本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。茅ヶ崎の海辺からコカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

私の好きなもの100のルーツ#3「サウナ」

 

どうもこんにちは。

 

私が好きなものをあげ連ねてなんで好きになったかを思い出す企画。

初回、前回でサザンとコーラについて書いてみたら、思った以上に長くて、次を書く気になれなかった。誰に頼まれたわけでもないのだから、書く気にならないならば書く必要もないんだろうけど、自分で決めたことほど、人に言われたことよりもやらなければいけない気がする。

 

手帳に箇条書きで並べた私の好きなもののうち、すんなりかけそうなものを選んで見た結果、今日はサウナについて思い出すことにしていみた。

最近、サウナがちょっとしたブームらしく、専用のグッズが出ていたり、雑誌やテレビで特集されている。去年だかはドラマにまでなっていた。こんなこというと、後出しでずるいのだろうけど、私はこのブームの前からサウナに通っている。それだけは最初に言っておきましょう。

 

週二回、休みの日の朝5時過ぎに生島さんを聞きながら、うちを出る。いつもいくスーパー銭湯までは自転車で15分くらい。

こんな時勢になる前は休みの前日の夜、仕事終わりに通っていたのだが、どこも早い時間に閉まってしまうので、思い切って早い時間から通うことにしたら、これが非常にいい。

朝から二時間たっぷり入っても8時前には出ることが出来て、帰りに喫茶店のモーニングを食べて、本読んで帰ってきても、まだラジオは伊集院さんの時間なのだ。

 

大学に入学して、入ったサークルはオチケン、落語研究会

自分で言うのもなんだけど、学生の割には落語に詳しかったし、何よりも上手かった。本当に自分で言うもんじゃないね。

見学の時に4年生に「どの話が好きなの?」と聞かれて「三木助の芝浜です」と答えた私は相当尖っていたことでしょう。「芝浜は知ってるけど、その話は初めて聞いた」と答えた先輩の落語を面白いと思ったことは、一回もない。「いや、芝浜です。先代の三木助の演る芝浜が好きなんです」と補足した私。今でいえば、落語マウントで先輩を大きく引き離したが、それと同じだけ、その時部室にいた全部員との距離も引き離した。

いつのまにかテーマがサウナから三木助に変わったんじゃないかと思われた方は、ちょっとはやとちり。その勇足をもう一度土俵の中へ。

落語は知っていて、上手いのに、先輩に可愛がられない。それでも、変わらない私の態度。当然、部内で浮く私。それはそれで別によかったんだけど、気にかけてくれた先輩が一人だけいた。早い話がその先輩がお風呂が好きだったのだ。

 

授業の合間なんかに、もっともその先輩にとって合間なだけで私にしてみれば最中であったわけだけれども、よく一駅先にある銭湯に連れて行ってもらった。

「次の寄席でこの噺をやろうと思う」

と相談をされれば、

「それなら先代の文楽師匠の十八番ですよ」

とアドバイスしたり、

「最近、誰の落語見に行ったの?」

と聞かれるので、

「何某師匠の独演会で、あの噺をかけてるの聞きました」

と最初は私の昨今の落語の話から始めて、次第に、最近私が読んだ本、観た映画や舞台、受けた授業の話なんかに広がっていく。アメリカンミュージカルをテーマにした授業で聞いた「ウエストサイドストーリー」の音楽の素晴らしさの話を始める頃になると、私たちはお湯に浸かってられなくなって、湯船の縁に座って足首だけをつけておく。その足首が赤い分だけ、私の話がその先輩にハマった証拠だった。

先輩は私の話を聞くのが好きだったらしい。次第に、その先輩が興味を持ちそうな話題にアンテナを張るようになり、芸人さんのネタ番組は落とすことなく観るようになった。その習慣は今もなんとなく続いている。

毎週のように銭湯で足首を赤くしても、飽きることなく私の話を聞いて、質問を投げかけてきた。

「お前、しゃべるとそんなにいろんなことに興味があって面白いのに、他のやつと話さないよな。もったいない。」

このセリフが湯ぶねから上がって、サウナに向かう合図だった。

 

そもそも下戸であるし、大勢が集まっての飲み会や合宿には興味がなかったが、その先輩に誘われてしまえばいくしかない。

参加の意思を示すと、同期の人間すら驚くくらい私の参加は稀有だった。半年以上所属していたサークルなのに、半分以上の人間と口を聞いたことがなかった。落語を演る時以外、このサークルに私の居場所はなかった。

そんな具合だから、飲み会が始まっても、特に誰と話すわけでもない。そんなことよりも、ここに来る前に買った小林賢太郎さんの本が早く読みたくて仕方がない。

少し経つと、ビールのジョッキを持った例の先輩が隣に来るように私を呼んだ。

「なんだっけ、お前がこの間言ってた『あまちゃん』のジオラマの話」と、前に銭湯で話したドラマの話を振ってきた。

前にしたのと同じように、観光協会の会長が仕事をサボって作っていたジオラマが震災を表現するシーンで巧みに使われていたことに感動した話をした。

熱量は銭湯の時の方があったと思う。私の周りを囲んだのは先輩以外は全く話したことがない人たちだった。そんな人たちが私の話をえらく楽しそうに聞いている。そして、関心している。

話をしていく中で、その中のある人はテレビ業界を志望しているらしく、テレビ局や制作会社を中心に面接を受けている就活生だった。そう言う人からすると、私の観ているもの、読んでいるものの幅が広いらしく、また、それに対しての感想だったりが面白かったらしい。その後も最近見たバラエティの話や、映画の話を矢継ぎ早にあれは見たか、これは見たかと質問された。そして、私が感想を答えるたびに深くうなづいた。

 

それから、浮いていた存在感はだんだん地に着いてきて、いつの頃からか私はご意見番みたいな立ち位置にいた。私に落語の稽古をつけてほしいと言いにくる先輩もいたし、次に演る根多の相談に来る人もいた。落語をやらずに漫才やコントを中心にやっているような人からもネタを観てほしいと呼ばれた。

