係。

「タイガー&ドラゴン」の小虎(長瀬智也)とどん兵衛西田敏行)の師弟関係を主軸として、小虎と組長(笑福亭鶴瓶)の副軸関係にある師弟関係も描かれる。

 

他にもいくらも例はみられるが、クドカンの描くドラマの相関図には必ずと言っていいほど、このメタ的な関係が見られる。

 

それから、主人公たちがドラマを展開させていくのに理由がないことも一つの特徴だと思う。

クドカン作品の登場人物たちが面倒ごとに取り掛かることに頭で考えたような理由がないのだ。

マンハッタンラブストーリー」のマスターは常連客の話を盗み聞きし、彼らの恋路を手助けるために走り出す。刑事コロンボを模したコートを脱ぎ捨て、蝶ネクタイを投げ捨て、付け髭をひっぺがす。そこに理由はなく、ただ「ああー」と叫びだすだけなのだ。

池袋ウエストゲートパーク」の主人公マコトもそうだった。G-boysの面々が持ってくる厄介ごとをなんだかんだ断りながらも、最終的には「めんどくせぇ」の一言で解決に身を乗り出す。

「11人もいる」で神木隆之介さんが演じた長男一男もそうだ。家族のゴタゴタを解決するのに理由なんかない。ただ、「長男だから」という理由で、彼は学校も恋も犠牲にして、家族のために走っていた。

 

今作もそうだ。

自分が幼い頃、父親が自分にやってくれなかったことを介護を介して、父親にするという決意。この物語の主軸となる決意に理由なんかない。

そういうもんだからだよ

自分が人間国宝の長男として生まれて、観山家の宗家を継がなくてはいけない理由として、ずっと父親に言われていた呪いのような言葉だった。ここに寿一郎が介護を引き受け、宗家を継ぐことには、はっきりした理由はないのだ。

クドカン作品の登場人物たちが走りだすのにいちいち頭で考えるような理由はない。そんなものはいらないのだ。

 

と、ここまでいくつかクドカン作品について書きながら、今回はクドカンについてではなく、今クールのドラマについて書きたかったことを思い出したので、ここから描こうと思っていたことをざっと一言で話す。要するに、今作にもクドカンの過去作に見られる共通のクドカンの特徴がたくさん見つかって、第3話まで見ただけで、面白いな、ってことである。

乱暴にも程がある。面白いについて、どう面白いのか、何が面白いのか、言葉にするから意味があるのに、こんなにまとめて一言で片付けては書いてる意味がない。

 

同じくTBSの日曜日。

森下佳子×綾瀬はるかも過去に面白いドラマを生み出してきた名コンビだ。「天国と地獄」も入れ替わりという設定も刑事と犯罪者の立場逆転という設定も王道ではある。それでいうと、設定がどうこうではなく、誰と誰が入れ替わるのか、がドラマの持ち味になる。昔、サラリーマンの舘ひろしさんと女子高生の新垣結衣さんが入れ替わった「パパとムスメの7日間」というのがあった。舘ひろしさんが女子高生というのが印象的で面白かった。

それでいうと、今回の綾瀬はるかさんと高橋一生さんが入れ替わるというのは、とてもいい。高橋一生さんの冷たくサイコな目つきを綾瀬さんが再現する演技はゾクゾクする。一方、中身が女性という設定を演じる高橋さんも、オカマに見えるのではなく、中身が女性という設定の枠から外れていないところがすごい。ちょっと暑苦しい感じや溝端淳平さんを叱る様も違和感がなく、設定がすんなり入ってくる。

 

テレビ朝日の土曜日。

23時からは小芝風花さん主演の「モコミ」で、23時半からは生田斗真さん主演の「書けないッ‼︎」

「僕の彼女の生きる道」をはじめとする「生きる道」シリーズの橋部敦子さん脚本作品。全体的に静かでモノクロな印象の脚本に、落ち着いたキャスティング。その分だけ、ものと会話する演出や橋爪功さん演じるおじいちゃんが周りを振り回す場面が動的に映えている。

