AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

「滞」今年の一字

 

どうもこんばんは。

 

なんかいろんなことが停滞してしまってるな、と思う今日この頃。

出勤時間が14時なのをいいことに起きる時間が遅くなってやりたいことが全然なされていない。なんだか無駄に時間が浪費されるだけ。これも本当に良くないなと。

 

まず、朝起きる。

なんと当たり前のくだらない目標だろうか。文字に書き起こすのも馬鹿馬鹿しい。

 

今年もあと半月。別に平成最後がどうとかいうことじゃないが、中身のある生活をしよう。

 

ふとした気に、私は何をしているのだろうかと、生活というか存在自体関して投げやりな気分になる。かといって死にたいわけではないんだけど。でも、音楽がやりたいとか、私が何をしたいのか、行方が分からなくなる。生きている今が何も残らないことに対する怖さのようなものがある。

未来に何があるにだろうか。何かがあるであろう未来に、今がどう関わっているのだろうか。何もないような気がしてある種の恐怖心に押し殺されそうになる。

 

まあ、今が未来と断絶していることは絶対にないし、なんらかの影響があるんだろうけど、それでも今の過ごし方が未来を作るとは思えないし、こんな今に続く未来なんてたかが知れてるだろうし。

 

私はどうも自分を律することができないんだな。

そのくせ理想や希望はアホほど高い。分不相応も甚だしい。

 

でも、やりたいことを諦めたくない。

では、どうする。

 

朝起きるなんて底辺から律していくしかない。底辺からしかできないんだから。できる気になってんじゃないよ。

 

今日は随分と自分自身に喧嘩腰。理想側の私の堪忍袋が切れないといいんだけど…。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

日テレドラマ「獣になれない私たち」

 

どうもこんばんは。

 

最近の寒さは気まぐれだろうと思ってたら、そうでもないようで、いよいよ寒さが本腰入れてきた。自転車で通勤する身としてはなかなかしんどいね。

 

帰り道、寒さに耐えかねて途中で24時間のファーストフード店でコーヒー飲みながら、これを書いたり、習作の書き物したり、本読んだり。

こういうところは一回入るとなかなか抜けられない。

長風呂してる時のよう。長風呂しちゃって湯船の温度は下がっちゃってこのまま出ると外でガクブルする羽目になる。それは嫌なんで湯船から上がれない。かといって、ずっと入ってるから湯ベネの温度が上がるわけもなく、むしろ、ますます温度は下がって、出にくくなるばかり。そんな感じだ。

追い焚きすればいいんだけど…

 

席に着いたら、まずコーヒー一口。そのあと、一応ほぼ日のアプリを開いて、糸井重里さんが毎日更新するエッセイみたいなものを読んで、脳内のスイッチを入れておく。アプリ内の特集対談なんか読みながら何を書こうか考える。気持ちが作れたら、はてなブログのアプリを起動させてこれを書き出す。

 

で、なんか行き詰まりを感じて、カバンの中の本に手を伸ばす。

いくらか読んで気分を転換したところで再開して、なんか腑に落ちないなと思いつつ筆を置く。

それで出来たこれをお読みなる皆さんに適当なもので申し訳ない。

 

一昨日、最終回を迎えた「獣になれない私たち」がすごくよかった。

f:id:sascoca:20181214234025j:image

大人がちょっとづつ成長していく物語。その「ちょっとづつ」というのが肝心で、どんなにあがいても人間の成長は微塵なんだ。その微塵というのは周りの人間から受けるいろんな影響で、このドラマはその人間関係の描かれ方とても良かった。

変えたいのに変えられない晶。変えらるのに変えない恒星。10話掛けて、いろんな影響を受けて、2人は変えらる晶。変える恒星になれた。その時、2人は職や社会的信用を失っているが、新しい生活は晴れ晴れしている。 ヴィンテージのクラフトビールを飲みながら。

京谷を飛び越えて生まれる晶と朱里の仲や、呉羽と恒星の関係。書かれる人間関係がいい。Tap5で待つ松尾貴史さんがなんとも暖かい。

終わりを迎えそうな晶と京谷の切ない感じが実にリアル。終わりそうなのに終止符を打つ踏ん切りを付けづにいる2人の心情がどこかで共感できる。

上手くいってるようで、実はなんかしら抱えるものがあるもの。自由な大人なようで実は自由じゃない。そんな人間が自由になりたくてもがいてる様は、あー私のようだな、と自分と重ねてしまう。

