なんてたってジョニー

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手に

印象派を引き継ぐおばんさんのお話

 

どうもこんにちは。

 

仕事が終わって帰宅する午後、本を読もうとか、書き物しようとか、ボーッとしようとか、って言うんで週に2日くらい喫茶店に入る。

茅ヶ崎の海岸沿いは個人でやってる静かな喫茶店が多いので、チェーン店に比べてちょっと高く付くけど、そう言うところに入る。

食べるものはうちにあるんでコーヒーだけのつもりで入るけど、帰ってうちで食べればいいものをなんかついつい軽食も頼んでしまう。

 

喫茶店に来ると、お金払ってコーヒー飲んでんだからなんかしなきゃと、こうして今みたいにブログを書く。

 

ここに入って1時間半くらい。

注文したカルボナーラを食べて、読みかけ本の続きを読みながら、いつの間にか寝てて、目が覚め、今。

 

こういう純喫茶みたいな雰囲気はなかなかないので、すごく好き。

好きなだけなんだけど。

 

コーヒーを飲むと眠くなる。

もう体質とかなんだろうか。

でも、コーヒーの香りがアロマ的な効果を持っていてて言うなら分からなくもない。

 

ただ、世間的にはコーヒーはカフェインの効能から眠気覚ましってことで名を通している。

 

コーヒーパラドックス

リラックス効果の強い香りに癒されて眠るのとカフェインの効能で目が冴えるのとテーゼとアンチテーゼ、それを体感している私はとりわけアウフヘーベンってところかな。

こんな弁証法ヘーゲルでも思いつくまい。

もっともヘーゲルはこんな命題よりもうんと難しい問題に挑んでるんだけどね。

 

18世紀のフランスでは芸術家がサロンと呼ばれるこういうカフェで集まってコーヒー飲みながらお互いの創造力を刺激しあったんだそう。

作曲家のドビュッシーや画家のモネとか。

わかる気がするな。

こいういうところで人と話すとつい時間が経っていて、あれこれいろんなところに話が飛んで面白いもの。

 

私の隣の50代の女性3人もずっといろんなこと話してる。

とりとめもなくて、繋がりも脈絡もない会話。

きっと書き起こしてみたら、サミュエル・ベケットも驚きの不条理感。

そんな会話がすっと続いている。

 

きっとこの会話も18世紀フランスの印象派の巨匠たちの創造的刺激に感化されたもの。

この会話もドビュッシー交響詩も変わらないんだね。

 

となると、この駄文だってすごいものに思えてくるね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

ラーメンのネギ、チーズケーキのミント

 

どうもこんにちは。

 

台風が過ぎ去って心地のいい暖かさ。

なんだか春のよう。

なんてことを思いながら、観光シーズンが過ぎ去った江ノ島に遅ればせながら遊びに来た観光客にインスタ映えする色鮮やかなご飯を提供する毎日。

本当に毎日ってくだらないくらいに繰り返されるね。

淡々と同じことをこなすだけ。みんなそんなもんかしら。毎日違う一日一日を過ごしている人なんて都市伝説なんだろうか。

 

そんな毎日で繰り返される作業の一つがネギを刻むこと。

毎日、消費される大量のネギの波に飲まれないように、こちらも負けじと刻みネギの波を起こす。

一日10本から多い時には40本近く刻まれるネギたち。

実は、私はネギが大っ嫌い。

人間の食べるものではないと思ってる。

神が人間を創造したとして、今の人間の在り方に別段の不満はないけれど、ネギを食べるようにしたことだけは唯一いただけない。じゃあ、そもそもネギを創造するなって話か。

 

こんな大っ嫌いなネギでもラーメン屋でネギ抜きを注文することはまずない。

だけど、絶対にネギは食べたくないから、綺麗に避けて食べる。

この技術は特許が取れるんじゃないかしらってくらいお見事なもの。自分で言うのもはばかられるけど。

コレを見た知人はその高い技術力に驚くと同時に、いや、ネグ抜けよという。

うん、ごもっとも。

でも、私にも言い分はある。

 

じゃあ、食べないけど付いてくるチーズケーキのミントを抜きで注文しますか?