個人的に「俺の話は長い」の演技がとんでもなく大好きだった生田斗真さんと「龍馬伝」や「救命病棟24時」、それから刑事と検事の関係をコミカルに書いてめちゃくちゃ面白かった「ケイジとケンジ」の脚本家、福田靖さんによる脚本家をめぐるめぐる物語「書けないッ‼︎」も面白い。ドラマの制作現場を中心に、脚本家とその家族の奮闘を描いたもの。ドラマの制作現場というと、私はどうしても「最後から二番目の恋」のドラマプロデューサー千秋さん(小泉今日子)が振り回せれてるシーンを思い浮かべるのですが、今作はそのプロデューサーが振り回す役。これを演じる北村有起哉さんの強いものに巻かれて、フラフラしているいい加減っぷりがいい。その下で働く長井短さんの脱力感も好きだ。

 

日テレは水曜日。

ロンバケ」、「オレンジデイズ」恋愛ドラマのベテラン北川悦吏子さんが、菅野美穂さんと池辺美波さんとメインに書いた「うちの娘は彼氏が出来ない」もザ・お王道をいく楽しさがある。今のところ見せているトリッキーな展開のない物語も北川さんだと飽きがない。先の見えた展開が彼女の作品になると待ち遠しい展開に変わっているのだ。振られると分かっているからこそ、そのシーンが待ち遠しい。そして、予想していた通り、振られたのに、ちょっと切なくなる。それが彼女の脚本の魅力だと思う。

これを書いている現在の最新話でも、ゴンちゃん(北村一樹)にお見合いが時には、碧(菅野美穂)は振られる、それがこの回のクライマックスって予想がつくのに、廃校になる学校に忍び込んで、言い間違えちゃうシーンは分かっていたのに、少し、気持ちが動いてしまう。

 

あとはフジテレビの木曜日。

韓国ドラマのリメイク版「知っているワイフ」

日本版脚本は前出の橋部敦子さん。過去をやり直す系のタイムスリップドラマはいくつもあるが、この作品にはそこに生瀬勝久さんが謎めいて絡んでいて、先が気になる。過去の回想シーンで見せる広瀬アリスさんのド迫力の怒号シーンとタイムスリップ後の穏やかな笑顔とのギャップがすごい。私は主人公に感情移入できないし、だからと言って、他に共感を求められるような描写がされた人物も出てこない。それがこのドラマのいいところだと思う。過去を変えた主人公のわがままぶりには共感できないし、かと言って、夫婦にならない世界線で生きている美緒(広瀬アリス)にも共感の要素がない。そこから話を展開させて、感情を動かす恋愛ドラマは少ない。

 

テレ朝の木曜日。「最後から二番目の恋」で大好きになった岡田惠和さん脚本のドラマ「にじいろカルテ」やフジテレビの土曜日、「その女ジルバ」もなんだかんだ見ている。

 

テレビドラマはもう私の生活に欠かせないものになっている。もう数ヶ月ドラマの視聴期限に追われる生活が続くのだ。

なんかもっと主観と論理でもって、テレビドラマを体系立てて論じたり出来ないものだろうか。

ずっと考えている。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

ガラガラ

 

どうもこんにちは。

 

一月が終わる。

1ヶ月前は、一年が過ぎるその速さを挨拶の常套句として、みんな身体的に感じていたのだが、12分割したうちの1が過ぎるとも、さほどの体感がない。

こうして、いくらか過ぎて、梅雨が終わる頃、半分過ぎたことを体感して、その速さが膾炙される。

バナナマンくらいだと思う。毎週のようにその速さを体感している人たちは。彼らは毎週のように時間が経つ速さに驚いている。

 