 

脚本の野木亜紀子さんはちょっと前には石原さとみさん主演で「アンナチュラル」に恋ダンスで一躍有名になったドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」など。他にも黒木華さん主演では「重版出来」なんてもある。あとは「掟上今日子の備忘録」「空飛ぶ広報室」。NHKでは「フェイクニュース」が話題になりました。

原作ものでもオリジナル脚本でもとにかく、登場人物がリアル。現代によくあるリアルな人物描写が魅力。その上で築かれる人間関係が、物語が進むにつれて磨きがかかって深みが増してくる。人間関係に深みが増すほどに物語に深く感情移入できる。野木作品は毎回感情移入できるので観た後の余韻がこれまた魅力的だ。

f:id:sascoca:20181215000431j:image

今回も最後の教会のシーンからの余韻がいい。まさに野木作品。いいドラマだった。

 

獣になれない私たち DVD-BOX

獣になれない私たち DVD-BOX

 

 

観てない方は是非。これが良かったら他の野木作品もおススメです。

 

アンナチュラル DVD-BOX

アンナチュラル DVD-BOX

 
逃げるは恥だが役に立つ DVD-BOX

逃げるは恥だが役に立つ DVD-BOX

 
重版出来! DVD-BOX

重版出来! DVD-BOX

 
掟上今日子の備忘録 DVD-BOX

掟上今日子の備忘録 DVD-BOX

 
空飛ぶ広報室 DVD-BOX

空飛ぶ広報室 DVD-BOX

 

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 







 

落語の話に流れ着いた噺

 

どうもこんばんは。

 

急にめっきり寒くなって何事かと思う。

ほんの数日前まで暖かかったのが嘘のように寒い。

寒いなぁと思ったところで何も変わるわけではないけどね。

 

一気に年末ムードを漂わせた街はなんとなく歩きづらい。

「平成最期の」に踊らされたくない思いからか、例年以上にイベント事を避けてきた。とことんな天邪鬼だ。これから先もクリスマスに向けて特に何かしようとは思っていないかな。

 

最近、千早茜さんと尾崎世界観さんの共著「犬も食わない」を読んでて思うのは、当分、現代人の若者の恋愛ものはいいかな、ということ。別にこの本が面白くないわけでも、中身がないわけでもない。なんとなく共感でいる部分とどこかで反発してしまう部分と混在する。今までは、高いリアリティの分だけフィクションがメタ化してるような錯覚が心地よかったんだけど、最近はそれが物語の没入感を変に深くしすぎるような気がしてならない。どこか起きてるようで起きていない物語であって欲しいのに、自己体験とフィクションが近い分だけ起きてしまっている既視感がつきまとう。

 

それでいうと、落語というのは起きているようで起きていない物語で成り立つ。噺と自己体験が遠いところの物語なので没入感は浅くて済む。むしろ、没入感が浅いからこそ演者によって全く違う噺に色を付くようになるとも言える。しかし、自己体験とリンクするところがあるので、共感は強い。

落語を聞いたことない人によく私が口説き文句でいうのが、YouTubeにある落語をどれでもいいから10席聞いてみて欲しい。うち9席は人ごとでつまらないかもしれないけど、1席だけ、しかもどこか一件だけ、「あれ?これあの時の私と同じじゃん」と自己体験とリンクするところがある。これが見つかれば、落語への興味がどんどん湧く。江戸時代の架空の誰かさんと私が重なる瞬間を楽しむのは落語特有の追体験に他ならない。こんなに楽しいことはない。

 

現代の落語史に名を残す噺家立川談志は「落語は業の肯定」と定義する。私たちの体験とリンクする落語が業の肯定ならば、私たちの生活も「業」そのものだということになる。そんな気がする。それを笑えるのだとすれば、落語というのは実に面白いものではないか。

 

そして、それらが進化した形になるのが新作落語だ。

 

現代を舞台にした新作落語は自己体験との距離感がぐっと縮まる。しかし、落語という形式のおかげで、没入感が浅い。つまり、先の小説で見たような既視感を感じることなく、自己体験とリンクさせることになる。