あの頃は忖度なんて言葉は知らなかったが、忖度せずに面白くないと言った。今思えば、生意気だった。それでも私が言うならば、と言う空気があったのだ。今でいえば、フワちゃんのタメ口みたいなものだろう。

新ドラマの頃になると、テレビ業界を志望している人からドトールに呼ばれて、今期は何が注目なのかとあれこれ話したりした。

 

テーマがサウナから落研時代になったのか?と思われても仕方ない。今回はあなたの勇足じゃなさそうだ。

サウナの話に戻ろう。

要するに、そうやってサークル内で、居場所を作るきっかけになった先輩に連れらたことが私がサウナに通い始めるきっかけになったと言うことなのだ。

 

そんなことをきっかけに足繁くサウナに通うようになった。

噂に聞く聖地、静岡の「サウナしきじ」に二時間以上電車を乗り継いで行ってみたり、どこか旅行に行こうものなら、その土地でサウナを探す。深夜バスで京都に向かった時も朝一番にサウナに入った。思いつきで行ったUSJの前にも何はともあれサウナを探した。

 

気持ちのいいサウナは美味しい唐揚げの火入れ加減と同じだ。

高温でカラッと揚げた方が油の切れもよく、美味しく揚がる。しかし、表面と中では火が入るのに時間差がある。中まで火が入るときには表面はカチカチになってしまう。

なので、表面に火が入った頃に油から一度上げて、余熱で中に火を入れていく。少し置いたところで、もう一度油の中へ。こうして、表面と中とバランスよく火を入れると最高の火入れ具合の唐揚げが仕上がる。

 

まずは体を洗って、炭酸泉に浸かる。温度が低めだが、炭酸の効能で15分も入っているとうっすら汗をかいてくる。いきなりサウナに入るとその高温のせいで、体の中まで温まらずに我慢できなくなる。体が芯まで温まらないと、この後の水風呂が気持ち良くない。だから、まず炭酸泉で余熱を入れていく。

炭酸泉の効能で血流の巡りをよくして、ポカポカしてきたとこでようやく一セット目。

一セット目は大体サウナに10分前後入る。短い時間でも汗がガンガンに溢れてくる。

スマホが見れるわけでもない、本が読めるわけでもない。ただ、熱さとだけ向き合う時間はサウナでしか経験できない。こんなときに熱さから逃げて、備え付けのテレビを見ている人の気がしれない。

一セット目はそんなに負荷をかけずにサウナをでて、水風呂に入る。その前にマナーとして、汗を流すのは当然として、私は必ず頭から水を浴びる。サウナから出ては、なるべく早く、急いで、頭から一気に水を、そのことしか考えない。

汗を流したところで、水風呂に思いっきりに肩まで浸かる。決して、潜ったりはしない。たまに隣で潜っているおじさんがいると信じられない。

身動きせずにじっとしていると、いわゆる「羽衣」と言われる温かい水の層に包まれる。私は羽衣を感じたら、思いきっり体を振ってこれを破る。そして、もう一度、羽衣ができた頃に水風呂を後にして、体をよく拭いて外気浴に。

待ってました、外気浴。この時間が一番気持ちいい。頭が空っぽになって、何も考えられない。東海道線をいく電車のガタゴトを聞きながら、体に当たる風が気持ちいい。この状態を「整う」と最初に表現した人は本当に上手いこと言う。私から私が飛んでいって、体だけの状態になる。何も考えられない。デカルトはサウナの後の外気浴で例の口説き文句を思いついたんじゃないかろうか。別に誰も口説いてないよ。

そうしているうちに、どこかに行ってしまった我が帰ってきたら、水分をしっかり摂ってから二セット目に。もちろん、二セット目のサウナの前にはまた炭酸泉で一度揚げしておく。

1時間前後の時間をかけて、二セットか三セット繰り返して入る。

 

以上が私の好きなサウナの話。

 

これを書き出す前の私よ、何がすんなり書けそうだ。結構な量を書いたじゃないか。

ここまで読んだ人なんかいなんだろうな。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

「俺の家の話」最終回 ー対置される不在と存在ー

 

どうもこんばんは。

 

気がつくと3月が終わって、それと心中するように今クールのドラマも最終回を迎えていく。

とうとう終わってしまった「俺の家の話」も例外ではない。

 

クドカン作品として、今までを凌ぐ傑作だったために考察や論考が色々と出回っている。とても素晴らしいものもあったので、今更私が書くこともあるのだろうかなんて思うのだが、一応、誰も手をつけていないだろうと思われるところを掘り下げてみるつもりでいます。うまいこといくものかしら。素人の駄文ですから、拙さには目を瞑ってください。

 

クドカン作品は相容れない二つものを組み合わせるところから物語が始まり、それを超えたところに物語の結末があるんだ、ということは前に述べていると思います。

2021年1月クールのドラマ、クドカン多め - AM1:00-3:00

今作の「能」と「プロレス」という相容れない組み合わせについても、方々で私なんかよりもずっと立派な方がおっしゃっているので、とかく申しません。言いませんけど、「能」と「プロレス」の相反する側面のうち、私が大きいと思うところで、まだ、どこでも読んでいないものだけ、一つ紹介させてください。

出典が不確かなところも、習っていないから致し方ないと、門前の小僧同然の素人ですから、許していただきたいと、前置きをして。

 

昔、鷲田清一さんだったか和辻哲郎さんだったか、或いは全然違う方だったかが、能の能面について言及していて、面白いと思った考察がありました。

簡単にいうと、能面の大きな役割は表情を奪うことである。人間が言葉の次に他者との伝達において依拠している表情を能楽師から奪うことで、観客は能楽師の「身体」から必要な情報を得なくてはならない。そのために、能において、身体が表している「型」はその重要度を増すことになる、という趣旨のものでした。