2年前に職場のアルバイトが就職で退職する時に、SABONのハンドクリームか何かを送った。

店員さんが気を利かせてくれて、紙袋を2枚つけてくてたのだが、一枚しか使わなかったので、余った一枚に小銭を貯めるようになった。

毎日、帰宅すると財布の中の100円以下、50円玉と10円玉、5円玉、1円玉を入れる。たまに、気が大きくなったときだけ、500円玉なんかも入れてみる。

目標金額や目的があったわけではないが、いつのまにか習慣になって、気がつくと紙袋の中は半分くらいが小銭で一杯になり、ずっしりと重たくなった。初めの頃は持ち上げて、重たくなった重量感に満足していたのだが、元はハンドクリームを入れるための紙袋、次第に持ち上げることすら憚られるようになってきた。いつのまにかこんなに重たくなっている紙袋に時間の過ぎる速さを体感した。

 

先日、その小銭を銀行に預けていくらになった数えてみることにした。

窓口に持っていくのは行員さんの手を煩わすようで申し訳ないので、ATMで入金することに。

一回の取引で入金できる枚数は100枚まで。紙袋いっぱいの小銭を全部入金するまでに15回の入金記録。

99円の記録はおそらく1円玉を99枚入れたのだろう。あと一枚入れれたのに惜しい。4500円なんて大きな記録もある。これは100玉45枚だろうか。あと、55枚も入れれたのにもったいない。欲張り過ぎて、100枚を遥かに20枚以上超えて、戻されたこともあった。硬貨を数えるガラガラという音が私のATMから常に聞こえる。

15回の入金の間、隣の人は入れ替わる入れ替わる。後ろには長い列。金曜の午後というATMが一番混む時間帯。

行員さんに利かせたはずの気がこんなところで裏目に出る。ネット詐欺の被害にあったハライチ岩井さんのトークを笑う相方澤部さんの笑い声をやけにうるさく感じる。

 

2年ほど貯めた小銭は17,223円になった。

特に使い道はないし、このご時世、使うような遊びもしづらい。

このまま貯金用の口座におとなしく眠るだけである。

 

帰って、財布を取り出して、同じ紙袋に23円を入れた。

また数年後、紙袋を持ち上げるのに憚られる重さになった頃、行員さんに要らない気を使って、後ろで並ぶ人たちの後ろめたさを硬貨が数えらるガラガラという音でかき消して、入金するのだろう。

その頃には、今回の分と合わせて、どこかに旅行に行けるくらいの世の中にはなっていて欲しい。

 

では、こりゃまた失礼いたいしました。

 

 

私の好きなもの100のルーツ #1「サザンオールスターズ」

 

どうもこんにちは。

 

今年は何か一貫したテーマを設けて書きたいと思う。そこで少しだけ考えて、思いついたのが、私が気付いたら好きだったもの、今当たり前のように好きだと公言しているものが、いつから、どうして好きだったのか思い出してみようと。どうせならキリがいいから100個くらい。

そういうわけで「私の好きなもの100のルーツ」と銘打って、100の私が好きなものとの思い出に浸る時間を巡ってみたい。

 

さて、私が好きなものを語るなら、やっぱり第一回は「サザンオールスターズ」しかない。どう考えたってサザンしかない。誰が何と言おうと。

 

大人になってから聞く音楽に与える影響で、一番大きいのは、こどもの頃、車の中で聞いた親の趣味だと思う。

それでいうと、我が家は、母親が英語の通訳をやっていたこともあってか、常に英会話教材の参考音源が流れていた。こんなところに影響されていたのだとしたら、今頃はカーペンターズビートルズか、中学の英語の授業で歌わせられそうな音楽を聴いているに違いない。

私の音楽趣味に大きな影響を及ぼしたのは、中学の頃の部活の同級生たちに違いない。

 

今もサザンを聞くと思い出す原風景がある。

 