 

ってなわけだ。

私は、どうだ、答えられるかい?としたり顔で言う。

それっぽいことを言う人はいるが、みんな今一歩のところで、この議論のくだらなさに気付いて、催眠から覚めたように話をそらす。

くだらないってことは自覚してるのね、私も。

 

じゃあ、食べれるようになれ。

うん、ごもっとも。

 

でも、これは絶対ない。

 

昔、よくお付き合いしていた人とラーメンを食べ歩いてた頃、ネギを彼女の器に移して食べてもらってんだけど、その方と別れるってなった時に「ネギが食べれるようになんないとね、もう食べてくれる人いないんだから」って言われて、なんかその言葉が引っ掛かって克服する気になれない。

おかしな呪縛をしていった人だよ。

おかげで今もネギに脅かされる毎日。

 

ネギ一つを克服するだけでも、繰り返される毎日が少しは変わるのかしらね。

踏み出すか出さないかは私次第。

って言い回しは都市伝説か。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

監獄のお姫さま

 

どうもこんにちは。

もう天気の話はこりごりですね。

長崎じゃなくたって今日も雨だった。

 

今日は書こうね。

そう、「監獄のお姫さま」について。

 

放送後、ちょっとネットをのぞいて見ると、視聴率が伸び悩むんだとか。

そもそも、私は「あまちゃん」までクドカンが視聴率を伸ばしているのを見たことがない(こう言っちゃ失礼だけど)し、「あまちゃん」のシナリオブックの中でも、キョンキョンクドカンのことを「視聴率に恵まれない」とはっきり書いている。

 

こんなにアプリとか録画機能が進化した今、リアルタイムの視聴率にさほどの意味もなかろうに。

それに、なんてたって面白いもんは面白い。

今作も面白い。私は自信を持って言う。

 

クドカン×キョンキョンのタッグはNHKの朝ドラ「あまちゃん」が記憶に新しいが、やはりTBSと言うと「マンハッタンラブストーリー」が真っ先に浮かぶ

テレビ局の向かいにある今時珍しい純喫茶マンハッタンを舞台にマスターと常連テレビ関係者が織りなすラブコメ

キョンキョンはこの作品でタクシー運転手のヒロインを演じている。

ちなむと、今作登場の森下愛子さんは落ち目に悩む恋多きベテラン脚本家を、塚本高史さんはバンド活動(ちなむにちなむと、このバンドには若き日の星野源が参加している)をしている実は訳あり純喫茶マンハッタンのバイトを演じている。

 

まあ、そんなところも後でもう少し掘り下げよう。

 

まず、今作の特徴は「時間軸」にあると思う。

クドカン作品は常に何かの対比で描かれることが多く、例えば、「あまちゃん」なら『都会⇄田舎』、「タイガー&ドラゴン」だと『笑い⇄ヤクザ』、「木更津キャッツアイ」や直近の監督作品の映画「TOO YOUNG TO DIE!」では『生⇄死』、ちょっと変わり種だと「吾輩は主婦である」では『主婦⇄文豪』も。この対比の中でコミカルな展開が生まれている。

 

その中でも、ところどころ目につくのが『過去⇄現在』の対比。

先に挙げた「あまちゃん」でも『過去⇄現在』は春子(キョンキョン)とユイちゃん(橋本愛)を重ね合わせてあぶり出されている。

それ以外にも「ごめんね青春」は本筋が過去と現在をめぐるストーリーだし、時間軸という点おいては、過去でなく未来で見ると、「未来講師めぐる」は『現在⇄未来』の対比が見て取れる。

 

そして、今作でも時間軸の対比はかなり明確で、印象的なセリフが

 

ずうずうしいんですよ、犯罪者って
時間巻き戻せると思ってるんです
刑務所のことタイムマシンか何かだと思ってるんです
出てきたら犯した罪までチャラになると思ってるんです

 

という元看守役の満島ひかりさんのセリフ。

このシーンでは満島さんが伊勢谷さんにあげたおにぎりを、口をつけたのを見計らって返すように求める。もう戻らないおにぎりを前に「時間は戻らないこと」を強調している。

なんだか「カルテット」の唐揚げのレモンを思い起こす。

私はこのシーンを満島さんだから書いてんじゃないかと推察してるけど。

 

そして、時間軸でいうと、冒頭。

繰り返される「サンデージャポン」のオープニング。

なんども繰り返されるサンジャポのオープニングは夢から覚めるごとにシーンが少しづつ延びていき、その度にフラッシュバックする過去のシーン。

やっぱり時間軸がキーになってるみたい。

 

次話からはそれぞれの女囚たちが刑務所に入所する過去と現在が刑務所内での群像劇を通して描かれることだろう。

ますます『過去⇄現在』中心になってくるんだろうね。

 