一方、今作で「能」の対局に置かれていた「プロレス」。このプロレスのシンボルとして登場していたのが本人役の長州力さんでした。「飛ぶぞ」などのキラーフレーズを持つらしい(というのも、私はプロレスに疎いので調べただけなのですが)長州さんですが、そんな長州さんが放ったキラーフレーズの中で、最近話題になったのが「形変えてしまうぞ、この野郎」です。詳しくは割愛しますが、「相席食堂」という千鳥さんがメインMCの番組内での発言でした。このシーンは私にも記憶があります。なんせこの番組のファンなものですから。この発言をモチーフしたパロディは最終回の葬儀のシーンで「車の形が変わってる」という形でも登場します。

おそらく、偶然でしょうが、「型」を重要視する「能」の対局に「形を変えてしまう」長州力さんをシンボルとする「プロレス」が対置しているのは私には何かあるような気がします。

 

なんていうのは、結構こじつけですし、強引なので、余談です。

 

しかし、鷲田さんか和辻さんかがいう「能面」を通して次のようなキーワードが浮かび上がるような気がします。それは表情を失うことによる能楽師の「不在」です。

能楽師はその存在を能面の裏に隠します。だからこその「型」への依存なのです。

 

それが何かというと、今作「俺の家の話」というのは主人公観山寿一(長瀬智也)の「不在」の物語でもあったのではないかと思うのです。

寿一の「不在」を物語るシーンはいくらか例を挙げることができます。

幼少期の回想で、寿限無とふざけ合う寿一。門弟が叱りにくるのはいつも寿限無ばかりで、寿一は叱られたことがない。あのシーンでは寿一は叱られないどころか門弟に見えていない、つまり寿一が「不在」であるかのような印象を受けます。

そして、寿一は父親と唯一言葉を交えることができたプロレスの道へ進み、自分から観山家を離れます。父親に近づこうとするがために、父親の元から「不在」の状態となったわけです。

このドラマはそんな寿一が帰ってきたところからを描いたものでした。しかし、帰ってきたからといって、寿一は存在したかというと言い切れませんでした。

その理由はさくらをして言わしめた寿一の「自分のなさ」です。家族のために、オヤジのために、とさくらに頭を下げる寿一にさくらが言うのです。

この「自分のなさ」は各エピソードのきっかけになっていたような気がします。つまり、寿一の「不在」が物語の通奏低音として、物語を進めていたのです。

寿一の「自分のなさ」はさくら(戸田恵梨香)とユカ(平岩紙)とが直接的に「寿一くんには自分がない」というやり取りをするシーンも見られます。それにその二人は「観山寿一」を好きになったのではなく、「ブリザード寿」と「世阿弥スーパーマシン」を好きになったのです。そこからして、さくらと寿一、ユカと寿一の関係において、本来の寿一の「不在」から始まった関係と言えます。

そして最終回。信号に引っかからずに、藤田ニコルと遭遇して、死を直感した寿三郎(寿三郎)はエンディングノートに並べた「数の子一本食い」を寿一に譲ります。寿三郎は自分が数の子を譲ったことで、死まで忌避して、寿一が代わりを被ったと考えます。人の死を引き受けるということも寿一の「不在」故のことだったと思えます。

 

そんな「観山寿一の不在」が最終回でいきなり物語の前面にわかりやすく出てきます。それが寿一の「死」です。大晦日の試合にて、物理的に寿一は「不在」となります。

しかし、死んだはずの寿一が、「隅田川」の本番中の寿三郎の前に現れる。これは認知症の寿三郎の幻覚だったとも言えるし、世阿弥と元雅との議論を引っ張り出した時の「会いたいから会いにくる」と意思表示をした寿一の思いの強さだったとも言えるでしょう。どちらにしろ、本番中の寿三郎を通して、寿一が存在している。

つまり、最終回に来て、物語の基礎にあった「寿一の不在」が寿三郎を通しての「寿一の存在」と対置されるのです。クドカンの伝家の宝刀です。

そして、「不在ー存在」の相反するものを寿三郎の「人間家宝」という言葉によって超えていくのです。

この物語は「能ープロレス」という表題的な相反する対置を超えるのではなく、もっと普遍的な「不在ー存在」と言う対置を超えていく物語だったのではないかと思うのです。だから、過去作にないほどの考察が論考が溢れるほどの素晴らしい作品だったと思うのです。

 

「人間家宝」という言葉によって、ずっと褒められずにいた寿一は初めて寿三郎に褒められます。褒められて浮かない顔をする寿一。褒めるということは終わるということだったのです。これはしょうがないのです。何故なら、「そういうことだから」

 

物語は寿一が語る「俺のいない俺の家の話」で幕を閉めます。寿一の不在でドラマはエンドロールへ向かいました。

 

こんなに長々と本当に読み切った人がいるのかしらというくらい書いてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいです。

でも、好きなドラマだったので、誰に笑われようが書きたいことが書けて、私は満足です。

私の満足のためにすいませんね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

未鑑賞映画「花束みたいな恋をした」

 

どうもこんばんは。

 

今週、やっと坂元裕二脚本、土井裕康監督映画「花束みたいな恋をした」(以下、略称「花恋」)を鑑賞に行きます。

大好きな坂元裕二作品で、今からワクワクしてます。楽しみすぎて、まだ見てないのに映画のことを考えて、少し文章にしてみました。

 

今のところ、キャスト、スタッフ、タイトル、PR用に公開された数分の映像、それから映画を見る前にフライングして買ってしまったシナリオブックの脚本家のあと書きだけが入ってきている情報で、これしかないのですが、これだけで、この映画について考えてみました。

再三、言いますが、まだみてない映画について考えてます。

 

まず最初の取っ掛かりとして、ヒロインの有村架純さん。

坂本裕二×有村架純というと、真っ先に思い出されるのが、フジテレビのドラマ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」(以下、略称「いつ恋」)でしょう。田舎から出てきた高良健吾さん演じる練と有村架純さん演じる音の二人を中心に、六人の若者が東京で暮らし、夢を追い、それに破れ、恋をしていく物語でした。

有村さん繋がりで「いつ恋」と比較してみると、いくつか共通点を見つけました。まずはタイトルです。

今回の映画は「花束みたいな恋をした」で、ドラマの方が「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」です。どちらにも共通するのは過去形である点です。