夕方、といってももう夜に近くてあたりは薄暗い。相模大野に向かう大きな通りから路地を一本入った先にある小さな公園は「松が枝公園」と呼んでいたと思う。

吹奏楽部の部員が数人、ブランコに乗ったり、ベンチに座ったり、風変わりな形をした滑り台に跨ったりして、話し込んでいる。

指揮者への愚痴、当時裏で隠れて(と言っても周りはみんな知っていたが、面白がって知らないフリして泳がせていた)付き合っていた部長と副部長への悪口、塾に行きたくない、そんな他愛もないことばかりを飽きずに土日の練習が終わるとまっすぐ家に帰らず、公園に自然に集まってはダラダラと話していた。

陽が落ちて、外灯が灯り出す頃、誰が解散をいうわけでもないのに、バラバラの方向に家路に着く。また次の日、7時の朝練で顔合わすのだから、名残惜しくも何ともない。

この時間が、私はすごく好きだった。

 

松が枝公園で、トロンボーンを吹いていた男の子が、学校への持ち込みが校則で禁止されていたiPodを使って流していたのが、サザンオールスターズだった。

サビになるとCMやテレビで聞いたことある曲がずっと流れていた。ちょっと年配の、でも高い声がキレイなおじさんが流れていた。

 

土日の練習がたまに休みになると、午後からみんなで最寄駅界隈で一番安いカラオケに集まった。

みんなが初めに歌うのは当時はやっていたポップスだった。

私とトロンボーンの男の子、打楽器の男の子との三人で、それぞれ配役を決めて矢島美容室を歌ったりしたことがうっすらと思い出される。大したものに抑圧された生活を送っているわけでもない中学生が、何かに解放されたかのようにここぞとばかりに騒いでいた。

それでも、どこかでみんなが飽きてきた空気が部屋中に蔓延して、ドリンクバーに行くのも面倒になって、氷の溶けたグラスをズズッとストローですする音とDAMチャンネルのインタビューの声とで、何とか沈黙だけは避けているみたいな時間が生まれる。

 

そんな時に、思い出したように入る曲が決まってサザンだった。

いつのまにか体に馴染んだメロディ。改めて画面に映る歌詞を見て、その内容の卑猥さに驚いたり、切なさを歌う詞に感傷的になったりした。

時間終了の電話が受付方コールする頃には、みんなサザンが歌い足りなくて、決まって延長した。そして、だれていた時間を毎回、後悔する。

 

私たちが所属していた吹奏楽部は、私たちの学校の中では割と精力的に活動していた方の部活で、顧問も熱心な人だったので、楽な部活とは言えなかった。夏のコンクール前や人前で演奏する直前は根を詰めて合奏したし、部員の集中力も高かった。それゆえに、時に息苦しいような雰囲気が部内に漂うこともあった。

そういう日は、いつもより長く公園にいた。いつもより長くサザンを聞いていた。

今には無いような一生懸命な時間だったな、と感心してしまう今の私。

 

サザンを聞くと、今もあの頃の若さ、というほど今の私も歳をとったわけじゃないが、を思い出す。あの頃から今現在の出来事まで、何かある度にそこには必ずテーマ曲のようにサザンの曲が流れる。

 

この頃、ちょうど付き合っていた人がいた。

中学生が付き合うというくらいだから、一緒に帰ったり、放課後に会ったりするくらいだった。どこかに出かける度に妹を連れてきていたのは鮮明に覚えている。多分、2人きりを照れていたんだろうと思う。

3年生の秋口に理由も言わずに一方的に振られる形で別れることになった。小さなメモ紙に「ごめんなさい」って丸っこい文字で書いてあった字体まで、くだらないようだけど、覚えている。

急いで、松が枝公園まで自転車を走らせた。いつものようにみんながいるのを見て、私は今、自分が悲しいんだってことに気付いて、思いがけず涙が溢れた。

みんながキョトンとする中で、1人、ホルンを吹いていた察しの良い男の子が「別離したんだな」って賑わう周りを制した。

サザンの比較的新しいアルバムの「キラーストリート」の中に「別離(わかれ)」という曲があった。ちょっとマイナーな曲で、この失恋があるまで私もそんな聞いてこなかった曲だった。どうしてだか、彼はこの曲に掛けたような言い方をした。