ただ、パンパンと小気味いい会話のテンポ感とガツンと来る強烈なキャラがちょっと弱いような。

ショッピングモールでお茶するキョンキョン、坂井さん、森下さん3人がキョンキョンの新しいあだ名を考えるところとかはいいテンポだけど。

 

最後はなんと言ってもパロディ。

クドカン作品ではその時その時のものパロディとして書いて笑わせることが多い。

今までいろんなパロディがいろんな作品で描かれてきたが、今作では、過去のクドカンのパロディが多い気がする。

 

例えば、キョンキョンと坂井真紀さんが子供を誘拐するシーン。

二人は、子供が好きな戦隊ものに変装している。

これって「マンハッタンラブストーリー」のコスモレンジャーじゃないかと。

「私、変態なんです」の名言を生んだコスモレンジャーだ。(わからない方は是非、「マンハッタンラブストーリー」みてください)

 

あとは名前。

足立明美、馬場カヨ、勝田千夏、大門洋子、江戸川しのぶ、古井ふたば、と頭文字を取るとABCDEFとアルファベット順になっている。

これについて、クドカンは自身のラジオで偶然と述べているが、過去にクドカンがこの仕掛けで面白いどんでん返しを起こしたのがまたまた「マンハッタンラブストーリー」だ。 

 

サンジャポ冒頭で太田さんがいう「じぇじぇじぇ」は流行語大賞を取った「あまちゃん」の代名詞とも言えるセリフ。まあ、これは太田さんのアドリブかもしれないけど。

 

こんな感じに過去作を思い起こさせるくだりがちらりほらりと。

 

 『過去⇄現在』を中心に据え置いた設定の中で、クドカン自身の『過去⇄現在』がところどころ見え隠れしてくるのではないかと次回にもワクワクが止まらない。

 

 

というなんでもない感想でした。

長かったね、ここまで。

読んでいただいた皆様ご苦労様です。そして、書いた私も。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

書きたいこと色々、だけど今日は湘南

 

どうもこんちは。

 

昨日までの長雨から一転、今日は気持ちいい天気に。

昼間働く江ノ島のお店の窓から見える青空がとても気持ちよかったね。

まあ、これも束の間、明日からまた長雨に戻るらしいね。

 

今週はラジオ界が盛り上がるスペシャルウィーク

昨晩はTBSラジオの「アルコ&ピースのD.C.GARAGE」と「爆笑問題カーボーイ」が最高だった。

普段録音の2番組が生放送。

骨の放送とショートショートショートの放送と、ってもこれじゃ聞いてない人はわかんないですよね。

これがラジオのいいところ。

聞いてる人だけにわかる熱量。聞いてるやつだけついて来いってスタンス。

それでいて、一度聞いちゃえば、すんなり受け入れてくれる包容力。

テレビとは違った距離感を聞いてる人とパーソナリティーの間に作っちゃう。

スペシャルウィークはなおのこと。

 

…ってラジオについても語りたい。

けど、そんなラジオの前に、待ちに待った新ドラマ、クドカン×キョンキョンの名タッグ「監獄のお姫様」の初回。

これは面白っかたね。

クドカンって何かとパロディが多いけど、今作は今までのクドカンのパロディって感じ。

会話の空気感、小ネタ、ありそうでないけどやっぱりある展開、ずっと期待したものをやっぱり画面に映し出してくれる安定感。

本当に待ちに待ったって感じ。

初回だけでもう満足。こっから回が進むごとに重層的になるコント。

名コメディエンヌ達よ。

こっちの熱量も半端ない。

 

そんなことを考えながら、例のごとく江ノ島から自転車を漕ぎながら海を走っていると、ふと住宅地へ入ってみようかと。

 

鵠沼海岸の辺りから国道134号を1、2本住宅地に入った道は物の見事に家家家。

当たり前か、だから住宅地だもんな。

やっぱり湘南って言うからには、ウッドデッキの付いた木目のお洒落な家が立ち並ぶ。

辻堂に入っても変わらず立ち並ぶ家家家。でも、こっちの方がちょっと高級感。

言われてみれば、停まってる車も外車が多め。

んで、帰ってまいりました我が地元、っても越してきて4ヶ月のにわかだけどね、茅ヶ崎

ちょっと古びた感じ。

いや、これはディスってないよ。

ちょうどいいんだよ、このちょっと古い感じ。

そうか、「びた」良くないのか。この響きがなんとなしにディス感を思わせてるな。

 