しかし、「いつ恋」は、終わった過去の恋を指し示しているようなタイトルなのに最終話では二人の関係にピリオドが打たれることがない。練と音の関係に希望を持たせて、トラックは遠回りをして、筆が置かれています。

まだ見ていない映画なので、なんとも言えませんが、「花恋」も過去を指し示しているていとるですが、必ずしも切ない終わり方をしているとは限らないんじゃないかと。坂元裕二作品の中は希望の見える終わり方をしているものがかなり多くあります。

「問題の多いレストラン」ではビルの屋上でのレストランを閉めて、海辺の廃屋に向かって走り出すシーンで終わっているし、「Mother」でも20歳になったつぐみと奈緒がクリームソーダを挟んで手を取り合って再会のシーンで終わります。

作品では書かれていないその先で登場人物たちは生きている。坂元裕二という脚本家は、私たちが知ることの出来ない彼らのその先の人生を少しだけ明るく照らしてくれるのです。だから、きっと彼らと街ですれ違うんじゃないかという予感が私はいつもしている。

タイトルからだけで、見ていない映画についてこんなふうに考えてしまっています。

 

「花恋」と「いつ恋」の共通点としてもう一つ、ファミレスの印象的なシーンがある。

https://youtu.be/cFrBhxMpMwk

公開されている「花恋」の予告0‘44あたり。ファミレスで二人が向き合う印象的なシーンが公開されている。

ファミレスといえば、「いつ恋」だ。第一話で音は練と一緒に初めてファミレスに入る。そこで、違うハンバーグを頼んでシェアする練の提案にいたく感心する音。ファミレスのシーンは最後にも、もう一度。練と音が再開する場面がファミレスでした。

予告を見る限り「花恋」でもファミレスが象徴的なシーンであることは間違いなさそうです。

 

タイトルと予告だけで考えられることをタラタラと書き連ねてみました。

さて、実際に映画を観てみると、どうでしょうね。楽しみでしょうがないですね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

小木さんとSOCIAL ACTIVEST CLUB、バックラッシュを誘発しかねない大きな失敗

 

どうもおはようございます。

 

朝から、というか私としては前の晩からなんだけど、久しぶりに頭の中をぐるぐる巡るような問題にぶつかったので、整理する意味でもこれを書いていこうと思います。

 

昨年から、私が企画した「読書会」なる集いがあって、前もって決めたテーマについてわらわらと話す会を小さいながらに主宰しています。

前回、ひょんな話の成り行きで参加者がジェンダーの問題について、認識が曖昧だったり、理解が不十分な部分があることが分かったので、それぞれ割り振られた参考図書を読んで、レジュメにまとめようという課題が決まりました。

ちなみに以下の3冊です。

知らないと恥ずかしい ジェンダー入門

炎上CMでよみとくジェンダー論 (光文社新書)

ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた――あなたがあなたらしくいられるための29問

 

どれもジェンダーの問題を一からわかりやすく、でも、しっかりとこの問題の核となる本質に導いてくれました。ジェンダーの一番の問題はそのことがまだ問題にすらなっていないという点です。私もまだまだ勉強途中の問題で、この問題に対して未熟という意味においてフェミニストとは言い難い立場ですが、それでも曲がりなりにも関心を持ってちょっとかじった人間として、社会が取り組むべき問題の最優先事項の一つであることは間違いないとする立場であることはまずはじめに明確にしておきます。

今、この問題への未熟さを明言しましたが、もし、このことに対して、「未熟な奴が語るな」という立場の人がいるなら、その人はこの問題の本質まで辿り着けていない私以上の未熟者であることを添えておきます。

だって、この問題って男女の隔たりなく、全員が自由に生きることへの妨げのない社会の実現を目指すものであるのだから。その実現に対して、知見の深さで二分してしまう行為は「男女の二分」を「知見の深さの二分」にただフォーマットに乗り換えただけの人ですから。何も実現されていない。

銀行からの借金を消費者金融で借りたお金で返済するのと同じことですから。

 

なんでこんなことを急に言い始めたのか。きっかけは最近急激に広まった新しいSNSツール「clubhouse」にある。

経緯を簡単にまとめるとこうなります。

まずは発端はラジオでの小木さんの発言にあります。その発言を問題視した人たちが「SOCIAL  ACTIVEST CLUB」というclubhouse内でのルームで取り上げました。その議題に当人の小木さんが参加したのですが、その内容や取り上げ方が問題視され、ラジオリスナーをはじめとする小木さん擁護派がTwitterで物議を醸しました。

 

この発言の良し悪しにはついては触れません。深夜ラジオという密封性が高く、パーソナリティとリスナーとの間をそれなりの信頼が取り持っている文化だということも加味する必要があるし、この発言を槍玉に挙げた人たちのどれだけがネットニュースでなく、ちゃんとラジオの音源を聴いたか、でも、やっぱりこれだけコンプライアンスが重視されている昨今の情勢に公共の電波を乗せるふさわしい内容だったのか、などいろんな判断材料が相まってこの発言に対する立場を決めると思うので、その立場に立つことの是非はここでは問いません。

SOCIAL  ACTIVISTという人たちがこの発言を問題視することにも一理あることは違いません。

ただ、その問題視した発言をどう取り上げて、どう発信していくのか、その方法が社会のフェミニストの方々に対する視線を決定づけるのだろうと思います。その意味で、あのルームで行われていたことは、社会のフェミニズムに対する、強いてはジェンダーの問題に対する見方を歪みかねない、というか、Twitterではすでに「バックラッシュ」を誘発しかねないような間違った意見が見られた時点で、この問題を好転させたとはまずもって言えないでしょう。SOCIAL  ACTIVISTの方々の意図とは関係なく、フェミニズムに対する間違った見解を生んでしまったという点であのトークジェンダーの問題をむしろ後退させたとも言えるでしょう。

なぜ、バックラッシュを誘発するような失敗だったのか。小木擁護派があのルームを受けてすべきことは、バックラッシュを誘発するような間違った意見を述べることではないはずです。では、本当にしなくてはいけないことがなんだったのか、考えてみたいと思います。