新作落語で私が一番好きなのが柳家喬太郎作「ハンバーグが出来るまで」と立川志の輔作「みどりの窓口」って作品。

 

[라쿠고]야나기야 쿄타로(柳家喬太郎)-함바그가 만들어지기까지(ハンバーグができるまで) - YouTube

立川志の輔 みどりの窓口 - YouTube

 

どちらも現代の作品なのに私たちの体験と近く過ぎず、つまり、落語というフィルターの中でリアリティを欠いているから、没入感の深さに邪魔されず、自己体験とのリンクが楽しめる。

 

こんなこと言うつもりではなかったのに、いつのまにか落語を解析するようなことをしてしまった。

実は、大学時代は落研で全国大会にも出たことがあるくらい落語が好きな私。

戦前の名人から現代の売れこっまでいろんな音源を聞いてきたし、持ちネタも2、30はある。自分で新作を作ったこともあるくらい落語好き。最近、急にその熱が再燃し始めちゃっている。そのうち、落語のことももっと書こうかしらね。

 

で、本当に書こうと思ったことは、普遍的な古典を読み返そうかなってことだったんだけど、急に「落語」ってワードが飛び出たせいで、話の方向を自分でも見失っちゃったね。

というわけで、これ以上何も見失わないうちにね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

太田さん、顔が白いからジョーカーなの…かな?

 

どうもこんばんは。

 

やっと12月だ。それもようやく1/3が終わろうとしている。2018年もやっとこさ終わる。

というのは、この時期になると、巷で聞かれる「もう今年もあと1か月だね。今年も早かったね」という決まり文句に対するちょっとした抗い。

抗う必要がないところに楯突くところが、これまた小さな抗い。

 

今年の振り返りをちょっとづつしつつ、「高輪ゲートウェイ」駅は落語好きとしては「芝浜」駅がよかったなとも思う。ただ、芝浜駅周辺ではよもや酒は飲めまい。三代目の三木助がなんというやら。2018年がこんな話題で締めくくられちゃうとちょっと情けない。


上沼恵美子さんがMー1の審査員を辞退するそうな。

千里万里の漫才はテンポといい、まくし立てる早口な関西弁をも鮮明に聞かせてしまう滑舌の良さや、流れを止めない笑い待ちの長さといい、技術で聞かせる王道の漫才師ですね。YouTubeにも18歳の頃の若かれしジョーカー……もとい、上沼さんの山口百恵の真似をいれた漫才が見れます。

そんな彼女の審査は主観が中心で、好き嫌いやセンスの違いが大きく点数を左右することがネットでも賛否両論でした。

それを酔った勢いで罵声とともに批判したスーパーマラドーナの武智さんととろサーモンの久保田さん。まあ、言い方や酔った勢いという状況は良くないが、言いたいことは理解できる。審査員の好みというのは、演者としてはどうにもならない不条理だ。久保田さんの「一点で人生が決まる」というセリフは去年人生を決めた彼がいうと確かに説得力がある。それに対して「一点決まる人生なら辞めれば」という意見がネットに上がっていた。

発言の内容や「更年期障害」という差別的な発言は批判の対象として当たり前だが、この発言の真意まで 批判されるのはどうなんだろうか。発信の仕方に問題があったのであって、内容は彼らの真剣にMー1に対峙する姿勢から来たものであってそれまで批判されるのはどうだろうか。

発信の仕方が一つでこんなにも世間は本質を取り違えて、物事を咀嚼し、ばら撒かれるものなのか。

 

酒に飲まれるのは本当に良くないね。まあ、私は下戸で飲まないけど。

久保田さんも武智さんも高輪ゲートウエイ駅よりも芝浜駅を押せるくらい落語を聴いてれば、こんなことにはならなかったろうに。

 

酒を飲みすぎた故にMー1が夢になっちまったわけでね。

いや、飲むのは止そう。また、夢になるといけねぇ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

Mー1グランプリ 2018

 

どうもこんにちは。

 

先日の日曜日、年末恒例のMー1でした。

月並みですが、どのコンビも破格に面白いし、二人の人間が立って喋るだけで、あんなにも全く違う4分間を作り出すなんて、面白くてしょうがない。こんな漫才がありなら、なんでも出来るじゃんというこれからの漫才に対するワクワクが堪らない大会でした。