それから、一生懸命、毎日何度もこの曲を聞いた。この曲を聞いているわずかな時間だけは、大好きな桑田さんが私の失恋の為だけに憂いて歌ってくれている時間だと、不思議と悲しみを少しだけ癒してくれたからだ。

 

この曲を聞くと、いつもあの日の松が枝公園に戻る。

今、これを書きながら久しぶりに聞いてみた。詞を読んでみた。

 

涙とめどなく溢れくる
ひとりすずかけの並木路
君と幸福になると信じてた
愛の灯火が嗚呼 消えてゆく Hum…

 

まるでどしゃ降りの雨のように
身も心もすべてずぶ濡れさ
あの日去り際に僕の手を撫でて
「ちゃんと食べてる?」と 嗚呼 囁いた Hum…

 

悲しい恋の終わりは
予期せぬ運命(さだめ)のReincarnation
もうこれ以上辛い仕打ちはやめて Oh, so sad.
儚い命捧げた
彼女に最後の Celebration
嗚呼 身体中が弾けて散り
闇に溶けてく

 

君は白い花に埋もれて
微笑むように瞳を閉じていた
こんなお別れは淋し過ぎるけど
君の横顔は 嗚呼 綺麗だなぁ Hum…

 

優しい愛の言葉に
すべて身を任せ Sweet surrender
終わりなき夏に燃え尽きたのは人生さ

 

互いに指をからめて
交わす口づけは Warm and tender
もう帰らないあの日のまま
時間(とき)を止めたよ

 

(セリフ)
涙とめどなく溢れくる
ひとりすずかけの並木路
まるでどしゃ降りの雨のように
身も心もすべてずぶ濡れさ

 

夢の中で出逢えたら
忘れがたきはその胸に抱かれ何を語ろう
永遠(とわ)の愛しい乙女

 

悲しい恋の終わりは
予期せぬ運命(さだめ)のReincarnation
もうこれ以上辛い仕打ちはやめて Oh, so sad.
儚い命捧げた
彼女に最後の Celebration
嗚呼 身体中が弾けて散り
闇に溶けてく

 

今よく読み返してみると、別れてしまった女性はその後、亡くなっているように解釈できる。

中学生の淡い失恋を癒すにはかなりヘビーな内容だった。

 

それでも、あの頃の私は「涙とめどなく溢れ」きていたし、「愛の灯火が消えて」いったし、「身体中が弾けて散り、闇に溶けて」行くようだったのは確かなのだ。

 

高校生になってから2年くらい付き合った人との初めての会話もサザンだった。

今思えばすごい負けず嫌いな人だった。

 

吹奏楽部に入りたくて、受験した高校では、迷うことなく当然、吹奏楽部に入部する。

4月の入部したての頃、パートが決まるまで、定期演奏会に向けての事務作業をすることになっていた私たち一年生。

確か、パンフレットに掲載されていた協賛の広告を訂正するシール貼りをしていた時だった思う。もしくは、アンケートで配布する鉛筆にクリップをつける作業をしていた。

いくつかの机を向かい合わせて、黙々と作業していた。

 

何かのきっかけで、私たちは好きな曲の話を雑談がてらしていた。私はもちろん、サザンが好きだということを 自信を持って明言した。

すると、端の方に座っていた女の子が、「私もサザン好き」と食いついてきた。

私が「何が好きなの?」と聞くと、その子は「『Mr.ブラック・ジャック』って知ってる?」と自信満々にちょっと挑発的にすら思える語尾の上げ方で聞いてきた。

私は内心、こいつ嫌なやつだなと思った。というのも、サザンの中でもマイナー中のマイナーで、ファンでも歌える人は少ないだろう曲を上げてきたのだ。こうなると、私の中の嫌なやつも顔を出して、対抗したくなる。