藤沢と茅ヶ崎はおんなじ湘南でも、捉え方が違うのかな。

ちょっと気取って湘南ブランドに肘をついてもワインを飲んでる藤沢、缶ビール片手にビーサンで歩くのが茅ヶ崎の湘南。

 

あくまで私の感覚よ。

 

湘南になろうなろうとブランド作る土地と、普段の生活が湘南になってく土地。

こんな違いを感じる。

 

テラスモールが出来て何周年かのこと。

小田急の広告に「湘南というブランド」ってキャッチコピーに無性に腹が立ったことがあった。

 

湘南はブランドなんかじゃない。ブランドなんて低速な権威でくくるな。

 

というのが当時の私の言い分。

あの頃は私は自分で認識のある権威嫌いだった。

まあ、いまもその節はあるんだけどね。

ただ、感覚で権威を嫌うのはただの思春期だ、尖ってるだけだ、と思っていたので、この反権威主義を理論的に説明しようとあくせく頭を回転させていた。

ある時、こうやって権威を嫌って考えていることも一種の権威主義ではないかと思うようになってから、なんかそれはそれでバカバカしくて考えるのをやめちゃった。

 

まぁ、どちらにしろ若気の至り的な尖り方だよね。

でも、あの頃はよくいろんなことを疑っては反駁したいと考えてたね。

それを書き殴ったノートを見返してみると冷や汗もんだ。

 

あれはあれでちょと面倒だけどいい時間だったのかね。

 

では、こりゃまた失礼しました。

 

 

雨に降られて、背負い投げ(しょいなげ)食って

 

どうもこんにちは。

 

ずっと雨だね。

この雨は長いね。

寒くなる気候に追い打ちをかけるかのように降る雨。嫌な奴だね。

 

雨の降る日は傘がいるね。

だいたい、みんな傘なんか持ってるのに、雨が降るたびにコンビニの入り口に傘が並ぶのはどういうわけか。

こんなに雨が降るって天気予報で言ってるのに、出先で降られて傘がないなんて間抜けもそうそういないだろうに。

 

フラれるはフラれるでも、こっちは「降」られるじゃなくて「振」られるの話。

 

浅草の観音様の裏ってにあった吉原。

あの里で花魁に振られること(お金を出して会いに行ったからと言って必ず会ってくれるわけではなかった)を「しょいなげを食らう」と言ったらしい。

 

うーん、なかなか粋だ。

粋がどんなもんか知らんが、こういうのは粋なんだろう。

 

たしかに吉原で遊んだ次の朝、

「おい、お前さん昨日どうだったよ」

「それがよ、フラちゃったよ」

「なんだい、情けねぇな」

「ってぇところをみるとなんだい、お前さんはたいそう楽しい夜だったんかい」

「いいや、フラれたよ」

「んだい、それじゃない俺と同じじゃねぇか」

 

ってのはちょっと野暮ったい。

フラれるって響きが良くないのか、江戸っ子だと巻き舌を駆使するから、「られる」って続くのが良くないのか。

 

しょいなげってのは漢字にすると「背負い投げ」。

「しょいなげを食らう」でひとつの慣用的表現があるらしい。

意味は「相手を信じていたのに、最後のところでだまされたり裏切られたりしてひどい目にあう。」(デジタル大辞泉より)だという。

たしかに、部屋に来ると信じていた花魁に裏切られて独り寝のひどい目にあうってのはしょいなげを食っている。

 

なんか響きがいいな。

しょいなげね。気に入った。

 

明日は晴れるかな。

自転車通勤に雨は辛い。

晴れると信じて、裏切られて、天気に食いたくないな、しょいなげ。

 

雨が降る日は悪天候。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

大きな江ノ島、小さな烏帽子岩、それからドビュッシー

 

どうもおはようございます。

おや、このブログを始めて4ヶ月ほど、朝の挨拶から始まるのは初めてかしら。

 

先週から前回ご案内の通りチャリ通を始めることに。

チャリ通って言ったってチャリティーに通うことじゃない。チャリで通勤すること。

んなこたぁ、分かってるか。

 