それからまた色々考えました。あー随分と偉そうですよ。

これもお笑い好き故のものです。好きすぎてこうなったのです。見ていないであろう関係者各位がいらしたら本当にすいません。

 

無礼を前提に始めます。

今回は審査員の点数のつけ方が漫才の「技術点」に重きをおくのか、純粋な「笑い」に重きをおくのかで分かれたように思います。

「笑い」については観覧席の笑い声や、スタジオとお茶の間の空気感の違い、審査員の好みや主観がありますから、点数化するところが難しいところです。

一方の技術点とは見取り図の批評でナイツ塙さんが「横だけじゃなくて客席との縦の奥行きを意識して」と言ったのような漫才の方法論のようなものです。台本の面白さをいかに120%表現しきるかと言った台本のポテンシャルと比例したもの笑いに関する観点です。

 

やはり、審査に対しては毎年いろんな意見が挙げられます。特に主観の好き嫌いや年齢によるセンスの違い。賛否両論、人類がいくらかけても解決しない問題だと思いますが、私は主観は極力除かれるべきだと思います。

中学高校で吹奏楽や演劇など、文化系で点数をつけて競う部活に所属していた人は審査員の主観による審査がいかにやりきれないものか甘酸っぱい青春の記憶と共に蘇るとも思います。吹奏楽のコンクールで選曲が審査員にはまらないという理由で低い点数を付けられると、これは演奏に対する評価ではなく、作曲に対する評価になってしまうわけです。

 

つまり、「ネタが好きじゃない」という評価はわざわざ漫才師がネタを自作自演で演る大会の根底を否定しかねない意見のような気がするわけです。

ネタの良し悪しを評価するなら、台本のコンペをやればいいだけです。プロアマ問わない現行の間口の広さで行えばいいわけです。

それをわざわざ、漫才師に演じさせるわけですから、台本の持つポテンシャルをいかに表現する技術を持っているか、これを審査の対象にしなければ意味がないように思います。

 

そこで私は点数を「技術点」と「フラ点」の二項目で点数化する案を提案したいんです。

…誰に?って感じですが。

 

あーここまで何様だって感じですね。ごめんなさい。この後も偉そうです、きっと。

 

そして、審査員は「台本の持つポテンシャルの面白さ」「実際に演じられた時の会場の笑い声も考慮した笑いの量」「先述二つを変化させる触媒としての技術」の三観点で審査するのです。そして、一つ目、二つ目を「フラ点」に、3つ目を「技術点」に点数として還元します。

 

再三の…誰に?ってツッコミと共にこの採点法を私は提案したいんです。

 

とにかく、どの漫才師を面白い。これは間違い無いんです。抱腹絶倒の4分間を届けてくれるんです。

どのコンビが優勝したっていいんですよ。毎年熱い漫才師たちに我々も熱くなるんですよ。その余韻を楽しみたい。ネット上に蜃気楼のように浮かぶくだらない審査員批判でおじゃんにしたくない。そのために、しつこく…誰に?って突っ込みますが、この採点基準を提案します。

 

本当に偉そうにすいません。

おわらいが大好きです。Mー1に毎年熱くなってます。

そんなファンだからこそ言いたいわけです。

 

関係者の方々、すいません。

 

謝りゃ何言ってもいいわけじゃないぞってね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

カたチにナらナい

 

どうもこんばんは。

 

江ノ島からの仕事帰りに、海沿いのマックに寄って書く習慣が徐々に定着してきたので、日付をまたぐギリギリくらいでの更新に落ち着きつつある。

まあ、仕事前に書けばいいんだけど、これから仕事という時に何かを書こうなんて気にサラサラならない。かと言って、この時間に書こうたってそれもそれでなかなか気乗りするまでに時間がかかる。

 

どうして、人間は何かを創ろうとするのだろうか。

このはた面倒な創作意欲はどこから来るのだろうか。

 

何かを創ってみたい、という要求が常にわたしをつきまとう。振り払えないわたしは、こうして、結局何も創れないくせにコーラとポテト代まで払ってマックでタブレットに向かう。

あんな話はどうだろうか、こんな設定は面白そうだなとアイディアはどんどん貯まるのに、なかなか形にならない。

本当に形に仕上げることは体力がいる作業だ。たった数枚の短編でさえも、書き終えることが難しい。そして、書き終えた後にどっと疲れる。悲しいことに書き終わったものの陳腐さにまたどっと疲れる。