 

最初に述べたように、ジェンダーの問題は、まだ問題視されていないことが一番の問題だと思うのです。ですから、ジェンダーの問題を公で議論しようとするとき、まずは問題を共有することから始めないと議論にならないことは明白です。

SOCIAL  ACTIVISTの方々の最初の失敗はこの共有が行われていないことです。この共有はこれから議論を交える同士の最低限のマネーのようなものです。それを問題の定義がされる前から、認識していることを前提として、議論が進められていました。それどころか共有されていない問題について進められる話に困惑する小木さんに苦笑するかのような発言や口調も見られました。

これでは聴いているオーディエンス達は、SOCIAL  ACTIVISTの方々に対して、いきなり上から目線で不躾な人たちという印象を持ちかねません。

 

次にSOCIAL  ACTIVISTの方々の小木さんの意見を聞く姿勢です。

小木さんは終始、ネットニュースで活字にされた文章ではなく、実際のラジオを聴いてほしいということを主張していました。しかし、その主張は「活字にされた内容と音声の内容とではその違いはない」という乱暴な理由で耳が貸されることはないのです。

小木さんの意見を聞かない姿勢、というよりも聞くことが出来ない姿勢について考えてみると、その背景にはSOCIAL  ACTIVISTの方々に「フェミニズムに絶対的な正義」の意識があるのだと思います。多様性の尊重がジェンダーの出発点のはずです。その多様性の余白には間違いなくセクシャルマイノリティが含まれています。その多様性を出発点にしたジェンダージェンダーへの見識の浅さを攻撃しては、出発点であるはずの多様性そのものの否定になってしまいます。

つまり、SOCIAL  ACTIVISTの方々が自分たちの主張の絶対的な自信を振りかざして、他の意見に排斥的になるということは、自分たちの主張の出自を失ってしまう逆説的な姿勢であると言えます。

 

SOCIAL  ACTIVISTの方々のclubhouseでのトークの大きな失敗について、大きく二つ理由を挙げました。ジェンダーを扱う最低限の共有すら出来ていなかったことが一つ。それから、自分たちの主張の依拠するところをひっくり返す矛盾が見られる対話姿勢が一つ。

 

さて、次にこのトークを聴いた私たちオーディエンスが考えなくてはいけないことはなんでしょうか。

私が一番言いたいことはここにあります。

別に未熟で中途半端な議論とも呼べないようなネットリンチが行われた理由なんか大した興味はないんです。ただ、これから先を言いたいがための前口上として必要があるから、書いておいただけです。

 

一番やってはいけないことは、SOCIAL  ACTIVISTの方々をして、フェミニストがなんたるかを決めてはいけないということです。

本当に頭のいい人が書いた上のようなちゃんとした本を読めば、あのトークで行われたことがジェンダー問題の本質的な解決にならないことは一目瞭然です。あのトークを聴いて小木さんを擁護する姿勢に何か問題があるとは思いません。ただ、小木さんを擁護することとフェミニストについて間違ったレッテル貼りをすることは全く違う行為です。そして、あのトークからフェミニストのなんたるかを考えることは不可能です。本質まで全く掘り下げられていない議論をもってしてフェミニストについて語る行為は愚かと言わざる終えません。それはネットニュースの書き起こしだけを読んで、ラジオを聞かない姿勢と全く同じだからです。

だから、小木さん擁護派には少しでいいからジェンダーについて、フェミニストの主張について、本質に迫る文章を読むなりすることをお願いしたいんです。

小木さんを擁護することとフェミニストについて間違ったレッテルを貼ることをごっちゃにせず、本質よりうんと浅いところでフェミニストに対する決めつけをして、SOCIAL  ACTIVISTの方々と同じところまで堕ちることがないようにすることが何よりも肝要だと思う。

 

書きたいことの半分も書けたかはわからない。

ということは書きたかったことの半分以下しか伝わらないわけだ。

 

この騒動だけを取り上げると、clubhouseは恐ろしいように思えるが、そんなことばかりではない。

 

私がよく参加させてもらうルームはサザンについて語るだけのもので、すごく和やかで居心地のいいところだ。

サザン好きな人たちだけが集まって、ただその話をするだけで、そこにはつまらないマウントの取り合いもない。

居場所が見つかれば、いいツールだと思う。

 

朝が来てしまったね。

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

私の好きなものも100のルーツ #2「コカコーラ」

 

どうもこんにちは。

 

私の好きなものを100コあげ連ねて、なんで好きになったのかそのルーツを思い起こそうという企画の第2回はコカコーラ。

 

私のことを知る知人たちに、「私という人間から連想するものは?」と聞いて、「コーラ」と答える人は8割を超えるだろうと自負している。いらない自負だけど。そう答える人は、ものの道理が分かる人だ。きっとカツオのタタキを生姜醤油で食べる人だろう。それくらいにはものを知っている。

ただ、私を語るなら、それで満足してもらっては困る。もっと通はいるものだ。同じ質問をしたときに「『赤いコカ』コーラ」と答えらるかどうか、これが本当の通というものだ。脂の乗った寒鰤をリンゴと大根の合わせおろしとポン酢で食べるくらい、通を誇っていい。

 

昨年、「香水」という曲が流行った。

別に君を求めてないけど横にいられると思い出す
君のドルチェ&ガッバーナのその香水のせいだよ

五感に感化されて、過去のことを思い出すという経験は誰でも経験があると思う。

それでいうと、コカコーラのあの強く弾ける炭酸、口の中にくどいくらいに残る化学的な甘みで私のことを思い出す人は、男女問わず、少ないと自負している。これもいらない自負。

中には赤い自販機の中で売られているコカコーラを見るたびに、私がフラッシュバックする人もいることでしょう。

 

私ほどおいしそうにコカコーラを飲む人間もいない。いまだに私にところにCMのオファーが来ないことが不思議なくらいだ。

瑛人さんがコカコーラのCMソングを歌うそうだが、早熟極まりないと思う。ぜひ、彼にはドルガバで元カノを思い出す人間になる前に、コカコーラで元カノに思い出される人間になってほしいと思う。