「あー『キラーストリート』のディスク2のトラック6だ」とアルバム名だけでなく、2枚組のうちのどちらのディスクか、また何番目かまで、私は言い当てた。

向こうは、私のちょっと聞くなんて程度では無い、結構ガチなサザン好きを確認して、少し悔しそうに、「そうそう、あの曲いいよね」と話を終わらせた。

それ以来、私は、その子の中で、アルバムの順番まで熟知したサザンファンということになり、交際が始まってから、サザンに関して私に挑発してくることはなかった。

 

白状すれば、私はこの曲を当然知ってはいたが、そんなに聞いてこなかった。まして、キラーストリートに入ってる曲くらいにしか認識していなかった。

ただ、前述の「別離」の2曲先がこの曲だったので、私は何とか思い出せたのだ。

そのことは交際が始まってからは、おろか、つゆぞ彼女に話すことはなかった。

 

よくも10年も昔のことをこんなに覚えている。

久しぶりに「Mr.ブラック・ジャック」を聞いてみると、長かったようで、あっという間だった高校生の頃が蘇る。

やはりあの頃も一生懸命だったのだ。

一生懸命に部活をしていたし、一生懸命に恋愛もしていたと思う。

今、手を抜いているわけでは無いが、あの頃の一生懸命さとはベクトルがどこか違う。前に進んでいるようで、そうやってもがいているようで、実はずっと同じところにいたんだって、今になってわかるような気がする。

 

私の人生に起こる出来事には必ずBGMにサザンや桑田さんが流れる。

 

自分が何をしているのか、わからなくなることがあった。何がしたくて、どこに行こうとしているのか。

そんな時期によく、高校の同級生と深夜にカラオケに行った。そいつは今、八王子にいるので、回数はめっきり減ったが、たまに相模線の端から端まで遥々と行くことがある。

 

あの時間は何かを解決して、どうやって抱えているものを解き放とうかと思案する時間だったのでは無い。ただ、どうしようもない不安を騒いで忘れてしまいたいだけの時間だったのだと思う。

その後、眠さと気怠さと枯れた声と一緒に、6時からチェーンのカフェで働いていた。体力的にも恐ろしく若かった。

 

どちらからそう決めたわけでもないが、3時を回る頃になると、サザンと桑田さんしか歌わなくなった。

毎度、涙が出そうになるようなバラードも、悪ふざけで作ったようなエロい曲も、何でもよかった。

最後の方には必ず『Bye  Bye  My  Love』を歌うのだ。もはやマイクも使わずに、張り裂けそうな程の目一杯の声で叫ぶように歌った。

私はこの曲が好きだが、そいつと叫びながら歌うこの曲が一番好きだ。どうしてそいつがサザンを知っていたのかはよく考えればわからない。カラオケに行くようになった頃から、ずっと歌っていた。

 

私の中で『Bye  Bye  My  Love』という曲は、20代の頭の私とそいつのテーマ曲のような愛着がある。

何を血迷ったのか、私もそいつも、同じような時期に大学を辞めて、同じような時期に実家を出ている。

お互いに今も10年後はおろか、5年後くらい先のことすら、未定にしている。何かあれば、その時に悩んめばいいと思っているのだ。何かに耐え難いものに襲われた時は、深夜に叫びながら、私たちのテーマ曲を歌えばいいのだ。そうすれば、いつのまにか、どうにかなっているものだ。

 

サザンが好きで、なんで好きになったか、思い当たる節を手帳に書き連ねたら、結構な量のエピソードが出てきて驚いた。

本当はもう2、3くらい書きたいものがあったのだが、もうすでにそこそこの量書いてしまった。

書くほうも疲れたが、読む方はもっとお疲れのことでしょう。

 

なんか書いてて楽しかった。

 

では、こりゃまた失礼いたいしました。

 