 

それでも、何かを創りたくて、Wordに新しいファイルを作る。

書きかけのファイルに埋もれて、時々書き上がる駄作。

よくこんなことをわたしは繰り返している。自分で呆れる。

 

作曲もそうだ。

ピアノソナタはおろか、16小節程度の小品もまともに形にならない。

 

ただ、いつまでもこんなでは嫌だから、勉強を続ける。

紙屑同然の文章を書く。雑音を五線譜に書きなぐる。

それで、少しでも私の創りたいものに近づくならば。

 

こうやって自分の愚かな恥部を全世界にたら流して、自分に鞭を打つ。こんなことをしてまで創りたいものはなんなんだろう。形になるまで自分でもわからない。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

本に積まれて、関所を通して

 

どうもこんばんは。

 

最近、わたしが買った本を収支計算アプリで確認してみると、こんなラインナップ。

 

ガラパゴスの箱舟 (ハヤカワ文庫SF)」(カート・ヴォネガット

パパの電話を待ちながら (講談社文庫)」(ジョン二・ロダーリ)

赤いワインに涙が…―短編集」(サガン

爆笑問題の日本原論」(爆笑問題

三三七拍子 (幻冬舎文庫)」(太田光

手鎖心中 (1972年)」(井上ひさし

思考の整理学 (ちくま文庫)」(外山滋比古

ハロルド・ピンター全集」(ハロルド・ピンター

ナナメの夕暮れ」(若林正恭

犬も食わない」(尾崎世界観千早茜

夢の検閲官・魚籃観音記 (新潮文庫)」(筒井康隆

進化した猿たち (〔1〕) (新潮文庫)」(星新一

進化した猿たち (2) (新潮文庫)」(星新一

進化した猿たち (3) (新潮文庫)」(星新一
これでおあいこ―ウディ・アレン短篇集 (1981年)」(ウディ・アレン

 

と、かなりの冊数だ。

で、この中で読み終わったものは…0冊。しかも、この中で、数ページでも読まれたものは6冊しかない。とんでもない無駄な買い物…のように見えるが、実はそんなことない。

これだけ買っておいて、読み始めたものが半分にも満たないなんて。無駄にしか見えない。

 

しかし、今数ページ読んで辞めてしまっても、いつか違う時に読んでみると、その時には面白かったりする。その時になってやっとここで買った意味が出てくる。

 

わたしにとって本を買うとは「本と出会う機会を買う」ということに等しい。そして、買った機会を家の本棚や机、枕元に積んでおく。そして、その時その時のわたしの気分や状態がその本と出会わす。何度、本屋の棚で見かけて気になっている本でも実際にわたしの部屋に来ないと、わたしとは出会えない。

では、本屋に行くわたしはどういう本と出会う機会を買うのだろうか。それはやはり、その時のわたしの気分や状態に左右される。わたしが本と出会うには二度も気分屋のわたしの関門をスルーしなければならない。これはなかなか大変だ。

 

こうして、難関をくぐり抜けた最近の本は、三谷幸喜さんの20年以上前のエッセイ「オンリー・ミー―私だけを (幻冬舎文庫)」だ。

オンリー・ミー―私だけを (幻冬舎文庫)

オンリー・ミー―私だけを (幻冬舎文庫)

 

 

あれだけ面白い脚本を書く人なんだから、どんな面白い生活をしているのだろうと思ったのに、見事に期待を裏切られる。なんというか生活そのものはなんてことないのだ。普通の人と違うことといえば、常に締め切りに追われていることぐらいだろう。

ただ、そんな誰にでもある普通の生活や、仕事に対してのちょっとした怠けも三谷幸喜が斜めにみるとなんと面白おかしいことか。誰でもちょっと思いつきそうなことを妙に面白く広げる。こりゃ、難関を通して正解だった。

 

さて、次に難関を通りそうな本はどれだろう。

なんせ本屋に並ぶ無限に近い数の本の中から、わたしと出会う機会は買われたわけである。それだけでも確率としてはかなりのものだ。それだけの確立を通った本だから次の関門を通るのは意外と容易いかもしれない。

 

さっきからわたしはなんと偉そうな言い様を。本好きな皆さん、ごめんなさい。

ただ、わたしも本が大好きだからこそなんです。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。