 

そんな私の血管にコーラが流れるようになったのは、いつのことからか。思い出してみる。

 

幼少期、我が家ではコーラはおろか、基本的にジュースを飲むことがよしとされていなかった。

よしとされていなかった、というよりも冷蔵庫の中にジュースが入っていることがほとんどなかった。中学生になってお小遣いの配給が始まるまでは、家にあるものを食べるしかないわけで、自分で買うことも出来ない。たまに飲む機会があったとすれば、祖父母の家や友達の家にお邪魔したとき、それから、外食の時くらいだった。外食の時と言っても、食事中はお茶と決まっているので、食後に親がコーヒーを飲んでる隣でやっと飲めたのがジュースだった。それでも、高学年になるまでは炭酸も禁止されていたので、私がコーラと出会うのは、小学校の高学年になってからのことだ。今ではこんなにコーラで活躍している私も、実は随分遅咲きのデビューだった。

 

人間は大きな抑圧があると、大抵、それから解放された時のその反動は大きい。私のコーラも然りだった。

 

中学生になった私がコーラに向かって解放されたのには二つの大きな理由があった。

一つにはお小遣い制度の始まりがある。

使い道に制限がなく、誰かに管理されることもない自由なお金。それまでのコーラへの抑圧が強かった分だけ、それは羨望に変わり、憧れになって、お小遣いを食い荒らしていく。歯止めは効かないし、効かす必要もない。部活の帰りによく飲みながら帰った。

今でこそ、自販機で買うと500mlのペットボトルサイズで160円だ。それが当時はコンビニで500mlの缶というのが売っていて、それは100円で買えた。あの頃は、今よりも税金も大切に使われていたのか消費税も5%だったので、少ない中学生のお小遣いでもどうにかなった。コーラ一つで、税率の推移まで見えてくるのだから、コーラはやめられない。

もう一つ挙げられる理由に中学のお弁当制度だ。

小学生までの給食が終焉を迎え、中学生からはお弁当になる。普段は母親が作った弁当を持っていくのだか、幸か不幸かうちの母親は朝が弱かった。それに加えて、私の所蔵する吹奏楽部は毎朝朝練があり、しかも、我が家から中学まで徒歩で30分以上かかった。これらの要因がどうコーラにつながるのか。つまり、ただでさえ通学に時間がかかるのに、朝練で7時ごろには家を発つ私に朝の弱い母親のお弁当が間に合わないことが往々にしてあるわけである。そうなると、寝ぼけ眼の母親から昼食代として、500円支給される。

コンビニでおにぎりやパンが100円で買えた時代のことだ。パンを一つ惜しめば、コーラが買える。これが私にとってどれほど魅力的で妖艶な誘いだったことだろう。

チョコチップが練り込まれた細長いパンが5本入って150円のものを2袋とコーラを2本。これが私の500円の使い道だった。午前中に1本、午後に緩くなったコーラが1本と1日に2本も飲めたのだ。

 

この二つの理由が災いして、私の心臓はコーラを体に駆け巡らすポンプとなったのだ。おかげで、毎月我が家にはコーラが段ボールで届けられる。2階の角部屋まで運ぶ運送会社の方には本当にご足労かけている。

 

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地域限定デザインのコーラのボトルがある。

この写真は少し古いもので、今ではこの数倍あるが、私の部屋には飾りきらないのでしまってある。

私が買い集めたものもあるが、それ以上に貰い物が多い。知り合いが地方に出かけて、コーラのボトルを見ると、私を思い出すらしい。時々、「これもってる?」と写真を送ってくれさえする。そのことについてこの場を借りて言っておきたいことがある。そのデザインのコーラを持っているかどうかは問題ない。たとえ、デザインが被っていようが、中身はコーラなのである。それを私が飲まないわけがない。いただければ、飲むのだ。なので、私の持っているボトルのデザインと被るかどうかなど、気になされずにレジを通していただければと思う。いつもありがとうございます。

 

飲み物としてのコーラへの愛がいつのまにかブランドとしてのコカコーラへと変わっていった。

コーラのデザインのものを集め、部屋が赤く染まる。赤い部屋というと江戸川乱歩が思い出されるが、私の部屋で自殺があったりなんかはしない。

コカコーラなんかいくらでもグッズがあり、そのうちコカコーラデザインのものだけで、生活できるようになるのではないか。私はそれを強く望んでいる。贅沢を言えば、コカコーラで真っ赤な部屋とサザンのポスターが張り巡らされた部屋とがあるんて最高だと思う。

 

今日はこのあと歯医者だ。

歯科医には一目で甘党が見透かされ、コーラを止めるように指摘されたが、それだけはできない。

歯を守るためにコーラを飲まずして、鬱病になるくらいなら、私は喜んでコーラで歯を溶かす。

 

では、こりゃまた失礼いたいしました。

 

 

2021年1月クールのドラマ、クドカン多め

 

どうもこんにちは。

 

家に帰ると、毎日タブレットTverを起動しては(アプリは起動でいいのか?)ドラマを観ている。

なんせ、今クールは面白いドラマが多い。それもそのはず、各局、顔を連ねる製作陣は名作を生んだ人たちばかりだ。

テレビのない我が家で、ドラマを見るにはTVerの見逃し配信しかない。しかし、それも一週間しか時間がない。

今クールのような面白いドラマが多いクールは、帰宅してから、忙しくてしょうがない。もう1ヶ月もこんな生活をしている。まだ、3ヶ月は続く生活だ。

 

金曜のTBS。

クドカン×長瀬智也×磯山晶×金子文紀という今まで名作しか生んでこなかった顔ぶれが手掛けた「俺の家の話」は第一話からワクワクが止まらなかった。

ヤクザと落語家、刑事と恋多き男、おばちゃんの井戸端会議と復讐という両極端の世界観を力づくのようで、ちゃんと説得力を持たせて重ね、破天荒な設定を成立させてきた「タイガー&ドラゴン」「うぬぼれ刑事」に「監獄のお姫様」