茅ヶ崎のサザンビーチを出発して、辻堂、鵠沼海岸江ノ島と海沿いを走ること30分ちょい。

やっぱり大好きな海沿いを走るのは気持ちいい。

特に朝の海は綺麗で、銀色に陽の光が反射する海面、潮風、潮騒はこれから仕事に行くとは思えないほど、穏やかな心持ちにしてくれる。

目の前にそびえる烏帽子岩の奥に小さく見える江ノ島

15分も自転車を走らせると、いつの間にか烏帽子岩が小さくなって大きくなってる江ノ島

この二つのコントラストで自分が自転車を走らせてきた距離を知る。

チャリ通を始める前に不安だった、仕事に疲れた体で自転車を走らせる帰りもなんら問題ないし、電車の乗り換えとかを考えたら、むしろ短い通勤時間で済んでるし、適度な運動になってるし、今の所心身ともにいいんではないかと。

 

朝、海を走っているとドビュッシー交響詩『海』を聴きたくなる。

色彩的なフレーズと響きが特徴のドビュッシーは昔から大好きで、この曲はいろんな指揮者で聞いてきたけど、やっぱりシャルル・デュトワ指揮のモントリオール交響楽団のものが一番好き。

 

本当に色彩的。

音楽を色で例えるのはどうかと思うけど、こういう言い方が一番ピンとくる。

 

でも、音楽の話をしてると、空間的とか、色彩的とか結構抽象的な言い方をするけどみんな案外分かるもの。

不思議だね。

 

ただ、抽象的な言葉でしか表現出来ないからこそ、音楽はあるのかもしれない。

言葉の狭さを思い知るね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

流されない竿を情に刺す

どうもこんにちは。

 

まだ読み終わってないけど、最近読んでる本の話。

内田樹さんの「知に働けば蔵が建つ」を読みながら、私が常に考えることがいよいよ正しいんじゃないかと思うようになってきた。

今の社会において、個人が思考することがいかに重要かということだ。

特にコンピューターが発達してから人間は「知ってること」より「考えること」の方が重要になってきているのに、そのことに対する認知が低いように思う。

内田さんはこのことについて、序章の「はじめにー知性と時間ー」という教養と雑学の違いを時間を交えて説明している章でわかりやすく話している。

 

知っていること、つまり雑学の記憶量ではコンピューターの右に出る人間はいない。

しかし、何かを知覚するとき、人間は知覚できている一部のことから全体を把握することができる。その全体の把握には別人の人格を思わせるくらいにいろんなプロセスを介している。

そのように私たちが知覚する以前に、言い換えれば、知覚していることが表層化される前に行われている、まだ知覚されぬ知覚(閾下知覚)を経て知覚が知覚されるのには時間がかかる。

その時間のかかるプロセスを行えるのが人間なのだ。

 

内田さんの本を読んでると目からウロコなことばっかり。

言ってることがごもっとも過ぎて、現代社会を生きるのが嫌にってくるくらいよ。

あれだけの濃厚な内容を全ては書けないので、一番印象的な章を一つ。

 

戦後、侵略が進んだ個人主義は、バリバリに働く江角マキコみたいなキャリアウーマンを生み出し、渡鬼の世界の人間のように家族や世間に縛れる私たちを解放してくれた。

さて、その後だ。

私はこうありたい、私はこんなことに縛られたくない、と個人を強く前に押し出した結果どうなっただろうか。

端的に言えば、家族という最小の共同体は解体され、学校での教育や公共的な支援活動は見直しを迫られている。

すなわち、共同体のない無防備な私たちに、無防備であることを自覚させ、その中で生き残るために我々は自分に内包されていると信じてやまない希望を捨てることを迫れているのである。自分は特別だという過大な夢を持つことが邪魔なのである。「オレ様化」した子供は夢が破れた途端に無防備な社会で生きることに嫌気がさしてしまう。

「みなさんがおっしゃったので、『こういうこと』になったわけである。誰を恨んでも始まらない。」と内田さんはいう。

そして、最後に内田さんが出した「将来的に『希望』をつなぐことのできる唯一たしかな道」でこの章の筆を置いている。

 

考えることは案外面倒なことで、思考したからといって誰に褒められでも、喜ばれるでもない。そもそも誰も求められてすらいないのかもしれない。

それでも、哲学者と呼ばれる人たちは考え、書いて、発表している。

生産性がないと言えば、物理的な生産はほとんどない。

なぜだろうか。

キリストの「人はパンのみにて生くるにあらず」じゃないが、物理的にものを生み出すことが全てではない。

人が考えたものを読む度に自分も何か考えるように迫られる。

 

それにしても、タイトルの付け方がいつもセンスがないね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。