改めて、私はなんで無意味な勉強をしているのだろう

 

どうもこんばんは。

 

世の中が20時を境に真っ暗になることに嫌気がさしている。

何も大人の作ったコロナ対策に正面切って反抗したいなんて、私の中の尾崎豊が疼いているわけではない。それだったら、とっくにバイクを盗んでいる。

仕事帰りに本を読んだり、勉強したりする場所だった喫茶店やファミレスは私が帰る頃には真っ暗なのだ。年末、私の狭い部屋に押し込めるように勉強机を買って組み立て置いてよかった。

 

20時になると街は真っ暗になる。名指しで感染の巣窟とされた飲食店は泣く泣く灯りを落とす。私が仕事の帰りにちょくちょく通うスーパー銭湯まで20時になると灯りを落とす始末だ。サウナにも自由に入れない世の中になった。

こうなると、感染を封じ込めたいのか、世間から向けられる飲食店のとばっちりを受けたくないだけのか、わからない。

店を閉めろと言うのは、憲法に示されている「経済活動の自由」を犯していないのか。不勉強の分野で大きな声で言えないから、誰か教えて欲しい。まず、初歩段階に何から勉強したらいいのだろうか。初めの一歩すら分からないくらい暗い分野で困った。

 

20時の街も私の法学分野の不勉強も真っ暗で嫌になる。

 

コロナ関係の疑問を調べてみると、どんな疑問の回答にも両極端の意見や見解があって、訳がわからなくなる。

どちらも科学的(らしい)明確な数字を証拠として並べているのに、言うことが全く正反対なんてことがあるものなのか。結局のところ、新型のコロナはやばいのかやばくないのか、コロナ対策と経済活動とどちらを優先させた方がいいものなのか、みんなが全くの正反対のことを言うから、私は調べれば調べるほど分からなくなる。

こうなると、緊急事態宣言下の自粛要請に応じるのが正しいのか、本当は正しくないのか、分からない。

分からないものだから、身動きが取れないのだ。

 

しかし、考えてみると、私を惑わすように正反対のことを言う人たちは、本当のことが分かっているからものを言っているのだろう。

冷静に考えれば、正反対の意見が対立している時点で、一方は本当のことを知っていて、他方は本当ではないことを本当のことのように知っているつもりになっている訳だ。

ワクチンの接種がやっと始まったばかりの未知のウイルスに対して、どちらかが本当で、どちらかが正しくないと言うことを見極めることが私にはできない。毎日毎日数字ばかりが並んで、真相が分からない言説だけが、さも私が本当だ、と言わんばかりの厚顔で、いくらスワイプしても絶えることなく現れる。目まぐるしい。気味が悪い。

 

分からないことに対しては、分からない、という当たり前の立場を見栄を張らずに取りたい。

分からない、と言うことを出発地点として、ものを考えたい。周りが当たり前のように知っていることも一から勉強しようと思う。

 

私が一緒におしゃべりしたらば、楽しかろうと思う人たちを集めて始めた読書会なる企画がある。

月に一度くらいのペースで、お題を決めて、食事をしながら、おしゃべりをする。私の知らないことに造詣が深い人から話を聞くのも面白いし、逆に私がよく知ることを全く知らない人に順を追って整理しながらしゃべるのも楽しい。

知らないことを知らないという立場を明確にするところから始めるおしゃべりは楽しい。

前回の集まりで、参加者の誰もが「ジェンダー」という問題に疎いことが分かった。そこで、次回に向けて、ジェンダーに関して入門的な3冊の参考図書を、どれか一冊担当して、読んで一枚にまとめて持ち寄ることになった。

自分の担当する本を読み切ったところで、全く知らなかった世界が広がって、当たり前のことが当たり前でなくなり、もっと疑問が膨らんだ。

勉強することはやっぱり楽しいことなのだ。

 

こうして考えると、改めて、ソクラテスという人が考えることは本当なんだな。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。