それに、今や伝説と言っていい平成を代表するドラマ「池袋ウエストゲートパーク」など、この四人が手掛けたドラマはどれも名作ばかり。

 

今作も「プロレス」と「能」という正反対の世界観を掛け合わせた設定がクドカンらしい。

なんで?とツッコミたくなるような状況を作っては、その状況を当たり前の前提として登場人物達が行き交う。別役実さんの世界観の根底と通じる部分を感じる。その状況をツッコんではいけない。そこはツッコまず、その状況で当たり前のように過ごしている登場人物達にツッコミが生まれる。

 

ロープに投げられている最中に俺の家の話についてのナレーションから始まる。早速「なんで?」から始まるクドカンらしい第一声に私はワクワクする。

能を介したせいで破綻状態の親子関係を25年の年を経て、介護を通じて修復しようとする物語だ。安定の役者陣によるキャスティングでクドカンの持ち味である会話劇としての楽しみはいかんなく発揮され、毎シーンごとが楽しくてしょうがない。

 

クドカン脚本の特徴の一つだと、私が勝手に思うものの一つに、主軸関係と副軸関係のメタ的なつながりというものがある。

随分と大仰な言い方をしたけど、早い話が、物語の軸となる登場人物の関係性と似たものが別の関係性に見られるのである。で、それが物語全体の展開に推進力を持たせいる、という話である。全く早くないけど。

今作でいえば、主軸関係として寿三郎(西田敏行)と寿一(長瀬智也)の親子関係に対して、メタ的な副軸関係として、寿一と秀生(羽村仁成)の関係が並行して描かれる。

 

物凄い余談だが、秀生役の羽村仁成くんは「じんせい」と読むのか「ひとなり」と読むのか、どちらか悩んでしまう。愛が欲しいわけではないけど。

 

この関係は過去作にも多く見つかる。

あまちゃん」ではアキ(当時、能年玲奈)と春子(小泉今日子)の主軸関係に対して、春子と夏(宮本信子)の副軸関係。

「タイガー&ドラゴン」の小虎(長瀬智也)とどん兵衛西田敏行)の師弟関係を主軸として、小虎と組長(笑福亭鶴瓶)の副軸関係にある師弟関係も描かれる。

 

他にもいくらも例はみられるが、クドカンの描くドラマの相関図には必ずと言っていいほど、このメタ的な関係が見られる。

 

それから、主人公たちがドラマを展開させていくのに理由がないことも一つの特徴だと思う。

クドカン作品の登場人物たちが面倒ごとに取り掛かることに頭で考えたような理由がないのだ。

マンハッタンラブストーリー」のマスターは常連客の話を盗み聞きし、彼らの恋路を手助けるために走り出す。刑事コロンボを模したコートを脱ぎ捨て、蝶ネクタイを投げ捨て、付け髭をひっぺがす。そこに理由はなく、ただ「ああー」と叫びだすだけなのだ。

池袋ウエストゲートパーク」の主人公マコトもそうだった。G-boysの面々が持ってくる厄介ごとをなんだかんだ断りながらも、最終的には「めんどくせぇ」の一言で解決に身を乗り出す。

「11人もいる」で神木隆之介さんが演じた長男一男もそうだ。家族のゴタゴタを解決するのに理由なんかない。ただ、「長男だから」という理由で、彼は学校も恋も犠牲にして、家族のために走っていた。

 

今作もそうだ。

自分が幼い頃、父親が自分にやってくれなかったことを介護を介して、父親にするという決意。この物語の主軸となる決意に理由なんかない。

そういうもんだからだよ

自分が人間国宝の長男として生まれて、観山家の宗家を継がなくてはいけない理由として、ずっと父親に言われていた呪いのような言葉だった。ここに寿一郎が介護を引き受け、宗家を継ぐことには、はっきりした理由はないのだ。

クドカン作品の登場人物たちが走りだすのにいちいち頭で考えるような理由はない。そんなものはいらないのだ。

 

と、ここまでいくつかクドカン作品について書きながら、今回はクドカンについてではなく、今クールのドラマについて書きたかったことを思い出したので、ここから描こうと思っていたことをざっと一言で話す。要するに、今作にもクドカンの過去作に見られる共通のクドカンの特徴がたくさん見つかって、第3話まで見ただけで、面白いな、ってことである。

乱暴にも程がある。面白いについて、どう面白いのか、何が面白いのか、言葉にするから意味があるのに、こんなにまとめて一言で片付けては書いてる意味がない。

 

同じくTBSの日曜日。

森下佳子×綾瀬はるかも過去に面白いドラマを生み出してきた名コンビだ。「天国と地獄」も入れ替わりという設定も刑事と犯罪者の立場逆転という設定も王道ではある。それでいうと、設定がどうこうではなく、誰と誰が入れ替わるのか、がドラマの持ち味になる。昔、サラリーマンの舘ひろしさんと女子高生の新垣結衣さんが入れ替わった「パパとムスメの7日間」というのがあった。舘ひろしさんが女子高生というのが印象的で面白かった。

それでいうと、今回の綾瀬はるかさんと高橋一生さんが入れ替わるというのは、とてもいい。高橋一生さんの冷たくサイコな目つきを綾瀬さんが再現する演技はゾクゾクする。一方、中身が女性という設定を演じる高橋さんも、オカマに見えるのではなく、中身が女性という設定の枠から外れていないところがすごい。ちょっと暑苦しい感じや溝端淳平さんを叱る様も違和感がなく、設定がすんなり入ってくる。

 

テレビ朝日の土曜日。

23時からは小芝風花さん主演の「モコミ」で、23時半からは生田斗真さん主演の「書けないッ‼︎」

「僕の彼女の生きる道」をはじめとする「生きる道」シリーズの橋部敦子さん脚本作品。全体的に静かでモノクロな印象の脚本に、落ち着いたキャスティング。その分だけ、ものと会話する演出や橋爪功さん演じるおじいちゃんが周りを振り回す場面が動的に映えている。

個人的に「俺の話は長い」の演技がとんでもなく大好きだった生田斗真さんと「龍馬伝」や「救命病棟24時」、それから刑事と検事の関係をコミカルに書いてめちゃくちゃ面白かった「ケイジとケンジ」の脚本家、福田靖さんによる脚本家をめぐるめぐる物語「書けないッ‼︎」も面白い。ドラマの制作現場を中心に、脚本家とその家族の奮闘を描いたもの。ドラマの制作現場というと、私はどうしても「最後から二番目の恋」のドラマプロデューサー千秋さん(小泉今日子)が振り回せれてるシーンを思い浮かべるのですが、今作はそのプロデューサーが振り回す役。これを演じる北村有起哉さんの強いものに巻かれて、フラフラしているいい加減っぷりがいい。その下で働く長井短さんの脱力感も好きだ。

 

日テレは水曜日。

ロンバケ」、「オレンジデイズ」恋愛ドラマのベテラン北川悦吏子さんが、菅野美穂さんと池辺美波さんとメインに書いた「うちの娘は彼氏が出来ない」もザ・お王道をいく楽しさがある。今のところ見せているトリッキーな展開のない物語も北川さんだと飽きがない。先の見えた展開が彼女の作品になると待ち遠しい展開に変わっているのだ。振られると分かっているからこそ、そのシーンが待ち遠しい。そして、予想していた通り、振られたのに、ちょっと切なくなる。それが彼女の脚本の魅力だと思う。

これを書いている現在の最新話でも、ゴンちゃん(北村一樹)にお見合いが時には、碧(菅野美穂)は振られる、それがこの回のクライマックスって予想がつくのに、廃校になる学校に忍び込んで、言い間違えちゃうシーンは分かっていたのに、少し、気持ちが動いてしまう。

 

あとはフジテレビの木曜日。

韓国ドラマのリメイク版「知っているワイフ」

日本版脚本は前出の橋部敦子さん。過去をやり直す系のタイムスリップドラマはいくつもあるが、この作品にはそこに生瀬勝久さんが謎めいて絡んでいて、先が気になる。過去の回想シーンで見せる広瀬アリスさんのド迫力の怒号シーンとタイムスリップ後の穏やかな笑顔とのギャップがすごい。私は主人公に感情移入できないし、だからと言って、他に共感を求められるような描写がされた人物も出てこない。それがこのドラマのいいところだと思う。過去を変えた主人公のわがままぶりには共感できないし、かと言って、夫婦にならない世界線で生きている美緒(広瀬アリス)にも共感の要素がない。そこから話を展開させて、感情を動かす恋愛ドラマは少ない。

 

テレ朝の木曜日。「最後から二番目の恋」で大好きになった岡田惠和さん脚本のドラマ「にじいろカルテ」やフジテレビの土曜日、「その女ジルバ」もなんだかんだ見ている。

 

テレビドラマはもう私の生活に欠かせないものになっている。もう数ヶ月ドラマの視聴期限に追われる生活が続くのだ。

なんかもっと主観と論理でもって、テレビドラマを体系立てて論じたり出来ないものだろうか。

ずっと考えている。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

ガラガラ

 

どうもこんにちは。

 

一月が終わる。

1ヶ月前は、一年が過ぎるその速さを挨拶の常套句として、みんな身体的に感じていたのだが、12分割したうちの1が過ぎるとも、さほどの体感がない。

こうして、いくらか過ぎて、梅雨が終わる頃、半分過ぎたことを体感して、その速さが膾炙される。

バナナマンくらいだと思う。毎週のようにその速さを体感している人たちは。彼らは毎週のように時間が経つ速さに驚いている。

 

2年前に職場のアルバイトが就職で退職する時に、SABONのハンドクリームか何かを送った。

店員さんが気を利かせてくれて、紙袋を2枚つけてくてたのだが、一枚しか使わなかったので、余った一枚に小銭を貯めるようになった。

毎日、帰宅すると財布の中の100円以下、50円玉と10円玉、5円玉、1円玉を入れる。たまに、気が大きくなったときだけ、500円玉なんかも入れてみる。

目標金額や目的があったわけではないが、いつのまにか習慣になって、気がつくと紙袋の中は半分くらいが小銭で一杯になり、ずっしりと重たくなった。初めの頃は持ち上げて、重たくなった重量感に満足していたのだが、元はハンドクリームを入れるための紙袋、次第に持ち上げることすら憚られるようになってきた。いつのまにかこんなに重たくなっている紙袋に時間の過ぎる速さを体感した。

 

先日、その小銭を銀行に預けていくらになった数えてみることにした。

窓口に持っていくのは行員さんの手を煩わすようで申し訳ないので、ATMで入金することに。

一回の取引で入金できる枚数は100枚まで。紙袋いっぱいの小銭を全部入金するまでに15回の入金記録。

99円の記録はおそらく1円玉を99枚入れたのだろう。あと一枚入れれたのに惜しい。4500円なんて大きな記録もある。これは100玉45枚だろうか。あと、55枚も入れれたのにもったいない。欲張り過ぎて、100枚を遥かに20枚以上超えて、戻されたこともあった。硬貨を数えるガラガラという音が私のATMから常に聞こえる。

15回の入金の間、隣の人は入れ替わる入れ替わる。後ろには長い列。金曜の午後というATMが一番混む時間帯。

行員さんに利かせたはずの気がこんなところで裏目に出る。ネット詐欺の被害にあったハライチ岩井さんのトークを笑う相方澤部さんの笑い声をやけにうるさく感じる。

 

2年ほど貯めた小銭は17,223円になった。

特に使い道はないし、このご時世、使うような遊びもしづらい。

このまま貯金用の口座におとなしく眠るだけである。

 

帰って、財布を取り出して、同じ紙袋に23円を入れた。

また数年後、紙袋を持ち上げるのに憚られる重さになった頃、行員さんに要らない気を使って、後ろで並ぶ人たちの後ろめたさを硬貨が数えらるガラガラという音でかき消して、入金するのだろう。

その頃には、今回の分と合わせて、どこかに旅行に行けるくらいの世の中にはなっていて欲しい。

 

では、こりゃまた失礼いたいしました。